mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

春の教育講演会・案内

 岩川直樹さん講演(5月11日・土 13:30~ )
 30cmの向こう側へ
   ~子どもに応える教育~ 

 上の講演タイトルをみて《どこかで見たことがあるなあ》《なんとなく覚えがあるぞ》とピンとくる方は、きっとこのDiaryの常連さんに違いありません。

 今回の講演タイトル、実は講師の岩川さんが群馬の研究会で行った講演内容を参考にしたものです。そしてタイトルに関わる文章は、このDiaryのなかでも掲載したことがあるのです。リンクを貼るということもできるのですが、そうはしないで改めて以下に掲載することにしました。ぜひ読んでみてください。そして講演会に足を運んでください。

 講演では、さまざまな教育改革や施策が導入され、またそれらに翻弄されるような日々の中で、子育て・教育で何をこそ大切にしていかなくてはならないのかを「あと30センチ」で語られているようなことを含め、具体的な子どもたちの姿や教育実践を通してお話しいただく予定です。

 きっと、子どもたちへのまなざしやそこから見えてくるもの、そして関わり方が違ってくるような気がします。是非ご参加ください。お待ちしています。

    あと30センチ

 教室で帽子をかぶったままの子どもがいれば、マナーがなっていないと見える。「部屋では帽子をとろうね」とやさしく指導したりする。しかしあと30センチ近づいていたら、帽子の下のその子のこわばった表情が見えたかもしれない。ああこんなに怯えていたのか。そう感じられたならその子が安心できる教室をどうにかしてつくってゆきたくなる。

 教室で唸り声を上げている子どもがいれば「障害」があると見える。ほかの子どもから離して職員室で自習させたりする。しかしあと30センチ近づいていたら、脇をぎゅっと固めて暴発を必死にとどめようとするその子はこんなにこらえていたのか。そう感じられたなら、「よく我慢したね」とみんなの前でその子を承認したくなる。
 教室で規律を守り、勉強もできる子どもがいれば、なんの「問題」もないと見える。「ほんとうに手のかからないお子さんで」とほめそやしたりする。しかし、あと30センチ近づいていたら、いつでもどこでも同じ笑顔の仮面の向こうから、その子の叫びが聞こえたかもしれない。ああこの子はこんなに感情を押し殺しつづけていたのか。そう感じたなら、その子がやさぐれた気持ちをぶちまけられる音読の授業をやってみたくなる。
 あと30センチ。しかし、それがやけに遠いのだ。他者を操作し自己を防衛する技術の鎧を身にまとうことが「有能」とみなされるこの時代、私たちはその鎧を脱いで肌をさらそうとしない限り、ふれることもふれられることもできない。たとえ「未熟」でも、相手にふれ、ふれられる肌の感触のほうから、その子どもの葛藤や格闘に応える学びを共に探り合っていくこと。あと30センチで生まれるコンタクト。学校は、そこを起点にしてあらゆることを問い返す、探究のるつぼであっていい。

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新しい朝の始まり

 定刻通りプラットホームに電車が滑り込んできた。ところが、おっと!どっこい、ドアが開くと乗るスペースは猫のひたいほど。ほんのちょっとだけ。乗っている乗客からの「これでも乗るつもり・・・?」という無言の圧力をちょっと感じて一瞬たじろぎつつも、乗りますよ!というこちらの決意を無表情で応えつつ、うんとこしょっと、その狭いスペースに無理やり体を差し込んだ。電車は、そんな状況の変化もなに食わぬ顔で、いつものように軽いつまずきを足元に残して走り出した。

 そうなのだ!昨日から新年度、学校が始まったのだ。きゅうきゅうの車内で首だけ、いや目だけを左右に動かすと、真新しい制服に身を包んだ中・高校生たちの姿があちらにちらり、こちらにちらりと初々しい。乗ったドアから次第次第に遠方に押しやられて、降りるときはどうしたらいいだろう? 無事最寄り駅で降りることができるだろうか? という不安と、車内での身の処し方に戸惑っている様子が表情から伺える。新たな生活の始まりのなか、しばらくはこうした緊張が続くのだろう。

