mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

エイジソン、友の言葉がひらく世界

 8日の朝日新聞「折々のことば」は、数学者・森毅さんの「学校というものの中では、教師に学ぶよりは、友人に学ぶことの方が多いはずで、その友人が同学年に限定されるなんてつまらない」の言葉だった。

 鷲田さんのコメントにうなずきながら、コロナ禍の学校休校にかかわって心配する新聞などで見る大人の声が浮かんだ。もちろん、ある日、唐突に(?)全国一斉休校を述べる総理にも(全国一斉休校の前にやることはないのだろうか・・・)などの疑問もいだいたが、「休校」というと、多くの保護者から出る「勉強が遅れる!」の合唱(?)にもやや辟易する。
 今回の休校措置では友だちと遊ぶこともできない特殊な事情があるからだが、森さんが、このように言った頃の親たちだったらどうだったのだろう。反応は今とやや違うような気がするのだが・・・。

 時代はどう動いても、森さんの言う考えを子どもたちと向き合う教師には教師としてもつべき大事な言葉のひとつにしてほしいと思う。
 森さんのこのことばを「折々のことば」に取り上げた鷲田さんも、森さんの言う学校観・教育観・子ども観と変わってきている現在を案じたからではないだろうか。
 このような言葉をさりげなく取り上げられているだけでドキッとする。「学校論」や「子ども論」などあまた論じられているが、まだまだ議論されなければならないように思う。しかし、小学校にまで英語や道徳まで侵入し、一日のスケジュールがぎっしり埋め尽くされている現在の学校では互いに論じ考える余地はまったくないのかもしれないと言われそうだが、だからと言って、学校の根幹にかかわることから逃避することはできない。

 これからちょっと語ろうと思うことは、「ムカシのこと」と歯牙にもかけられないかもしれないと思うが、かつての私の教室で森さんの言葉に結びつくと思われる出来事をひとつ述べてみる(以前にどこかに少し書いたことがあるような気がするが)。

 前回のこの欄で私は、子どもから通信表をもらったことを書いたが、今回は、35年間の教員生活でただ一度、子どもから「通信表の学習評価の訂正を直接言われた」ことを書いて森さんのことばにつないでみたい。
 渡した通信表の評価が「まちがっている」と突きつけられたとき私は内心びっくりしたが、すぐそのわけが浮かび、修正を要求されながら、なんとも言えないうれしい気持ちになったことだ。
 ことは、こうである。

 6年生の2学期の最後の日、通信表を配った。出席簿1番のE男は一番前の席に座っていたが、通信表を手にして、ちょっと目にすると手にもったまま動かずにいた。どうやら連絡欄などに書いていることへはまったく興味がないようだった。他に配りつづけながら私は(E男らしいな)と思っていた。
 E男は、全員に配り終わるのを待っていたのだ。
 全員に渡し終えたところで、彼はスッと立ち上がり私のところに来るや、通信表をひらいて指差し、「ここが間違っている」と言うのだ。指先は「ふつう」に印のある算数を指している。私はすぐ、ある算数の時間を思い出し、「ああ、『あのこと』か?」と言うと、彼は「そう」と言う。「あのこと」で通じ合ったのだ。
 私はそれ以外のことは何も言わず、「わかった。直すから、帰りに職員室に寄って」と言うと、E男は「うん」と返事をして静かに自分の席にもどった。
 その「算数の時間」というのは、こんなことだった。

 算数で、立体の表面積を求める学習の終わりに、教科書にはない円錐の表面積を求める問題を出した。子どもたちは教科書外のこの問題にも夢中になった。
 「できた!」と叫んで次々と競うように黒板に走り寄って説明をするのだが途中で進められず、すごすごと自分の座席にもどるのが十数人つづいたろうか、その後で出てきたのがE男だった。彼はゆっくりと話し始め、なんと最後まで行きついた。教室がどよめいたとき、後方の座席に座っていたT男が大きな声で「エイジソンだ!」と叫んだ。E男の名は「エイジ」なのだ。エイジソンことE男はニコニコして自分の席にもどった。

 通信表が間違っていると言われた時、この時間のことをすぐ思い出した。それで「ああ、あのことか?」と言ったのだった。それはE男にもストレートに通じた。
 何が、私たちにそれだけで通じ合えたのか。私は今でも、T男の言った「エイジソンだ!」の一言が、E男にも私にも忘れがたい出来事にしたと思っている。問題が解けただけではない。それなら、子どもにとっても私にとってもいろんな場であることだ。なぜ、この算数の時間が「あのこと」で通じ合える時間になったか。それは間違いなくT男の瞬間的な機知の言葉が刻み込ませたのだ。私は、いろんな人間が一緒に暮らす意味の大きさを教えてもらった。E男はまた、問題が解けただけでなく、エイジソンになった忘れえない時間になったのだ。だから、E男と私は「あのこと」で通じ合えたのだ。

 T男だけではない。クラスにはいろんな子どもたちがいて、互いにT男のような役割を果たしている。そのような意識的無意識的交換がクラスの輝きをつくるのだと思う。( 春 )

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