mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

今週も!『国語なやんでるた~る』、今からでも大丈夫!

 毎週連続の学習会にこちらの準備が追いつかず、お知らせが遅くなって申し訳ありません。本当だったら11月28日の『こくご講座』や、先週の『国語なやんでるた~る』についても報告しなくてはと思いつつ、できないままきました。ごめんなさい。

 ほんの簡単な、それも極私的な報告というか感想になりますが、『こくご講座』は、なんとなんと予想以上の方々に参加いただきました。主催者としては、密にならないかとひやひや心配しながら、しかし一方ではうれしいなあという、相矛盾した気持ちを抱えての会となりました。すでに開催から2週間たっており、何事もないことに安堵しております。

 また「国語なやんでるた~る」との関連で言うなら、『こくご講座』での太田陽子さんの「ヒロシマのうた」報告は、参加者に刺激を与えてくれたようです。『こくご講座』に引き続き、『国語なやんでるた~る』での授業づくりに遠路はるばる参加する新たな《なやんでるた~る》も出現・・・。より充実した楽しい会になるといいなあと思っています。

 ちなみに先週の『国語なやんでるた~る』は、「ヒロシマのうた」の場面ごとに、どのような言葉を大事にしながら子どもたちと作品世界を読み合っていったらいいのかを、参加者みんなで話し合い、考え合いました。

 今週は、必ず話題となる「原子雲のかさの刺繍」をどう扱ったらいいのか。「最後の場面の授業案」をみんなで考え合い、検討します。
 先週の「なやんでるた~る」に参加していなくても大丈夫です。今週から、一緒に悩みませんか。ぜひ、ご参加ください。お待ちしてます。 

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宮崎典男、ある戦後教師の歩み(3)

 1953年、宮崎先生は教職にもどった。勤務校は福島の温泉地、土湯小学校。単身で赴任したが、ほどなく家族を呼び寄せる。
 先生は、前述したように、1957年に『人間づくりの学級づくり』で日本作文の会から「第6回小砂丘賞」を受賞、その著書のあとがきに以下のようなことを書いている。

 戦後、私は宮城県にあって相も変わらず民間教育運動のなかに生きぬくことをことをちかっていました。「カマラード」による組織運動がそれでした。しかし、戦後の民主化運動が壁につきあたった1949年に私は職を退くことになりました。私の一生の最大の痛恨事でした。それから私の4年半のやりきれない時代がつづきました。
(中略)私は、私の唯一の仕事をうばったものに対する気持ちを忘れることはできません。妻子にも人知れぬ苦労のかけどおしでした。
 私はその4年半の間にも、あらゆる悪条件のなかで「教師の会」の組織活動をつづけ、第1回教育科学研究東北大会のためにも、不眠不休の努力をかたむけました。
 長い4年半でした。そして、天からとびおりるような孤独の姿でこの学校にまいおりたのでした。
 私はそのときの身のふるえるようなよろこびをわかってもらえるすべを知りません。
 私はこの土地でなににもわずさわれたくないとおもっていました。子どもと自分以外、なににも期待しようとはおもっていませんでした。しかし、そこには子どもたちの親もおり、仲間もおりました。そして、そのことによってこそ、私はどうにか教師としてのあたりまえの道をあゆむことができたのでした。(後略)

 その後、土湯生活の最後になる1957年2月の日教組全国教育研究金沢集会に参加、先生の報告を会場で聞いた麦書房の編集者篠崎五六さんから教室の仕事をまとめることを強くすすめられ、仕上げたのが『人間づくりの学級づくり』。その仕事は、その後先生が教育科学研究会国語部会との強いつながりをもつきっかけの一つにもなっていった。

 日教組全国教研集会は第1回日光集会が1951年なので、先生の参加した金沢集会は第6回になる。
 全国教研初日の全体集会は毎回1万人を超える参加者で埋まる(今は知らない)。後日参加する機会のあった私も、その多くの参加者のひとりになっていることで、冬季の集会にもかかわらずしぜんに体がほてってきた思い出が今も強く残っている。
 この金沢集会で宮崎先生は、福島の国語分科会の代表として「作文教育について」のレポートを発表している。

