mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより184 スズメウリ

  野のムーンストーン  葉先でつくる地中のむかご

 秋の陽が藪を照らすと、白いものがふっと浮かび上がりました。  
 近づいてみると、糸のような細いつるに、小さな白い実がいくつもぶら下がっているのが目に入りました。  
 野原のムーンストーン、あるいは野の真珠とも呼ばれるスズメウリの実です。  
 その名前は、実がカラスウリより小さいこと、あるいは熟した実がスズメの卵に似ていることに由来します。  
 藪のなかではごく普通に見られるつる植物ですが、なぜか小さな図鑑には載っていないことが多いようです。


スズメウリの実

 スズメウリはウリ科スズメウリ属に分類される一年草で、日本に古くから自生している在来種です。本州・四国・九州に分布し、湿気のある場所を好み、野原や土手、林の縁などでよく見られます。

 私がスズメウリを初めて見つけたのは、花ではなく白い実でした。その実には種子が入っていたので庭にまき、花を咲かせてみようとしましたが、うまく発芽させることができませんでした。
 そこで、実を見つけた場所を覚えておき、翌年に花を探すことにし、藪の中で花を見つけたのは9月の初めでした。花はとても小さく、大きな葉とつるのほうが目立ちました。


スズメウリの葉と花

 葉はうすく三角形に近い形で、縁にはギザギザがあります。つるはとても細く、一見して弱々しそうですが、触ってみると丈夫なつるです。

 スズメウリは春から初夏にかけて芽吹きます。  
 地中から芽を出すと、細い茎はつる状に伸び、まるで何かを探すように周囲へ広がっていきます。つる植物にとっての第一の生存条件は、周囲の植物より先に光を浴びることです。いち早く日当たりのよい場所を確保しようとしているのでしょう。
 茎が伸びるにつれて節が形成され、その節から葉と巻きひげが現れます。
 葉は節ごとに互生し、広がって光合成を行い、巻きひげは周囲の草花に絡みつき、葉がより良い位置で光を浴びられるように茎を支えています。
 茎、葉、巻きひげの三者はそれぞれ役割を果たしながら、スズメウリの成長を支えています。その連携は実に巧みです。

 
      スズメウリの葉の形         スズメウリの茎(つる)

 開花期は8~9月です。葉の付け根から伸びる花柄の先に、直径約6mmの白い花を一輪咲かせます。花には雄花と雌花の区別があり、1株の中に両方が混じって咲きます。これを「雌雄同株」と呼びます。
 花びらは通常5枚で、小さく白く、先端が浅く裂けて広がっています。緑色の5枚のガクが、花びらの基部を支えています。
 雄花の雄しべは3本です。ただ、ウリ科全般には雄しべが合着して数が減ったように見えるものがあり、スズメウリもその一つです。起源的には6本あったものが、合着によって3本に見えるのだそうです

 
     スズメウリの雄花(上向きに咲く)        雄花の雄しべ  

 雌花の雌しべは1本です。雌しべの花柱は短く、柱頭が3裂しています。子房は下位にあり、ほぼ球形で、これが後に小さなスズメウリの実になります。

 
     スズメウリの雌花(下向きに咲く)        雌花の雌しべ

 花の花粉を運ぶのは、ハナバチ類、ハナアブ類などの一般的な訪花昆虫です。
 花の付き方を見てみると、雄花は上向きに、雌花は下向きに咲いています。これには理由があるのでしょうか。
 雄花が上向きに咲いていると、昆虫たちを呼び寄せるのに効果的です。昆虫たちが集まれば、近くに咲く雌花にも気づいてもらえます。
 一方、雌花が下向きに咲くのは、子房が実になる期間、その実が茎や葉にぶつかることなく、安定して成熟するようにしているのでしょう。
 雄花と雌花は、確実に受粉し実を実らせるために、互いにその役割を分担しているようです。

 秋になると、花のあとに直径1〜2cmほどの球形の実ができます。果皮の柔らかい水分を多く含む液果(えきか)です。
 最初は鮮やかな緑色をしていますが、熟すにつれて白い実に変化していきます。
 白い実は自然界では珍しい色です。

 
     スズメウリの青い実             熟した白い実

 すっかり熟した実は透き通るようになり、中の種子が見えることもあります。
 実際に食べてみた人の記録では、「ほんのり甘い」味だそうですが、食用としての安全性は確かではありません。
 白く熟した果実は目立ち、他の植物が枯れる時期まで残っています。
 水分も多いのでヒヨドリムクドリ、ネズミ類などが口にする可能性があります。
 最近の研究で鳥の糞の中からスズメウリの種子が確認されています(高槻、2023)が、この実を食べて、種子を運ぶ特定の摂食者は見つかっていません。

   
    透き通ってきた実        実の中の種子      乾燥して冬まで残る実     

 私は、スズメウリは自然界では種子散布で増えていくと思っていたのですが、そうではありませんでした。
 さんだネイチャークラブの菊田穰さんの観察記録によると、「十数年前に鉢植えにしたスズメウリが、秋に蔓の先が植木鉢の下に潜り肥大し地下茎のようになり(珠芽)、翌年その珠芽から芽が伸び成長し、秋には沢山の実をつけた。」とありました(兵庫県人と自然の博物館・「共生のひろば」9号)。
 スズメウリは秋深くつるの先が地中に潜り、地中に珠芽を形成、翌年の春に芽を出して、新しい株となるというのです。
 地下にできる珠芽、いわゆる(むかご)があったのです。これには驚きました。見てみたいと、現在、藪の中を探索しています。

