mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

5月8日

 いわゆる“大型連休”も終わった。

この休み、28日にもたれたわけのわからない行事には情けなくなってしまったが、後半の「憲法記念日」と「こどもの日」についてはこれまでになく意識的になり私にとっては単なる休日の日とはならなった。

改憲がこれほど露骨にしゃべられることがこれまでにあったろうか。首相は経済政策を前面に出してペットネームごときもので騒がれることですっかりいい気になり、小泉郵政選挙と同じように今度の参議院選挙では国民の大きな支持をうけるものと確信をもってきているのではないか、つまり、国民をすっかりだませていると思っているのだ。残念ながらそう思われても仕方がないと言えるほどの体たらくを見せているのだから。なんとなく豊かさ(エセ)に身を漬けてしまうと、そこから抜け出せなくなりその他はいつの間にか見えなくなってしまうのだろうか。「物」が「心」の先に立ってしまい、周りまでも見えなくなっている。そこにつけこまれているのではないか。そこをどうすれば突破できるのか。脱原発も震災復興も国の仕事としての姿はもはや見えない。福島をそっちのけで首相は財界と一緒に外国で原発商売を堂々とやっている。これで96条が緩んだらどうなるか、心配でならない。

こどもの日を真剣に考えたのも、やはり被災地の子どもたちのことがいろいろ浮かぶからだ。子どもたちが過ごすべき子ども時代を十分過ごせていない彼らの将来はどうなるのだろうか。

国分一太郎は、著書「しなやかさというたからもの」のなかで

子どものからだも自然である。柔らかい皮膚、筋肉、はらわた、血、それに骨。魂のもとである神経や脳みそさえが、物質という自然である。そうであるならば、子どもの筋肉や神経をつよくしなやかに発達させるためにも、周囲の自然との接触を活発にさせてやらねばならぬ。自然のなかであばれまわり、それにぶつかっていくことをさせねばならぬ。

と書いている。

今はどうだ。多くの子は、学校への往復をバスに身を任せている。そして多くの子は、放課後、所を替えて勉強をつづけている。

何もかも子どもが好んで選んでいるのではない。バス通は通えるところに学校がなくなったことによるのであり、塾通いは、負けた者がどうなるかひどい格差社会の姿を見せつけ語り聞かせ、子どもまでを競争にあおりたてているからだ。つまり、大人が無理に子どもを自然からはがしているのだ。「こどもの日」、新聞・テレビは少子化は取り上げていたが、国分さんの言う子どもは、どこでも見向きもされなかったのではないか。子どもの危機である。

連休は終わったが、憲法と子ども、これこそ私たち大人が今課されている未来のための体をはらなければならない仕事であろう。