 電車を降り、地下から地上へ出ると、今度は入学したての小学1年生が、お母さんやお父さんと登校する姿に出くわす。子どもも親も、にこにこ談笑しながら歩いていく。どんなことを話しているのだろう。これから始まる学校のことだろうか。親は親、子どもは子どもでいろんな思いを抱いているのだろうなあ、きっと。うちの子たちのときは一緒に登校したかなあ? などと思ったり振り返ったり。そう言えば、よっちゃんも日曜日、近くの小学校を通りかかったらランドセルを背負った男の子がお父さんと学校を見にきていたと話していた。月曜の入学式をひかえて、一足先にお父さんと学校までの道のりを楽しんだのだろう。見てはいないが目に浮かぶ。

 そんな今日の、朝の始まり(キヨ)

季節のたより25 スミレの仲間

  仲間をふやす スミレのひみつ

 春の野原で草花たちが一斉に花を咲かせ始めました。小さなかわいい花を咲かせているのがスミレの仲間です。
 スミレの仲間(スミレ属)は、世界で約450種、日本だけでも60種ほどあるといわれています。ふつう「スミレ」というときは、これらの多くのスミレの仲間の総称として使われていますが、一種類だけ「スミレ」の名をそのままもらっているのが、学名ビオラマンジュリカ(viola mandshurica)というスミレです。スミレは濃い紫色の花を咲かせます。日当りのよい路傍や草地、林縁などに生えていて、日本中に分布しています。

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   タンポポオオイヌノフグリと一緒に春の野に咲くスミレ

 小さなこどもたちと野原で春の草花をつんでいたときでした。ある男の子がスミレの花を見つけて、タンポポオオイヌノフグリと花の形が違うのに気がついたのでしょう。「スミレは、かわいいお尻のある花だね」と言ったので、みんなで「大発見!」と大喜びしたことがありました。
 スミレの花を横から見ると、花を長くして後ろへ突き出ています。男の子が「かわいいお尻」」と表現したこの部分は、「距」(きょ)といって、蜜の入れ物になっているところです。ひとめでスミレの花の仲間とわかるのは、この距があるからです。スミレの花の特徴を一瞬のうちに感じとったこどもの感性はすごいものです。

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   ヒメスミレ後ろに突き出た距。花茎が花のバランスを取っている。

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   アリアケスミレ花びらのすじ模様がハチを蜜へと導く。

 スミレの花びらは5枚で、花の中央には1本の雌しべがあり、そのまわりを5本の雄しべが取り囲んでいます。蜜は花の奥にある距の中に隠されているので、舌を長く伸ばすことのできるハチでなければ蜜をもらえません。舌が長いのはハナバチの仲間です。花にもぐりこんだハナバチは、奥にある距に長い舌をさしこみ蜜を吸います。夢中になっているうちに花粉まみれになって、その姿で次の花へと移動するので、スミレの受粉が行われるのです。
 花に集まる虫には蜜だけを盗もうとする虫もいます。スミレは、蜜が盗まれず確実に花粉を運んでくれる特別のパートナーとしてハナバチの仲間を選んでいるのです。

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タチツボスミレの群落。人家から山地までどこでも見られるスミレ。「山路来て何やらゆかしすみれ草」(芭蕉)は、このスミレと確かめた植物写真家がいる。

 スミレは春早くから花を咲かせています。まわりの草花が花を咲かせる前に、ハナバチたちに花粉を運んでもらい受粉しています。この時期は、違う花どうしで花粉を交換し、受粉できるので、どんな環境でも生きられる多様な遺伝子を持つ種子をつくることができます。
 晩春になると、ハナバチたちはもうやってきません。他の大きな草花におおわれて、スミレの花は目立たなくなるからです。それでもスミレは枯れることなく、秋ごろまでつぼみをつけて種子を実らせます。
 スミレが花を咲かせるのは春だけです。夏や秋には、閉鎖花(へいさか)というつぼみのままの花で自家受粉し種子をつくります。自家受粉でできた種子は親の性質に似ていて、同じ環境で育つのに適していますが、違った環境には対応できず、全滅する危険性もはらんでいます。
 他の草花と比べて競争力の弱いスミレは、異なる二つの受粉の方法で、とにかくたくさんの種子をつくって、そのいのちをつなごうとしているのです。

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  エイザンスミレ。葉が細かく切れ込むので、一目でわかる。