 多くの植物に見られる珠芽は、一般に葉腋や地下茎に形成されます。
 ウリ科植物の多くは種子によって繁殖しますから、スズメウリのように珠芽をつくり、しかもそれを地中で形成する例はきわめて珍しいことです。
 スズメウリの果実や種子は、冬のあいだに鳥や小動物に食べられてしまい、翌春まで残りにくいと報告されています。地中の珠芽による栄養繁殖は、種子散布に依存せずとも確実に子孫を存続させるための、スズメウリ独自の進化の姿と考えられます。

 
  実は冬の間に食べられてしまう。      地中にできる塊根(むかご)の姿

 スズメウリは古くからの自生種ですが、いつからその名があったのかはよくわかりません。江戸時代には民間や本草学で「雀瓜」の呼称で用いられていたようです。
 このスズメウリに学名をつけ、西洋に紹介したのが、カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743–1828)でした。


藪の中のスズメウリの実

 ツンベルクはスウェーデンに生まれ、二名法(属名+種名)という学名の表記体系を確立したリンネに師事し、医学と博物学を学びます。
 1775年にオランダ東インド会社の「商館医」として出島に赴任。1776年に商館長の江戸参府に随行し、旅の途中で、箱根や駿河などの植物を精力的に採集しています。このときスズメウリにも出合ったのでしょう。

 ツンベルクは日本滞在中に採集した標本をもとに、1784年に『Flora Japonica』を刊行しました。本書はリンネの分類体系に従い、日本産植物812種を記載し、そのうち418種を新種として発表、その学名には「japonica」「japonicus」など、日本由来を示す語が与えられています。
 これによって、日本在来の植物は初めて体系的にヨーロッパへ紹介され、近代植物学史において重要な役割を果たしていくことになります。
 スズメウリはその中の一種で、「 Bryonia japonica 」と記載されています。その後の分類学的改訂により異名が用いられた時期があり、現在は Zehneria japonica または Neoachmandra japonica が使われています。属名はいずれもスズメウリ属を意味しています。

 江戸時代の頃に「雀瓜」と呼ばれていた小さな野草は、ツンベルクによって初めて学術的なラテン名で命名され、日本の固有種として世界の植物分類体系の中に位置づけられて、以後の研究に役立てられていきました。

 鎖国下の日本で長崎出島での活動を許されていたのはオランダ人と中国人のみでした。スェーデン人であったツンベルクは、「オランダ人医師」としての肩書で入国し、厳しく行動が制限された中での植物採集でした。
 日本の滞在は、約1年半。短期間で驚異的な数の植物を採取したその陰には日本の蘭学者たちとの交流や協力もありました。
 人類の知恵は、時代や地域を越えて交流し、互いに影響を与え合うことで発展していきます。学問や科学の研究は一国の内部だけで完結するものではないことを、この小さな野草のスズメウリも語っているように思うのです。(千)

◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花

創造的実践は、はじめはみんなローカル!

  中森孜郎のもとで取り組んだ
    授業の創造とその現代的意義

 1971年8月に、宮城県の片隅に「宮城保健体育研究会」(以下、宮城保体研)という小さな研究サークルが誕生しました。それは、1967年に宮城教育大学に赴任した中森孜郎の呼びかけと主宰によるものでした。

 それから50有余年、この度、中森孜郎が数え年で100歳を迎えるのを機に、宮城保体研に集う教師たちが取り組んできた教育実践の今日的意義を世に残そうと、創文企画社のご協力を得て、本書『「からだの教育」としての体育・保健の実践的探求ー中森孜郎の教育観に導かれた授業の創造とその現実的意義』を出版することになりました。

 私たちの創り出してきた体育や保健の教育実践は、今日の日本の教育の世界においてはメジャーなものではないかもしれません。しかし、その仕事の重要性は、忘れ去られてよいどころか今日の子どもの生命と「からだ」をめぐる「人間的危機」ともいえる状況の中で、ますますその輝きを増してきている、と私たちは考えています。

 本書が、子どもたちの「からだ」と健康に関わる文化と教育に関心のあるすべての人々にぜひ読んでほしいと思っております。ぜひご購入下さい。

   

【目次・内容】

第Ⅰ部 中森孜郎の自己形成の歴史と「からだの教育」論

第Ⅱ部 「からだ育て」としての体育実践の今日的意義
第1章 障がい児・難病児の教育から「体育」の原点を考える
第2章 器械運動の「問と答の間」と「仲間」の中で成長する子どもと教師
第3章 陸上競技の学習に「からだ」の視点をあてた実践の今日的意義
第4章 からだと動きを耕し育てる「体操」と「マット運動」の実践
第5章 学校教育への民舞の導入と実践の展開

第Ⅲ部 体育と保健のねらいをクロスした授業実践づくり

第Ⅳ部 「からだの学習」としての保健教育実践の創造とその今日的意義
第1章 戦後の保健教育における「からだの学習」実践の創出
第2章 私たちが創出した「からだの学習」教材の分類と実践の特徴
第3章 宮城で創出した「からだの学習」の典型性とその現代的意義
第4章 「からだの学習」としての保健授業の「深い学び」の検討

第Ⅴ部 中森孜郎の3つの学校づくりに関わる諸実践とその成果

【資料1】中森孜郎の保健体育教育関係著作リスト
【資料2】宮城保健体育研究会の例会の歩み

 