 先生が宮城にもどってからのことだが、ほとんど世間話をしない先生が、ある日、ポロッと「福島にいた時行った金沢集会に作家の石川達三が取材に来ていて、私たちの分科会にも来た」と言ったことがあった。それ以上のことは何も言わなかったが・・・。
 後日、石川達三が「『人間の壁』執筆のため8カ月間ぐらいを取材に費やした」と書いており、金沢集会もそのためのものだったことがわかる。「人間の壁」は朝日新聞の連載小説であり、私の学生生活後半に始まり、教職1年目の終わりに終えている。
 作品のなかに金沢集会の様子が詳しく取り上げられ、第1分科会・国語教育、「作文教育について(福島県代表)」として、連載後出された単行本でみるとほぼ3ページの文量で宮崎報告が紹介されている。
 先生の報告の最後は以下のように結ばれている。

 (前略)子供たちの生活の姿は、容易なことでは捕らえ難いものであります。子供の身辺にはたくさんの小さな悪がある。大人がいくらやかましく教えても、子供は悪いことをすることの面白さから離れることは出来ません。教育は、そういう子供たちを悪い遊びから遠ざけることによって目的を達するものではなく、むしろ逆に、悪い遊びのなかで、そういう遊びを通して、自己反省をそだてること、幼い良心をそだてること、道徳の芽を伸ばしてやることでなくてはならないと、私は思うのであります。
 そしてまた、そういう教育の目的のために、最も大きな効果を発揮するものは、自由な作文教育であると考えるのであります。子供たちは、ヘビやカエルをたたき殺したり、ナシ畑にもぐり込んでナシを泥棒したり、おとし穴をこしらえたり、墓石に小便をかけたり、そういう悪いことを繰りかえしながら、それを正直に、大胆に、作文に書きます。
 文章に書くという作業は、いたずらをした自分を客観することであり、反省することであります。子供たちは書くことによって、悪い遊びから徐々に卒業していく。教師は自由な生活作文を書かせることによって、悪い遊びから子どもを卒業させてやるのです。子供たちは、だれからの強制も受けないで、自分の力で自分をそだてていきます。真の教育とはそういうものでなくてはならないと、私は考えるのであります。

 石川は、この宮崎先生の報告をどううけとめたのだろうか。金沢集会では「国語教育分科会」の他に、「数学教育」「職場の問題」「理科教育」「基地の教育」「PTAの問題」の報告を作品のなかにとりあげている。この金沢集会の他にどこを取材したか私にはわからない。「8か月間ぐらいの取材」と書いているので、相当幅広く取材したことはまちがいなかろう。せっかくの機会なので、「人間の壁」を書き終えた石川は、連載した朝日新聞に1959年4月14日、「 “ 人間の壁 ” を終ってー私は旗じるしを決定した」と題する文を寄稿しているので、その一部を書き抜きたいと思う。

 (前略)現在の日本の社会が直面している様々な問題が、ある意味ではすべて教育問題のなかに集約されているかと思う。教育問題が容易に解決しないのは、日本の政治と社会とが完全に二つに分裂している、そういう現実の反映であった。この作品によって、何ものをも解決してはいない。ただ、問題につき当たり、この問題の輪郭を描いてみたに過ぎなかった。(中略)
 この作品は私にとって厳しいものをもっていた。はじめ私は自民党政府の文教政策を非難するつもりも、教職員組合を弁護するつもりも、何もなかった。いわば白紙の立場でとりかかった。しかし問題を追及して行くにしたがって、それを批判する私自身の立場が要求されるようになってきた。分裂している二つの社会のうちの一つを選ぶことを要求された。
 結局私は、いわゆる(自由な立場の作家)の自由さから、自分をはっきり規定する一つの立場を取らざるを得なくなった。私は自分の気持ちの底の方にあった反保守党的なものを、自分の表面に引き出して、はっきりと自分の旗じるしを決定することになった。その意味において、「人間の壁」は私を拘束する。私は朝日新聞の数百万の読者を裏切ることは出来ない。この作品は私の公約である。・・・

 この「人間の壁」は新聞連載のかたちで今も残っている。尾崎先生のことも。そして、「若ものよ/からだを鍛えておけ/美しい心が/たくましいからだに/辛くも支えられる日が/いつかはくる/その日のために/からだを鍛えておけ/若ものよ・・」と結ばれたことも。
 でも今はそれを語ることはできない。宮崎先生にもどらなければならないから。

 先生は、その年の4月、東北本線沿いで福島市に近い藤田小学校に転任。家族も一緒に槻木の自宅にもどり、先生は、汽車で通うことになった。前述したように、先生のことばで言えば、『人間づくりの学級づくり』は、この車中で書かれた。
 先生が宮城の職場にもどったのは1961年、学校は船岡小学校。退職の1974年まで同校になる。
 私が先生にお会いした黒川の授業検討会は、先生が宮城にもどられた翌年ということになる。( 春 )

 —  ※ これ以降の先生については後日、また書かせていただくことにする。—

 

ギリギリの案内ですが、参加お待ちしてます!