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     ヒナスミレ。落葉樹の林下に見られる。きれいな淡紅紫色スミレ

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  ノジスミレ。田畑、路傍など人の手の加わった場所に多い。

 スミレの種子の散布の仕方にも独特の工夫があります。果実が出来ると、花軸の部分が伸びて果実を高い位置に掲げるようにします。果実が熟すと三つに割れて種子を周囲にはじき飛ばすのです。出来るだけ遠くへ種子を飛ばそうとしています。飛ばされた種子には、ゼリー状のエライオソームという甘い物質が付着していて、これを甘いものが大好きなアリが運んでいく仕組みになっています。
 アリは甘い物質を食べ終わると、その辺に種子を捨ててしまいます。もし種子が地中深く運ばれたとしても、甘い物質を食べ終わった種子はゴミなので巣の外に運ばれ捨てられます。街の中で野の花であるスミレが、住宅の石垣や歩道の隙間に生えているのをよく見かけますが、石垣やアスファルトの隙間はアリの巣の出入り口なので、そこに捨てられた種子が発芽したものです。
 スミレの種子はアリによっていろんな場所に運ばれ、新天地で芽を出し、スミレの仲間をふやしているのです。

 このスミレとアリの関係を謎を解くようなストーリーでこどもたちに伝えようと願って描かれた絵本が、かがくのとも傑作集「すみれとあり」 (矢間佳子・さく 森田竜義・監修/福音館書店)です。吟味された絵と文がこどもの心をつかみます。大人がよんでも自然界の不思議さに目を開かせてくれる絵本です。

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  ナガハシスミレ。距が天狗のような花のよう。
  別名テングスミレともいう。

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     ニョイスミレ。湿ったところを好む。花は白く小さい。
     ツボスミレともいう。

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  オオバキスミレ。初夏に高山に見られる。花は黄色。

 スミレの仲間たちをいろいろ見くらべてみると、細く伸びた茎に花や葉がついている種類と、葉も花も地表から束になって出て、茎がないように見える種類があることに気づくでしょう。この違いはスミレの種類を見分けるのに、大きな手がかりになります。花の色も紫からピンク、白や黄色の系統があります。葉は、多くの種類が切れ込みのない葉ですが、エイザンスミレのように細かく切れ込んだ葉を持つスミレもあります。葉のつけ根には一対の托葉(たくよう)があって、この托葉の形やつき方も、スミレを見分けるときのよい手がかりになります。スミレだけの図鑑も出ていますので手元におくと、スミレの世界への興味が広がっていくことでしょう。

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山地の尾根道に咲くマキノスミレ牧野富太郎博士を記念して名づけられた。
右下に咲いているのはタチツボスミレ

 スミレの花が咲くのは春です。桜の花が咲き誇り、みんなが頭上の桜に見とれているときに、こどもの目は地面に近いので、足元でひっそりと花を咲かせているスミレの仲間に目を向けているかもしれません。こどもは小さな科学者なので、自然が見せる不思議さにいつも心を奪われています。そんなこどものまなざしと感受性を受け止めることができるなら、私たち大人の自然を見る目も豊かになっていくような気がします。(千)

◆昨年4月「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

教育講演会『子どもの権利条約から見た日本の教育の課題』

 「民主教育をすすめる宮城の会」の主催で、上記タイトルの講演会が、ゴールデンウィーク初日となる4月27日(土)・14時 から行われます。 

 子どもの権利条約が国連で採択されて今年で30年、日本が批准してから25年になります。批准された当初、さまざまな教育・子育て運動や活動に取り組む人々を励まし、支えるものとして歓迎され、その学習をはじめ「子どもの権利条約」を生かし広げようとする取り組みが活発に行われました。

 しかし「教育基本法」の改定をはじめとするこの間の教育改革のなかでは、ほとんど「子どもの権利条約」が語られなくなってきているのではないでしょうか。振り返ると、「子どもの権利」がどこまで実質化されているのか、きわめて心許ない状況が続いています。子どもたちのいじめ自死も後を絶ちません。
 「子どもの権利」とは、その根底に「生きること」、しかも「よりよく生きる」ことを置いているはずです。