ドイツ留学日記1992年(16)

6月10日(水)快晴
〈スカンディナビア旅行 ⑤ スカンディナビア半島横断〉
 今日も澄みきった真っ青な空が広がっている。ウプサラから海沿いにSundsvollまで北上する。約300kmの行程である。交通量は多く、トラックが次々と追い越していく。海岸沿いには小さな町が点々と並んでいる。真夏のように暑い。もう北欧の短い夏のまっただ中なのであろう。Sundsvollから左に折れて、スカンディナビア半島を横断する道路に入る。湖沼と森林がどこまでも続く500km近くの行程である。しばらくは残っていた街の気配も次第に消えて、道は樹林帯の中に入っていく。残念ながらここでも伐採が進んでおり、広大な面積が無残にも切り拓かれている。スウェーデンでも伐採による原生林破壊が相当進んでいるのである。ニルス君が言っていたように、スウェーデンの最大の産業は林業なのだ。

 右に左に次々と湖が現われ、真っ青な水面が目の前にぱっと広がる。氷河によって削られてできた湖で、フィンランドスウェーデンにはこのような大小の湖沼が数限りなくある。スウェーデンで 約10万近く、フィンランドで約5万の湖があるそうだ。湖水面積はフィンランドの方が広く、国土の半分は湖ではないかと思われるほどである。湖水の周りには針葉樹の原生林、どの湖も手付かずの自然のままで、絵のようであり、水は澄みきっている。ここでは湖の間を縫ってのドライブが思う存分堪能できるのである。

 Ostersundまでやってきたときにはもう夕刻であった。600kmほども走ったことになる。街を散策して、湖畔の草地に車を寄せる。雛が4匹の鴨の一家が草の上で休んでいたが、車に驚いて湖を泳いで逃げていった。寝場所を奪ったおわびにパンくずを草の間に投げておいた。都会ではユースホステル、自然の中では車中泊の旅行である。前席が倒れてフラットになるのである。湖畔の野宿は最高の気分だ。12時を過ぎてもまだ空は明るく、深夜でも暗闇にならない。夏至がもう間近なのだ。あと500kmも北上すれば白夜の世界であるが、今回はあいにくと日数が足りず断念。

6月11日(木)快晴
スカンジナビア旅行 ⑥ ノルウェーへ〉
 Ostersundからノルウェー国境までは180kmの行程である。周りの風景が一段と高原の様相となり、針葉樹林と小さな湖沼、水量がたっぷりの急流、そして遠くには残雪に輝く山々。山容はゆるやかであり、広大な裾野がそのまま大平原となって、地平線に消えていく。しかしなお国道の両側には伐採箇所が多く、山肌にも無残に刈り払われた跡があちこちに見られ、心を突きさす。標高を次第に上げて国境に到着。両国のそれぞれの側にレストランが一軒づつぽつりと建っていた。

 ノルウェーに入ると風景は一変する。なだらかな高原状の大地はもはや見られなくなり、国道は急峻な谷あいを急なカーブを描きながらどんどん下っていく。山が険しくなると、むしろ日本の山岳地帯にそっくりの風景になる。道路は狭く、谷にへばりつくように民家が散在している。100km余りで道はフィヨルドの海岸に沿って走るようになり、ほどなくトロンハイムTrondheimの街についた。ノルウェーで3番目に大きな都市である。とはいっても、人口は13万人余にすぎない。それほど広くない都心は、短かい夏を楽しむ人たちでいっぱいである。この街にもまた美しいDOMがある。巨大な石像の建物で、二つの重厚な尖塔をもつ。北欧の建物はほとんどがレンガ造りであり、ウプサラのDOMも明るいレンガ造りであったが、ここのDOMは石造である。正面のファサードは3層にわたって聖像彫刻が列をなし、午後の日差しを浴びて燦然と輝いている。いかにも極北の面影のある(?)大聖堂の下で、しばしカトリック世界の深みに浸る。

 街を散策した後、フィヨルド寄りの地方道を楽しもうと、海辺の道に出た。ところが、30分ほども走ると車が不調を訴え始めた。ノッキングとエンストを繰り返し、トップギアが入らなくなった。立往生する前に修理をしなければならない。急遽、コースを国道に替えて、セカンドギアにシフトダウンし、エンストを起こさないように20〜30km/hの超低速で走り、ようやく20km余り先のところで修理工場のあるガソリンスタンドにたどり着いた。その間2時間余りのひやひや運転だった。応急の点検をしてもらったが、エアフィルターの下の部分Carborater(キャブレター)の本格修理が必要らしく、明日修理をしてくれることになった。老朽車を長旅させたので疲れが出たのであろう。ウプサラを越えたあたりから不調を感じていたが、山間部をさんざん走らせたものだから、音を上げたのであろうか。
 近くの宿を紹介してもらって、思わぬ宿泊となった。

6月12日(金)快晴
スカンジナビア旅行 ⑦ノルウェーの自然景観 〉
 午前中は車の修理。キャブレター(ガソリンに圧縮空気を送り込み気化させる装置)の目詰まりらしく、丹念にオーバーホールしてもらった。元気になった車を走らせて、ここからソグネフィヨルドへと向かう。