 28日(土)の『こくご講座2020・秋』が終わってほっと一息つく暇もなく、『国語なやんでるた~る』での、授業づくりの学習会が始まります。あまりにも間がないので、案内をつくるのがやっとでした。申し訳ありません。

 今回と次回(12月10日)の2回を通じて、6年生の『ヒロシマのうた』の授業づくりをします。それぞれの思いや願い、悩みを出し合いながら授業づくりをしていきたいと思っています。
 みなさん忙しい時期と思いますが、ぜひご参加ください。お待ちしてます。

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季節のたより64 ハキダメギク

「掃きだめ」を拠点に  異国に新天地をひらいた小花

 里の紅葉も終わり、枯葉が舞う季節になりました。それなのに、ハキダメギクは落ち葉をおしのけて、花を咲かせています。

    ハキダメギクに思う
                                                     山本 凛

 ハキダメギクとは つれない名前を つけたものです
 野花だから どんな名でも よかったのでしょうか
 たまたま、虫のいどころが 悪かったのでしょうか
 見つけた場所への こだわりが あったのでしょうか
 もしも、ほんの、ほんの少しだけ、
 野花によせる 愛があったなら、それでも この名に なったでしょうか
 野原や 畑や 畦道で、 花壇や 公園 道端で・・・・、
 白と黄色の 小さい花は、今日も こぼれるように 咲いています

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       落ち葉をおしのけ  花を咲かせているハキダメギク

 ハキダメギクはもともと日本にあった草花ではなく、熱帯アメリカを原産とする帰化植物です。大正時代、東京・世田谷の経堂にあった掃きだめで、牧野富太郎博士は見慣れない小さな花を採集し、新種だったので「ハキダメギク(掃きだめ菊)」と名づけました。
 それ以来、ハキダメギクは、ヘクソカズラ、ノボロギクなどと並んで、気の毒な名前をもつ植物の代表的なものとして、よく取り上げられます。

 ハキダメギクは、その名でわかるとおり、キク科のコゴメギク属の一年草です。東京で発見されたあと、主に本州以西に分布していましたが、その後急速に全国に広がって、畑や空き地、荒れ地や道端などに普通に見られるようになりました。特に都会周辺に多いようです。
 ハキダメギクの種子は、3月下旬頃から芽生え始めます。小さな白い花が一斉に咲いているのが目につくようになるのは6月頃からです。

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  白と黄の小さい花     6月の頃、こぼれるように咲いています。

 キク科の花の特徴は、小花がたくさん集まってひとつの花(頭状花)を作っていることです。小花には、一枚の花びらをもつ舌状花と、花びらを持たない細い筒のような筒状花(管状花ともいう)があります。ヒマワリは中央が筒状花で、そのまわりを舌状花がとり囲んでいます。アザミは筒状花だけの花で、タンポポは逆に舌状花だけの花です。花によって小花の集まり方が個性的なのです。(NO39・ツワブキで、それぞれの写真があります。)

 ハキダメギクの花は、遠くからでは小さくてよく分かりませんが、近寄ってよく見ると、中央に黄色い複数の筒状花が集まり、そのまわりを白い花びらを持つ5つの舌状花がとり囲んでいます。小さな花ですが、花の構造はヒマワリの花と同じです。
 5枚の舌状花の花びらの先端が、3つに割れているのがおしゃれで、5枚が隣と距離を置き並んでいるのもいい感じです。小さな花が大きな葉の上にちょこんと載っていて、愛嬌があります。でも、振り向いてくれる人はあまりいません。

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3つに割れる。花びらの先端。   日の光を受け、微笑んでいるかのよう。

