mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより・特別編

  こどもたちの季節感が失われていく
       気象庁の「生物季節観測」の縮小・廃止を聞いて

 気象庁が67年間続けてきた「生物季節観測」のほとんどを年内でやめると発表しました。都市化や地球温暖化で鳥や虫は見つからなくなり、植物の標本も観測に適した場所の確保が難しくなったからというのです。
 植物はアジサイの開花、イチョウの発芽、紅葉、落葉などの6種9現象だけを残し、スミレ、タンポポシロツメクササザンカサルスベリなど28種、動物は、モンシロチョウ、キアゲハ、ホタル、ツバメ、トノサマガエルの「初見日」、ウグイスやセミの仲間、エンマコオロギの「初鳴き日」などの23種はすべて廃止です。

 観測廃止される動植物は、これまでほとんど身近に見られたものです。その姿が観測できないということは、同じ環境に生息していた他の多くの動植物も消滅しているということです。予想以上に気象変動、環境破壊が進行している警告と受け止めました。と同時に、これらの生きものは本当に姿を消しているのだろうかと疑問も持ったのです。
 観測できなくなったのは、「気象台、測候所周辺」という発表です。自然界を生き抜いてきた生きものはそんなにヤワじゃないはず。観測できなかった生きものたちは新しい環境を見つけて、したたかに生きていることが多いのです。観測地点を広げてみたり、一般の市民の協力をよびかけたりするなら、まだまだ観測は可能なはずです。観測の縮小、廃止について、気象庁のなかでどんな議論がなされたのか知りたいものです。

 今回の発表を聞いて、すぐ思ったのは、こどもたちはこれまで以上に自然から引き離され、季節感を感じられなくなっていくだろうということでした。
 東北のつづり方教師の一人であった国分一太郎さんは、著書『自然 このすばらしい教育者』(創林社)の序文に書いています。

「だれかからたのまれていうのではありません。だれかのじゃまをしようと思っていうのではありません。わたしのせつない思いからいうのです。
 どうか、おかあさん。お子さんの季節感をおそだてください。ヤサイは、季節感をいだかせられるものを食べさせてください。「はつもの」は、その季節のほんとうのはつものを食べさせてください。花も季節をおもわせるものをながめさせてください。」
 あとに続けて、ナス、キュウリ、マンサク、アジサイキンモクセイ・・・・、野菜や樹木、花々の名を次々とあげ、旬の出会いをとおして、こどもたちの季節感を育ててほしいと切々と訴えています。

 人は幼い時代に、自然のほんものの姿と出会うことで、心も体も健やかに育っていく。すべて「できあい」のものにだけ目をひかれる人になっては、季節感とともに育つ美意識も、人としての豊かな感性も育つことはないと国分さんは主張します。
 この本が書かれたのは、40年前のこと、こどもたちとほんもの自然との出会いは、当時の状況をはるかに超えて深刻です。

 小学校の国語の教材「ごんぎつね」には、美しい自然描写が多く、きんきんと鳴くモズの声、雨のしずくが光るススキ、咲き続くヒガンバナ、秋の夜に鳴くマツムシなどが登場します。この作品を授業でとりあげたとき、ススキをのぞいて、ヒガンバナ、モズ、マツムシを実際に見ている子は少数でした。墓地にヒガンバナの咲き続く場面を朗読したとき、「ああ、きれい」と思わずつぶやいた子がいました。その子は幼い頃に田舎のおばあちゃんとあぜ道に咲くヒガンバナを眺めたことがあり、その情景と重ねて場面を想像していたのです。

 他の教材の「かさこじぞう」も「モチモチの木」も「大造じいさんとガン」も「注文の多い料理店」も、すべて、四季の自然と生きものとのかかわりで物語は展開されています。幼い頃に季節を感じ、自然の生きものとふれあったりする体験は、作品を豊かに味わうことのできる喜びを子どもたちにもたらしてくれるのです。

 北国では、ウグイスは「春告げ鳥」、カッコウは「種まき鳥」などとよばれ、農家の人の農作業を始める目安にされてきました。都会に住んでいても、各地の気象台で観測されたウグイスの初鳴き情報などがニュースで流れると、普段感じることのない自然や季節を意識させられ、ふとおだやかな気持ちになります。ウグイスに限らず、季節の折々の開花や初鳴きの情報は、学校や家庭の話題となり、子どもたちが季節を楽しむすべを学び、自然の生きものとの共感の心を育くむきっかけになりました。
 観測をやめるということは、単に観測記録を残さないというだけでなく、季節とともに生きてきた人の暮らしや、そこから生まれた文化を根本から否定してしまうようなことなのです。

 気象庁が大事な役割としている「気象観測」は、これからは膨大なデーターを分析、処理するAI(人工知能)によって観測精度は限りなく上げていくことでしょう。でも、AIが未知の現象のすべてを見通せるわけではありません。
 生物観測で廃止されるクマゼミは、観測できないどころか、数十年前は首都圏に居なかったものが、近年は北関東にまで生息を広げています。セミの分布は気候変動や温暖化の指標として極めて重要な資料になっていると聞きました。
 生きものの「いのち」とその働きは、38億年という長い地球変動のなかで滅びることなく続いてきた歴史を背負っています。季節の変化を予知する生きもののセンサーには、未知のものに柔軟に対応できる能力が潜んでいると考えられます。

 これまで気象庁が継続してきた「生物季節観測」は、観測機器だけではとらえられない季節の変化や、自然界の異変を、自然の生きものたちの声に耳をかたむけ、聞き取ろうとする営みではなかったのでしょうか。

 私たちの暮らしは、いつも季節とともにあります。どんなに先を予想しても、季節を追い越し先に進むことも、季節に逆らうこともできません。季節のめぐりの外ではなく、季節の中で、私たちは、自然の恵みをうけ、他の生きものたちとのつながりに支えられ、生きています。

 国分さんのことばにならって、訴えたいのです。
「日夜、国民のために働いておられる気象庁のみなさん。どうか、こどもたちが季節感を感じて、小さな生きものたちのことを考える機会を、国が先頭にたって、これ以上なくさないでください。ともに地上に生きる鳥や虫、植物たちの変化や季節の移ろいを記録することは、長い目でみれば、日本の自然と文化、教育を守り育てることになるはずです。
 どうか、こどもたちのために、知恵をあつめ工夫して、「生物季節観測」を続けてください。先人が積み重ねてきた貴重な財産を、どうか、なくさないでください。」 (千)