 ノルウェーの中央高地というべきオプダルOppdal地方は夢のように美しい高原の世界である。豊富な残雪が残る山々は標高が1600mから1800mであり、最高峰のSuφheltは2286mの高峰である。 先の尖った鋭いピークと純白の稜線、そして刷毛で描いたような美しい裾野が目の前に広がる。U字渓谷特有の地形であり、その美しさに身も心も奪われる。ノルウェーは山国であり、1000mから2400mの山々が細長い国の脊梁を形成している。ソグネフィヨルドのあたりが一番標高が高く、北に行くほど標高が下がっていく。

 OppdalからDombasへと抜ける国道E6は、U字渓谷の底をゆるやかなカーブを描きながら走り、道の両側には湿原状の原野、池塘、湖、堆石、清流が次々と展開して、すばらしい高原景観がどこまでも続く夢のような道路である。カーブを曲がるたびに新しい景色が目に飛び込んでくる。車を何度も止め、岩に腰をかけ、流れに手を浸してみたりする。1本の道路と、時々現れるヒュッテ風のホテル以外には人工的なものは何もない。車で走り抜けてしまうのが惜しく、このようなところで何日も過ごせたらと思う。

 雲ノ平や朝日連峰大雪山系の自然景観は言葉に表しようのない美しさであるが、Oppdalの景観はやや荒削りであるが、はるかに雄大である。花はほとんど見られず、季節がまだ早いのかもしれない。山々はどこまでも端正であり、空気は張りつめ、水は豊かに流れ、澄みきっている。このような景観がどこまでも続く。ようやく道が谷あいを降り始め、下りきったところにある小さな町Dombasに着く。この町はフィヨルドやOppdalへの中継点らしく、観光客でいっぱいである。ここから数十キロほど川に沿ってOttaの町までいったん下り、そこから右折して川沿いの急な登り道を、Krossbu峠へと向かう。

 ノルウェーの川は、どこでも溢れるほどの豊かな水量の流れが勢いよく谿を駆け下る。雪解けの季節なのであろう。われわれは普段水量の貧弱な川しか見なれていないから、道路の近くまで清流が激しく流れているのを見ると迫力を感じ、これが川というものかと思ったりする。日本は川の国であるのに、その多くが伐採で水源を奪われ、ダムで水をとられて、かろうじて細々と流れを保っている。木曽川も大井川も黒部川も滔々とした流れの時代はとうに過ぎ去っている。道路が俄然急になり、どんどん標高を上げていく。ソグネフィヨルドの源頭部、2000mから2400mの高峰が並ぶ地域に向かうのである。狭く急な峠道を登りつめていくにしたがって、道路のそばまで残雪が現れるようになり、峠付近では雪の壁になってしまった。Krossbu峠は標高1400m、周囲は一面の銀世界であり、冬のままの景色である。山々は鋭い岩峰と岩壁で、カールや氷河を抱くその山容はスイス・アルプスに劣らない雄大さであり、人を寄せつけない厳しい姿で林立している。

 ノルウェーの山々は標高が2000メートル台のためであろうか、あまり知られていない。最高峰は標高2469mのGaldhφppingenであり、ソグネフィヨルド源頭部には2000mを越える山が10座以上ある。それぞれが個性的な形をした岩峰であり、岩の黒と雪の白とが強いコントラストをなしている。これらの山々から氷河が一気に海に流れ落ち、深いフィヨルドをつくるのである。フィヨルドは氷河をもつ高い山々があって初めてできる。山が高ければ高いほどフィヨルドは深くなる。フィヨルドの両岸はU字状の断崖であり、海面から真っ直ぐにせり上がった断崖は千数百メートルに及ぶことがあるのである。圧倒的な山岳景観であり、そして谷の底は陸地奥深くまで切り分けて侵入する入江の海である。海から見れば、頭上の岩峰から何本もの滝が落ちてくるのが望め、山の上から見れば、足元の眼下は黒い水を湛えるフィヨルドの海面である。

 フィヨルドは同時に険しい山岳地帯であるから、陸上交通は不便を極める。人々はフィヨルドの谷底にひっそりと暮らしている。ソグネフィヨルドは外海から200kmも山岳地帯を内陸に向かって延びている。その狭い海沿いに小さな集落が点々と散在するのである。昔は海が唯一の交通手段だったであろうが、崖の下の猫の額ほどの土地に外から隔絶されて何百千年も生きてきたのである。生きることの意味を考えさせられるほどの地形である。

 峠からは、1400mの標高差を海まで一気に下る。ヘアピンカーブを繰り返しているとほどなく海面に降り立つ。ソグネフィヨルドの一番奥の入江である。山から海へあまりにあっけなく降りてしまったので、はじめは途中に湖でもあったのかと錯覚したほどである。フィヨルドだから海とはいっても周りは全部山であり、湖のように見えるのである。海であることを確かめるために海水をなめてみたら薄塩の味であった。流入する川の水のためにほとんど真水に近いのである。

 フィヨルドに沿って100kmほど外海のほうに向かう。小さなフィヨルドがいくつも枝状に入り込んでおり、そのたびに道は大きく迂回しなければならない。Hellaからフェリーに乗って対岸のDragsvikに渡る。フィヨルドの中は何種類ものフェリーが常時運行しているのである。Melまで枝フィヨルドを奥に進み、そこから再び標高750mの展望台まで登った。