 他国で育った植物の種が、ある日、とつぜん日本にやってきて、そのまま分布を広げるということはまず無理でしょう。しばらくはどこか生存できる場所を見つけ、日本の生育環境で生きられるかどうか試されます。でも、ほとんどのものは、日本の風土や気候になじめずに、最初の段階で死滅していきます。
 「見知らぬ異国で成功するのは、簡単ではないのだ。今や道端などでふつうに見られるオランダミミナグサも最初に発見されたときには、横浜港でひっそり咲いていた。花粉症の原因として猛威を振るうオオブタクサも、大豆に混じって最初に侵入した場所は豆腐屋の店先だった。活躍している帰化雑草も、みんな下積みの時代を経ているのである。」(「身近な雑草の愉快な生き方」・稲垣栄洋著)

 ハキダメギクがどんな経過で日本にやってきたのかはわかりませんが、ひそかに住処を見つけて、そこを拠点に体力を蓄え、花を咲かせ、実を結んで、各地に種子を飛ばしていったと思われます。新天地をめざした種子は、着地してその地で発芽できても簡単に生きられるわけではなかったでしょう。

 田んぼや畑に着地した種子は、芽生えても地面は耕され、見つかれば雑草としてぬきとられます。空き地に降りたとしても、たくさんの競争相手にすでに陣地を確保されています。地下には多くの植物の根がはりめぐらされ、次の発芽を待っています。新参者の潜り込む余地はありません。それでも隙間を見つけてやっと芽生えても、夏には大きな植物の葉かげになり枯れてしまいます。
 結局、生存できた場所は、競争相手の少ない都会地の道の脇、路側帯、街路樹の下や花壇などでした。ここでも見つかれば、抜き取られたり、除草剤をまかれたりします。かろうじて、生き延びたものがいて、次の世代へいのちをつなぐことができたのです。

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      試練をのりこえ、いのちをつないできたハキダメギクの花

 ハキダメギクが、異国で生きのび、分布を広げることができたのは、競争相手の少ない都会の片隅や造成地などであれば、他の植物と対等に勝負できる有利な点をいくつか備えていたからでした。
 ハキダメギクの種子は、成長が早く、日当たりのいい場所だと、ほぼ一か月で、開花から結実までが可能です。春に発芽し、初冬の降霜期まで花を咲かせ続けていますが、同じ個体が長く生きているわけではありません。最初の世代が種子をつけると、休眠しないですぐ発芽して、1年のうちに、3~4世代まで世代交代が可能なのです。
 種子ができても休眠し、寒さにあわないと発芽しない植物もあります。多くの植物は自分にあった季節に発芽し、1年、または2年で世代交代をしているわけですから、ハキダメギクにはかないません。

 ハキダメギクの花の季節が長いのは、昆虫たちにはありがたいことです。人間には相手にされないハキダメギクも、小さな昆虫たちには人気があって、いろんな昆虫が絶え間なく集まってきます。特に、冬間近になって、花が少なくなる季節にも咲き続いているので、昆虫たちの貴重な蜜源になります。もちろん、昆虫たちは蜜をもらう代わりに、ハキダメギクの受粉を熱心に手助けしているわけです。

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  花は、小さな昆虫たちには貴重な蜜源、いろんな昆虫が集まってきます。

 ハキダメギクは、全体的に短い毛で覆われています。学名は「Galinsoga ciliata」で、種名の「ciliata」(ヒュミラ)は「縁毛のある」を意味しますが、葉にも茎にも目立った毛が生えています。
 植物の毛は、害虫から身を守ったり、暑さ、寒さからの乾燥をふせいだり、寒さから身を守ったりする役割をしています。熱帯原産なので、さすがに凍結には耐えられませんが、早春から初冬まで変化のある環境でも花はつけられるのです。

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     茎をおおう毛           葉も毛に覆われています。

 ハキダメギクの枝の別れ方にもおもしろい特徴があります。茎の部分が、くりかえし二又に分かれて、その枝から伸びた小枝の先に花をつけます。根元近くの茎以外は、中心の茎がわからなくなるほど枝を増やします。ちょうどハコベの増え方に似ています。草丈は15cmから50cmほどにもなり、栄養がよいと、小枝につく花の数は限りなく増えていきます。

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   対生に着く細長い葉      茎はくりかえし二又に枝分かれしていきます。