 今、あらためて子どもをまん中に、子どもの成長・発達を保障する子育て・教育のあり方をみんなで考え合いたいと思います。是非ご参加ください。 

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子どもは 走る

 新年度を迎えた。我が家のよっちゃんの職場も、人事異動でずいぶん入れ替えがあり、それに伴って若い人たちがどっと入ってきて大変なようだ。家に帰ると、「今日は疲れたから外食でもいい? 買いたいものもあるし」という。久しぶりに近くのショッピングセンターのフードコートに出かけた。

 すでに夜の8時を過ぎていたこともあって、フードコートで食事をしている人はまばらだ。広い飲食スペースの奥には、小学校低学年から、まだ小学校にあがらないだろう子どもたちとその親たちが談笑している。

 しばらくすると、子どもたちは親たちに付き合うのも飽きたのだろう。大きな笑い声をあげながら広いフードコートを走り出した。鬼ごっこでも始まったのだろうか。こちらは何が始まったのだろうと気になるも、親たちはまったく気に止めていない。相変わらず、おしゃべりに興じている。子どもたちの走り回る足音と奇声が、閑散としたフードコートに鳴り響く。

 「食事中は席を立って歩いたり走るものじゃない。ほこりが立つでしょ」などと親に叱られたことをふっと思い出した。近ごろの親たちは・・・、子どもがこっちに走ってきたらひと声かけようか、とも思った。その一方で、子どもたちの楽しそうな笑い声を聞くのも久しぶりだなあという軽い感慨が心にふっとわく。そう言えば、家の近くの公園でも、最近は子どもたちが鬼ごっこやかくれんぼなどに興じて歓声を上げている姿を見ない。寒いからだけだろうか・・・。

 親や子どもに何か言おうかと思っていた気持ちは徐々におさまって、それと入れ替わるように心にふんわり落ちてきて納得したのは、子どもは走るものだということ。理由など特になくてよい。おとなは、そうはいかない。おとなは基本走らない。走っている姿をみれば、あの人誰かとの待ち合わせ時間に間に合わないのだろうかとか、もしかして誰かに追いかけられているのだろうかとか、何らか走っている理由を思うものだろう。

 子どもが走るのは、今も昔も変わらない。でも、走る場所と機会がずいぶん変わってしまったのかも知れない。どうしてだろうと考え出すと、今の子どもたちが少しばかりかわいそうにさえ思えてくる。そんなことを思ったらフードコートを走る子どもたちが愛おしく思えてきた。( キヨ )

『授業のための資料室』に「いじめ関連資料」を新設!

 すでにご覧いただいたかもしれませんが、ホームページの『授業のための資料室』に、新たに「いじめ関連資料」のカテゴリーを新設しました。

 これまで研究センターで取り組んできた学習会資料をはじめ、「センターつうしん」に執筆いただいた太田直道先生の論考、さらにこのdiaryで「教室から1~5」と題し執筆いただいている清眞人先生の報告などをまとめ整理して、広く皆さんにもお読みいただき、いじめについて考える手立てや参考にしていただければと思っています。

 早速、清さんからは「教室から」を整理まとめていただいた論稿「イジメ・トラウマ大陸としての児童期」が届きましたので掲載することにしました。ぜひお読みください。(なおdiaryの「教室から1~5」は、まさに大学での取り組みと同時並行的に書かれたものです。「イジメ・トラウマ大陸としての児童期」のようには読みやすく整理されていませんが、逆にそこに清先生の学生に対する思いや思考の痕跡を読み取ることができると思います。是非そちらもお読みいただければと思います。)

 また現在、太田直道先生には、これまでの学習会の資料なども再度整理していただいております。でき次第、随時掲載していきます。

 なお、清さんの「教室から」の報告が一つのきっかけとなって、大学関係者の中からいじめが若者の成長に与えている深刻な影響や問題、そこから導き出される学校教育の病理と課題などを、全国的な規模での大学生いじめ調査をもとに明らかにしていく必要があるのではとの話が出てきているようです。
 まだ具体的な動きにはなっておりませんし、詳細はわかりませんが、みなさんに報告・お伝えできることがあれば、お知らせしていきたいと思っています。