6月13日(土)快晴
スカンジナビア旅行 ⑧オスロへ 〉
 展望台から北上し、湖(フィヨルドになりきれなかったU字渓谷の一部で、必ず細長い)に立ち寄る。峠に着くと周りは再び銀世界、湖はまだ水面が雪で覆われている。湖畔の村でUターン、のびやかな下り道の途中で何回か羊の群れに出会う。道路をゆうゆうと歩いている。夏の間放牧されるのだろうが、峠の付近まで上がってきており、野生の羊に出会ったような感じだ。はじめは羊も警戒していたが、ビスケットをあげていると、子羊連れが10頭以上も集まってきて、全部食べられてしまった。この羊がノルウェー製のソックスやセーターになる。私は山のソックスはノルウェー製を愛用している。雪の中を平気で歩き回っているのだから暖かいわけだ。

 再びフィヨルドをフェリーで渡ってVangsnesへ。ここからまた標高1000mの峠まで猛烈な登りを繰り返す。登りきればまたまた銀世界、再び急な下りで隣のフィヨルドへ。ソグネフィヨルドの長い枝フィヨルドである。

 Fråmの入江を最後にオスロ方面の道に入る。途中の民家が印象的である。ノルウェーは平地がほとんどないから、山の斜面を切り拓いて村が作られている。スウェーデンの民家はログハウスを赤っぽいチョコレート色に塗り、四すみの窓を白く塗った家が一般的だが、ノルウェーの民家は厚い板張りを黒の防腐剤カラーで塗り、家の形も思い思いにさまざまなのが特徴的だ。ときどき「草屋根」の家を見かける。勾配をなだらかにし、そこに土を盛り、本当に芝のような草を植えるのである。草の音が張っているので土は流れない。「庭のような屋根」だから雰囲気はよいが、どのようなメリットがあるのだろうか。冬暖かいのかもしれない。

 夕方の雑踏のなか、オスロに着いた。

6月14日(日)晴れのち曇り
スカンジナビア旅行 ⑨オスロから帰路を急ぐ 〉
 今日はもう日曜日、明日の午前中にケルンに帰らなければならない。旅の日程は1日予定より遅れている。オスロからケルンまでは1300km、仙台からはほぼ下関辺りまでの距離である。

 オスロOsloでもゆっくりしたかったが、急がなければならない。オスロの中心街は意外に小さい。駅と王宮とを結ぶカール・ヨハン通りがオスロの目抜き通りである。駅はモダンな最新の建物で、ゆったりしている。駅の目の前にオスロのDOMがあるが、それほど大きくもなく、個性的でもなく、普通のカテドラルである。通りに面して国会議事堂、オスロ大学講堂(アウラ)、国立劇場などがある。王宮の正面まで行って、Uターンして駅に戻る。ムンク美術館などは省略。

 オスロから約1時間で国境を越え、再びスウェーデンに入る。さらに2時間南下してヨーテボリGötebergに着いた。ヨーテボリスウェーデンでは2番目に大きな都市である。駅前に車を置き、昼食を兼ねて市内を散策する。港町であり、旧市街は駅から港にかけて広がっている。大きなショッピングセンター、市庁舎、グスタフ・アドルフ広場を通って、港を観に行った。港にはひときわ大きな帆船が係留されており、小さな漁船がひしめくように並んでいて活気に溢れている。埠頭には17、8世紀のものと思われるレンガ造りの大きな倉庫が2棟並んでいた。ヨーテボリからさらに2時間南下してヘルシンボリに戻ってきた。ヘルシンボリも古い街だが、そのままフェリーに乗り込んで、デンマークに急ぐ。どうしても観ておきたい所が2箇所あるのだ。

 デンマーク側のヘルシンゲアにはクロンボー城Kronborgがある。『ハムレット』の舞台になった城である。15世紀の古城で、ロの字型の古風な造りである。『ハムレット』の冒頭に出てくる、王の幻が出たという夜衛の塔は右手奥に見える塔のことだろうか。シェイクスピアは実際にこの城を訪れたのであろうか。『ハムレット』に描かれる城と実際のクロンボー城とは一脈通じるところがあるようなないような難しいところだ。4時半過ぎに城に入ったのに、建物の内部見学を認めてくれない(入館は5時まで)。30分足らずでは内部を観て周れないと言うのである。せっかく来たのだからと2回頼んだが、頑としてはねつけられた。私の後からも観光客が次々と入ってくるというのに。駄目なら入館は4時半までと書いておくべきである。少し頭にカチンときて、ハムレットのように城内ならぬ中庭をぐるぐると歩きまわった。

 ヘルシンゲアから田舎道を北に向かって、ギーレライエGillelejeを訪れる。ギーレライエはシェラン島の北の端にある岬である。断崖(といっても実際には30m程度のゆるやかな崖)になっており、北海を隔ててスウェーデンが見渡せる。ギーレライエはまだコペンハーゲン大学の学生であったキルケゴールが夏の一日ここを訪れ、手記をしたためた所である。この手記は今日「実存宣言」とも呼ばれ、実存主義の発端となったものである。「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、それのために死にたいと思うイデーを発見することが必要なのだ」。