 ハキダメギクの小枝には、どれほど、小さな花がつくのでしょうか。これについて、約40年ほど前に、その数を調べた人がいました。
 当時、農林省蚕糸試験場におられた宇佐美洋三さんは、東京都の日野市にあった蚕糸試験場において、ハキダメギクは、5月から10月にかけて発生し、メヒシバと共に夏季の優占雑草となるので困っていました。そこで、作物に害の少ないハキダメギクは、雑草として排除するのではなく、緑肥作物として畑作物に組み込めないかと考え、ハキダメギクの個生態についての実験調査を行ったのです。
 その結果、「ハキダメギクの開花順序は集散花序に属し、1株の1世代における開花数は13, 400個前後、1つの花の種子数は30粒前後,、後者を前者に乗ずれば約40万粒となり、雑草のなかで種子の生産量の多い草種であることが明らかとなった。」と論文で報告しています。(「桑園雑草の生態に関する研究 II. ハキダメキクの個生態」 農林省蚕糸試験場 宇佐美洋三・1976・3)

 1株で約40万粒ですから、すべてのハキダメギクがつける種子の数は、気の遠くなるような数です。その種子が、綿毛をつけて、風にのって各地に飛んでいくことを想像すると、あたりが全部ハキダメギクで埋め尽くされてしまう気がするのですが、そうならないのが、自然のしくみということなのでしょう。

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  まわりの花から種子が  種子には幅の広い綿毛が  綿毛は約2㎜、種子は
  でき始めています。   ついています。      1㎜ほど。

 異国から日本に上陸した小さな花が、たまたま咲いていたところが、「掃きだめ」でした。掃きだめは、ごみ置き場のようなところで窒素肥料が豊富です。他の場所でも咲いていたのに、最初に見つかった場所が、まずかったといえば、まずかったのです。発見場所にちなんで、ハキダメギクと名づけた牧野博士も、後世の人から、こんなに不評をかい、命名のセンスが問われるとは思いもかけなかったでしょう。
 それはともあれ、当のハキダメギクは、どんな名前で呼ばれようとも知ったことか、それは人間さまの都合だからと、持ち前のタフな力で、新天地を開拓しながら生き抜いていくに違いありません。

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       きれいな花なのに、見つかった場所が不運でした。

 「花の名も時代を反映する。かつて身近に「掃きだめ」があった。生活のゴミを掃き捨てる場所として機能していたのである。」(「花おりおり」・湯浅浩史)
 当時は普通に「掃きだめ」が見られた住宅地は、時代とともにきれいに舗装、ごみ置き場も設置されて、見違えるように生まれ変わっていきました。
 ハキダメギクの花の名が、大正という時代の人々の生活風習を伝え、かつハキダメギク帰化の歴史を伝えるものとして残っていくとしたら、それはそれとして、おもしろいことではないでしょうか。(千)

◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花 

コロナのなかで、つれづれに ~家族のかたち~

 先日、わが家のよっちゃんが友人と出かけた。コロナ禍でお互い都合がつかず会えないでいたので、久々にとても楽しいひとときを過ごしてきたようだ。
 よっちゃんは帰ってくるなり「あのね彼女の息子の岳ちゃん、この間、学校で喧嘩してしょげて帰ってきたんだって」としゃべり始めた。

 よっちゃんの話によれば、友人は旦那と岳ちゃんの3人家族。なのに岳ちゃんは5人家族と友だちに言って、喧嘩になったという。友人は息子に5人って誰?と聴くと、岳ちゃんは「おかあさん、おとうさん、ぼく、それから犬のタロに、アレクサ!!」と答えたという。よっちゃんはそこまで話すと「彼にとって5人は嘘ではないのよ」と、岳ちゃんの応えに感心しながら話を終えた。

 ちょうど、少し前にNHKの番組『ドキュメント72時間』では、「動物たちが眠る霊園で」を放映した。番組は、東京・府中市にある大正時代から続く動物霊園にカメラを据え、犬や猫などペットの墓地や納骨堂にお参りにくる元飼い主たちの思いや人生を映していた。これなど見ると、まさに今や犬猫はもちろん、モルモットなど様々な小動物たちも家族のようだ。岳ちゃんの答えは、今の世の中で説得力ある一つの応えと言える気がする。

 しかし、さらに岳ちゃんの場合Alexa(アレクサ)ときた。Alexaは、Amazonが開発した音声認識をする人工知能搭載のスマートスピーカー。話しかけるだけの簡単操作で、音楽鑑賞はもちろん天気・ニュースの確認や商品の注文、さらには家電のコントロールなど何でも応えるらしい。

 それに比べてうちの息子と私は、よっちゃんにしばしば「自分の食べた後の食器ぐらい洗っといて」とか、「洗った食器は拭いておいて、これがひと手間なのよ」と小言を言われている。Alexaの方が言うことをよく聞く、おりこうさんと言えるか・・・。