欠損・欠如をめぐって あれこれ

 このところ鷲田清一さんの本を読んでいました。鷲田さんは関西の方ですが、ご存じのようにせんだいメディアテークの館長でもあります。遠くの人のようで実は近い人でもあるのです。

 哲学者にとって、対象との距離をどうとるか、どう向き合うかというのは、とても大切なことです。昨今、遠くから近くから仙台にも関わられている鷲田さんが、今という時代や社会を、そして人が生きる営みをどんなふうに見つめてきたのか、いるのか。そんなことに関心を持ちながら著書を読んできました。

 少し前まで読んでいたのは『人生はいつもちぐはぐ』です。その中の「不足だからこその充足」という短い文の冒頭に目がとまりました。こんな書き出しです。

 おのれの身元に不明なところがある。おのれの出自に納得できないことがある。父親を知らず、そして祖母に母として育てられたという、そんなじぶんの〈存在の欠損〉と向きあい、もがくことから、その映画制作を開始した人がいる。

 誰だと思われますか? 映画監督の河瀨直美さんだそうです。
 河瀨さんは「殯の森」という作品で、2007年カンヌ国際映画祭でグランプリを授賞しました。昨年『万引き家族』でパルムドールをとった是枝監督に負けず劣らずというか、それ以上にカンヌに愛された監督の一人と言ってよいかもしれません。ちなみに河瀨監督の『あん』は、とても好きな作品の一つです。昨年亡くなられた樹木希林さんや市川悦子さんが、社会からのさまざまな差別や偏見のなかをともに思いやり励まし合いながら生きてきた元ハンセン病患者を好演しています。

 先の鷲田さんの文章に目がとまったのは、河瀨監督のことだからというだけではありません。〈存在の欠損〉という、その言葉に魅せられたからでもあります。
 〈欠損〉という言葉、実は他人事ではありません。肌身離さずというか不即不離のように私にくっついていた言葉です。しかもここしばらくはすっかり忘れていた言葉でした。その言葉に、思わず出くわしてしまったのです。しかも私の好きな監督の一人を評する象徴的な言葉として。ところで私の場合は、心臓の欠損です。監督の〈存在の欠損〉とはずいぶん違う? どちらも存在に関わるということでお許しを。
 それにしても「欠損」という言葉は、いやな気がしてなりません。欠けているというだけでも引け目を感じたり気になったりするものなのに、さらに損だという評価までされてしまうのですから。

 でも鷲田さんは、冒頭の一文で〈欠損〉を悪く論じているわけではありません。鷲田さんは、〈存在の欠損〉と命名した河瀨監督が取り組む「なら国際映画祭」のプロジェクトも、河瀨さんの〈欠損〉を代弁するかのように欠損・不足だらけ。ところがどういうわけか多くのボランティア・スタッフが集まり、「比類ない熱さ、そして表現の濃密さ」を生み出していると、その魅力を語ります。そして「不足の中に充足が立ち上がること」、これは「いったい何を意味しているのか」と問いかけるのでした。

 鷲田さんはその問いにそれ以上は述べていませんが、その問いかけを受けて、すぐに想うのは吉野弘さんの次の詩です。

  生命は

 生命は
 自分自身では完結できないように
 つくられているらしい
 花も
 めしべとおしべがそろっているだけでは
 不充分で
 虫や風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする
 生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ

 世界は多分
 他者の総和
 しかし
 互いに欠如を満たすなどとは
 知りもせず
 知らされもせず
 ばらまかれている者同士
 無関心でいられる間柄
 ときに
 うとましく思うことさえも許されている間柄
 そのように世界がゆるやかに構成されているのは
 なぜ?

 花が咲いている
 すぐ近くまで
 虻の姿をした他者が
 光をまとって飛んできている

 私も あるとき
 誰かのための虻だったろう

 あなたも あるとき
 私のための風だったかもしれない

 生命のなかに欠如をみとめ、その欠如に生命の摂理と生きていくことの豊かさをみる。詩人の目には、欠損の中に立ち上がる生命そのもの、生きることそのものが孕む世界の豊かさが、その可能性とともに見えているのではないかと勝手に思うのでした。
 そして、これらの欠如をめぐる世界は、昨年カンヌでパルムドールをとった是枝監督の多くの作品にも引き継がれているとも、これまた勝手に思うのでした。
( キヨ )