 若いキルケゴールが「実存Existenz」に行き着いたその場所を訪れることは長い間の私の夢であった。夢は大抵裏切られるものだが、「断崖」は思っていたよりかなり低く(デンマークに高い断崖のあるはずがない)、「人家の途絶えた 荒涼たるヒースの原野」は岬のすぐ近くまで瀟洒な家の立ち並ぶ遊歩道であった。ギーレライエは静かで落ち着いた街である。家々は海岸沿いにまで並び、どの家も広い庭をもつ立派な建物である。キルケゴールの記念碑を案内する表示は何一つなく、通りにも人影はない。海岸に沿って行けばそのうち行き着くだろうと思い歩き出す。住宅の庭の茂みとハマナスの茂みとの間の散歩道は趣があって美しい。海を見ながら、このようなところに住めればすばらしいことだろうと少し羨望心を持ちながら歩くが、なかなか見つからない。はまなすをそのまま自分の庭に取り込んで花を楽しんでいる家、藁葺き屋根の立派な家、素朴な丸太のフェンスを過ぎ、庭木の手入れをしている人を見つけ、場所を訊いた。記念碑は松林の中にひっそりと立っていた。海が開けて見え、なかなかよいところだ。キルケゴールのように何かひらめいて来ないかと思って、半時間余り崖っぷちに腰を下ろしぼんやりと海を眺める。何の「イデー」も湧かないまま、断崖を離れ、車まで戻った。

 ギーレライエからは寄り道もせず、ケルンに向かってひたすら走る。約800kmの行程である。ハンブルクに着いた時は夜中の1時過ぎ、いつの間にか都心に向かうアウトバーンを走っていて、あわてて引き返す。近くのサービスエリアで停泊。

6月15日(月)曇り
〈授業に出席 〉
 ハンブルクからケルンまでは400km。少し寝過ごしてしまったので、急いで朝食をつめ込み、ケルンまでノンストップで飛ばす。そのまま大学へと向かい、駐車場に車をつけたのが12時45分、授業の始まる定刻である。我ながら無茶なことをしたものだ。別にさぼっても支障はないのだが、このようなときに限って真面目に出たくなる性分である。今回の旅行の走行距離は5001km、ずいぶんと車を酷使したものだ。ウプサラの大聖堂とノルウェー大自然とがよかった。テキストもノートも持たずに授業に出る。疲労感に襲われて夢うつつの授業であった。
(太田直道)

学校教職員や市民の皆さんも、ぜひ参観ください!

 核兵器のあるこの世界で、
 高校生たちと
平和について考えよう

  

 当センターでのこの企画は、これまでに小森陽一(東大名誉教授・国文学者)・林光(作曲家)・アーサー・ビナード(詩人)・仲本正夫(数学教師)・三上満(宮沢賢治研究家)・金平茂紀(ジャーナリスト)、樋口陽一憲法学者)、中村桂子生命誌研究者)、加藤公明(社会科教師)、山極寿一(京都大学総長・ゴリラ研究者)、高橋源一郎(小説家・文芸評論家)、ロバートキャンベル(早稲田大学特命教授・日本文学)といった、様々な分野で活躍する文化人を招き、高校生に授業という形で「思考すべき課題」を提起してもらい、それを学校教員や希望する市民にも公開し「学校教育で今何をどのように学ぶべきなのか」を探るヒントになればとの思いで実施してきました。

 今回は、ノーベル平和賞受賞の田中煕巳さんを招き、13歳時に受けた被爆体験をもとに長年追究されてきた平和問題にかかわる課題を高校生に公開授業という形で提起してもらい、それを学校教員や市民の方々にも参観してもらって「平和教育のあり方」を共に探りたいと思っています。

 とりわけ、学校教員のみなさんには、ノーベル賞授与による世界の期待を、これからの子どもに托すべく教育の中にどう反映させるかが問われています。田中さんは被爆したご自身の体調と対峙しつつ、人生の大半を核廃絶のための厳しい運動とも闘ってこられました。その重い体験を通じた人類平和の道を共に模索できたらと思います。多くのご参加をお待ちしています。(数見隆生)

 《参加(参観)の申し込み》
  下記「申し込みフォーム」より申し込みください。

            【申し込みフォーム】

林さんの表情や話から、授業づくりの楽しさを実感!

 10月18日、「秋の教育Café」と銘うって行なわれた算数の学習会。とても印象的だったのは話題提供してくださった林和人さんが本当に楽しそうに子どもたちや授業のことについて語る姿でした。
 下の写真をご覧ください。ご本人自身が授業をするのが面白くて、楽しくてというのが表情からわかりますよね。

    

 さらに《えっ何で?》と不思議に思いませんか。これ算数の授業ですよ。なのにまるで理科の授業のように青い液体を容器に移したり、かと思うと ♪ ダイコン一本、片手に持ぉっ~て ♪ と、まるで家庭科の授業?という感じです。

 子どもたちの実態に合わせながら、どうしたら楽しくわかる授業ができるのか。その授業づくりで生まれた教材、教具の数々を持ち込んで実演もまじえ具体的な話をたくさんしてくれました。以下、参加者の感想を紹介します。

    

【感想】
◆林先生の実物を使ってこどもたちに実感を伴った授業を進めていくところが本当にすごいなと思います。こどもたちの目がキラキラ輝いてもっと知りたい! と前のめりになって授業を受ける姿を見て私ももっと勉強しなければと思いました。
 学校に戻ったら学年の先生たちと使える教材を探しながら、楽しい授業をつくっていけるように学んでいこうと思います。

◆子どもたちの学びのなかで、計算や考えをいかに視覚化し、イメージをもたせるのかが大切だと思いました。ただ計算をさせるのではなく、予想や検討をすることで、探求心がうまれ、発見する喜びにつながる気がしました。
 そのためには、教材準備や研究をがんばりたいです。