 ペットも家族、Alexaも家族、家族とは何か? まじめに考え始めると奥が深そうだ。そう言えば、映画監督の是枝さんも「そして父になる」や「万引き家族」はもちろん、それ以前の多くの作品でも家族を描き、そのあり方を問いかけている。
 コロナ禍でリモートワークをはじめ家庭で過ごす時間が増えている。家族について考えるいい機会かもしれません。(キヨ)

『こくご講座』の直前ですが・・・

  ~ 好きですか?嫌いですか?の問い ~

 今回の『こくご講座』のチラシには、~教材の魅力、授業の醍醐味~と書いた。それは第1回のときの、ちょっとした出来事が関係してのことだ。

 話題提供者の報告に、春さんが「あなたは、この教材好きですか?」と質問を投げかけたのだ。報告者の先生からは、どう答えていいものか戸惑っている様子がありありと感じられた。私は、それはちょっと酷な質問じゃないかと感じていた。というのも今の教員は学力テストや教員評価の中で、これまで以上に教科書を最初から最後まできちんとやることが求められている。春さんの言うように好き嫌いで授業をどうこうできる状況があるわけではないと思ったからだ。好き嫌いに関わらず、どうこの教材で授業したらいいか、そのアドバイスこそしてくれたらとも感じていた。

 ところが参加者の感想の中には、春さんの質問がよかったというものがあった。その感想は、春さんの問いの真意がどういうものだったのかを改めて考える機会を与えてくれた。

 そこから見えてきたのが「教材の魅力、授業の醍醐味」というフレーズ。好きですか嫌いですかという問いは、教師が教師である(になる)ためには、教師自身が教科書教材であるなしにかかわらず、まずは作品と向き合い、出会うことが大切だということを意味していたのではないか。

 国文学者の小森陽一さんも、高校生との公開授業を、まずは高校生たちが作品から感じたこと、思ったことを問うことから始めていた。それは、生徒たちにとって作品との出会いにほかならない。同様に授業の前に、まずは教師自身が教材と出会っておかなければならないだろう、そういう問いなのだと。

 第2回の『こくご講座』では、話題提供者のみなさんに、それぞれの教材に対するこだわりや魅力・おもしろさ、そして授業の醍醐味と難しさ、そんなことが多く語られる場になるといいと思っている。(キヨ)

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『国語なやんでるた~る』、今年も始まるよ!

 「国語の授業って難しいなあ」
 「どうしていいか、よくわからない」
 「子どもたちと、もっと楽しい授業をしたいのに」

 教師なら、そういう悩みは一度や二度、いやいや数えきれないほど感じるものです。悩みは人間の成長にとって大事です。かのゲーテも「憧れを知る者のみ、我が悩みを知らめ」と言ってるように、悩むのはこうありたい、こうなりたいという教師としての理想や憧れがあるからです。「なやんでるた~る」は、そんな悩み多き仲間たちの学習会です。

 これまでも、その時々の悩める「なやんでるた~る」のみなさんの希望を聞きながら、「道徳」だったり「国語」だったり教科を替えながら授業について考えてきました。
 今年は、6年生の『ヒロシマのうた』の授業づくりを考えていきます。第1回は、11月28日センター主催の「こくご講座」とのタイアップとなります。

 話題提供してくれるのは太田陽子さん(秋保小)です。太田さんは昨年、今年と6年生を担任。昨年の授業の様子などにも触れながら 「 教材の魅力やこだわり」「授業をやっての手ごたえやおもしろさ、そして難しさ」などを話してもらい、参加者のみなさんとどのように授業づくりをしていったらいいか考えていきたいと思います。

 なお28日の『こくご講座』では、太田さんの『ヒロシマのうた』の他に、これから取り組むことになる2年生の『かさこじぞう』、4年生の『世界一美しいぼくの村』を取り上げます。

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  ちなみに『国語なやんでるた~る』の2回以降の予定は、次の通りです。

 【第2回】12月3日(木)18:30~20:30

  ◎授業をどんなふうに進めるか
   ・作品全体に貫かれているものを考え合う
   ・地獄の中でミーちゃんとお母さんを見つけた場面

 【第3回】12月10日(木):30~2180:30

   ・それから7年目の場面
   ・15年目の夏、ヒロコちゃんに会う場面

  (※会場は、どちらも研究センターの予定です。)