◆後半部分しか見ることができませんでしたが、それでもたくさんの学びがありました。何よりもこどもたちと同じ、もしくはそれ以上の熱量で授業をしている姿をお手本にしたいです。実際に具体物を使って授業することの大事さも分かりました。

◆実践的な話題を提供していただき、自分がこれまで学んできた算数数学教育や、研究と関連させながら話を聞くことができた。
 特に、子どもが学ばせたい内容のイメージや数量関係を捉えるために実物やシェーマを用意したり、実際に作業させて実感を伴わせたりすることが大事だと分かりました。

◆ 今は「デジタルのものをどのくらい使っていますか? 先生自身はどのくらい活用する能力がありますか?」などというアンケートが2,3ヶ月に1回来ます。デジタルの良さももちろんあると思いますが、林先生のように手づくりや表現がある授業の方が私は好きだと感じました。
 「働き方改革」で何でも効率化、時短と言われますが、教員は授業の準備を惜しまず、子どもと一緒に学び楽しむのが良いのだなと思いました。たくさんの刺激をいただきました。

季節のたより183 タマブキ

  種子とむかごで子孫を残し  厳しい環境に生きる

 沢沿いの道を歩いていると、草むらから背伸びして白い筒状の花が揺れているのに気がつきました。タマブキです。                                
 誰に見られるでもなく、誰に語られるでもなく、ただそこに咲いているだけなのに、不思議と強い存在感があります。
 茎にはむかごがついていました。むかごは丸く、珠のよう。その姿と、フキに似た葉の形から、タマブキと呼ばれています。
 タマブキの漢字表記をみると、「珠蕗」、「球蕗」、「玉蕗」が使われています。図鑑や和歌や散文などによって、選ばれる表記が異なるようです。


タマブキの花とむかご

 タマブキは、キク科コウモリソウ属の多年草です。北海道南部から本州の中部地方以北に分布し、とくに沢沿いや林縁などの、半日陰で湿度の保たれた環境に生育しています。
 県内の里山を歩くと、ふつうに目にする野草のひとつです。名前に「フキ(蕗)」とあるため、フキの仲間と思われがちですが、両者は同じキク科でも属が異なり、系統的には別の植物です。


群生することが多く、晩秋に目につきます。

 タマブキは、春の訪れとともに山地の樹陰で新芽を伸ばし始めます。
 若芽は山菜として食用にされ、高山では7月頃まで採取が可能です。
 初夏から夏にかけて、茎は50〜150cmほどに伸長し、葉を大きく広げていきます。葉は丸みを帯びた三角形で先端が尖り、裏面に綿毛(クモ毛)が密生しています。この綿毛は、寒冷地における保温や水分保持に役立つと考えられています。
 夏季には、枝先に多数の白い頭花を円錐状に咲かせます。

 
  タマブキの頭花(上) つぼみ(下)    タマブキの葉と円錐状の白い頭花

 タマブキの一つの頭花には、白色の筒状花が5〜6個集まっています。これらはすべて両性花です。
 開花が始まると、まず雄しべの葯が合着してできた筒が現れます。雄しべの筒の内側には花粉が詰まっています。

 
       白い頭花の集まり          開花した花の中の筒状花(雄しべ)

 やがて、雌しべの花柱が、雄しべの筒の中の花粉を押し出すようにして顔を出します。このとき、雌しべの柱頭はまだ未成熟なので、自家受粉は起こりません。
 花粉が放出された後に、雌しべの柱頭が2裂して反り返り、粘液を分泌すると、
初めて受粉可能な状態になります。その柱頭に、虫が他の花から運んできた花粉がついて、他家受粉が行われます。

   
 雄しべの筒から出  雌しべの柱頭が2裂    蜜を求め集まるハチの仲間
 てくる雌しべ    し受粉が可能になる    花粉を体につけ他の花に運びます。

 タマブキの頭花は一斉には開花せず、それぞれ時間をずらして咲いていました。開花の分散によって、異なる頭花間での花粉の移動が可能となり、受粉の機会が広がります。また、花期が長く保たれるので、沢沿いや林縁に生息する数少ない昆虫たちを、継続して花に誘う役割もしているのでしょう。


時間をずらし開花。雌しべの成熟度を変えています。

 うまく受粉できると、筒状花の子房がふくらみ始め、やがて実ができます。
 タマブキの実は痩果(そうか)と呼ばれ、1個の種子を包み込んでいますが、乾燥しても、自然に裂けて種子を放出することはありません。その先端にはタンポポのような綿毛がついていて、風に乗って空を漂い遠くまで運ばれ種子散布されます。


  受粉を待つ雌しべの柱頭    受粉を終え、枯れる花   綿毛のついた痩果

 タマブキの特徴のひとつは、葉のつけ根に直径1cmほどのむかごをつけることです。むかごは花のつぼみができる頃から形成されはじめ、花が咲いて受粉し、種子ができる過程と並行して大きくなっていきます。

 
    つぼみの頃のむかご       種子形成と並行し大きくなるむかご

 むかごは地面に落ちると、そこから芽を出し、新しいタマブキとして育ちます。これは種子による繁殖とは異なり、親株と同じ遺伝情報を持つ無性繁殖の一形態で、「栄養繁殖」と呼ばれるものです。
「むかご」は漢字で「珠芽」または「零余子」と表記されます。「珠芽」は、植物の葉腋などに形成される、養分を蓄えて肥大した芽を意味し、「零余子」は、親株から零(こぼ)れ落ちた小さな子(余子)という意味合いを持っています。
 いずれも、むかごが栄養繁殖の器官であることをよく表しています。

 ところで、タマブキが属するコウモリソウ属の仲間は、どれもタマブキと同じようにむかごを持っているのでしょうか。
 代表的な種のひとつである「コウモリソウ」は、関東から近畿地方にかけて分布し、その名は、葉の形がコウモリの羽を広げた姿に似ていることに由来します。属名「コウモリソウ属」も、同様に広がる葉の形態にちなんだものです。
 そのコウモリソウは、花はタマブキに似た筒状花ですが、ムカゴは形成されません。

 
    コウモリソウの花           コウモリの羽のような葉  

 宮城県内でよく見られるコウモリソウ属には、「モミジガサ」と「オオカニコウモリ」があります。
 モミジガサはその名のとおり、葉の形がモミジに似ており、若芽が傘のように広がるのが特徴です。山菜としては「シドケ」と呼ばれ、春の若芽が人気を集めています。
 モミジガサも、花や実の形はタマブキに似ていますが、ムカゴは形成されません。

 
     モミジガサの花              モミジのような葉

 オオカニコウモリという名は、その葉の形がカニの甲羅に似ていることに由来します。針葉樹林やブナ林の薄暗い森林帯に群生し、山菜としても食用にされます。
 オオカニコウモリも、花や実の形はタマブキに似ていますが、ムカゴを形成しません。

 
    オオカニコウモリの花         カニの甲羅のような葉

 日本には十数種以上のコウモリソウ属が分布するといわれています。これらの仲間も調べてみると、いずれも筒状花からなる頭花をもつ点は共通していますが、むかごを形成するのは、タマブキとその基本種であるウスゲタマブキのみでした。

 
     タマブキのむかご          落下し発芽能力を持つ    

 タマブキは、なぜむかごを形成するようになったのでしょうか。
 この植物は、山地の谷間や湿った林縁・林床など、日照や風通しが限られ、訪花昆虫も少ない環境に生育しています。そのため、花粉の移動や受精がうまくいくとは限らず、たとえ種子ができても発芽や定着が難しく、種子だけに頼った繁殖では安定して子孫を残すことが困難だったと考えられます。
 一方、むかごは地面に落ちると発芽する能力をもち、種子繁殖よりも早く、確実に子株を育てることができます。気候不順によって受粉や種子の成熟が妨げられる年でも、むかごによる栄養繁殖なら命をつなぐことが可能です。病害虫や乾燥などで地上部が枯れても、むかごが残っていれば再生することができます。
 タマブキは、種子繁殖によって遺伝的多様性を維持しつつ、むかごを形成することで他種に負けることなく群落を築き、生存率を高めながら、確実に子孫を存続させてきたのでしょう。


むかごが目立つようになったタマブキ

 タマブキも、もともとは他のコウモリソウ属の仲間と同様に、むかごを持たない植物だったのではないでしょうか。
 植物の遺伝子は、世代を重ねる中で偶然の変異(突然変異)を起こすことがあります。あるとき、葉腋にむかごを形成する個体が現れ、その性質をもつタマブキが生存率を高め、今日まで受け継がれてきたと考えられます。
 むかごによって繁殖する植物としては、ヤマノイモやナガイモなどが知られています。一方で、むかごとは異なる形で栄養繁殖を行う植物も多く存在します。たとえば、ランナーで増えるイチゴ、葉先から芽を出すショウジョウバカマ季節のたより48)、球根で増えるヒガンバナ季節のたより12)やヤマユリ季節のたより55)など、葉、茎、根による繁殖の方法は実に多様です。園芸植物における挿し木や株分けも、こうした栄養繁殖の能力を活用したものでしょう。
 多くの植物は種子で繁殖するものと思っていたのですが、クローン植物の生態と進化に関する研究では、被子植物のうち約7割が、種子繁殖と栄養繁殖の両方を行う能力を持つと報告されています(de Kroon & van Groenendael, 1997)。
 コウモリソウ属の多くの種は、種子繁殖のみで安定して子孫を残しているようですが、地上に見られる被子植物の多くは、タマブキのように両方の繁殖様式を使い分ける能力を進化させることで、厳しい環境変化の中を生き延びてきたのですね。(千)

◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花

【ご案内】感覚から広がる『アート✕教育』の可能性

  

 里見まり子さんはしばらく前に宮教大を退職され、現在は関西の方にお住まいですが、2021年から東北大学で研究されていた虫明元先生を中心とするJST-RISTEXプログラム「社会的孤立・孤独の予防と多様な社会的ネットワーク構築」に参加され、毎年この時期にワークショップなどの取り組みをしてきました。
 そして本プロジェクトで、教育とアートがどのように人と人との関係をつなぎ、そこに関わった参加者の社会性や情動性がどのように変容していくか、脳科学の知見を踏まえてその効果検証をしてきています。

 今回の『ワークショップ&トークセッション 感覚から広がる「アート✕教育」の可能性』(11月22,23日/青葉山コモンズ)は、言語・身体・感覚から広がる自由な表現を可能にし、そこから新たな出会いや発見をもたらす多様なアート✕教育の試みを、教育の未来を考える機会にしたいと開催されるものです(詳細は、下記のチラシをご覧ください)。

 募集締め切りの【11月10日】の段階で、どのワークショップも定員を大きく超える申込みがあったため、追加の参加募集は行わないことにしました。
 ただし見学は可能です。見学でよければ申込みフォームから申込み下さい。