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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

4月4日

 4月1日は林竹二先生が遠くに旅立った日。1985年、もう30年近くになる。

朝早く、奥さんから「できたら顔を見てほしい」という電話をいただき、北山のお住まいにお別れにかけつけた。先生のお顔は安らかで、十分満足そうに私には見えた。

 先生は大学病院で1年近く病床で過ごされたが、月1回程度、601号室をお訪ねした。いつも喜んで迎えていただき、いろんなお話を伺うことができた。

 私が先生を大学病院に見舞ったのは1976年にもあった。先生が北海道で軽度の脳血栓を発病、旭川から転院治療されているときだった。このときは、病床に小黒板とチョークを持ちこんで、授業のために黒板を使う練習をされていたのだ。まだまだ授業は止められなかったという証と言える。

 1978年1月に全国教研集会が沖縄でもたれ、私も参加することを先生に話すと、「私も沖縄に行っているので会おう。そう、閉会行事での講演を一緒に」ということで、沖縄でお会いしたことがある。お会いした時の先生の第1声は、「開国に関する新しい資料が見つかった。今度の授業は、これまでよりは少しうまくいきそうな気がする」と、満面に笑みを浮かべておっしゃった。その様子を眺めながら、先生はいつも授業のことを考えておられるんだなあと、現場の私は叱咤される思いをもったのだった。

 私が、クラスでの授業をお願いしたのは、先生が授業行脚を止められた後の1981年の2月だった。「2年間受け持って卒業する子どもたちへのプレゼントを先生の授業にしたいのですが」とお願いした。先生は快く受けてくださった。

 校長は「教育委員会に聞かないと返事ができない」と言い、教育委員会は「指導案を提出せよ。それによって判断する」など、すったもんだして、先生に大迷惑をおかけした。結局、最悪の場合を想定して確保していた公民館の部屋で、放課後、私が年休をとっての授業になった。(この時のことについては、先生の著作集8巻「運命としての学校」、太郎次郎社刊「いま授業を変えなければ子どもは救われない」に詳しく書かれている)。

 どの年譜にも入っていないが、1984年1月、宮城民教連「冬の学習会」で講演をしていただいた。入院される年である。この時、先生は、「家にある著書をもっていき、売って民教連の資金にしたら」と言ってくださり、ありがたくいただき、全部売り切ったことも記憶にある。そのときの講演記録はHさんに起こしてもらったが、先生にご覧いただくことができず、そのまま私の書棚にしまったままになっている。

 大学時代、先生の講義の脱落者でありながら、現職にあっては本当に世話になりっぱなしであった私は、なんて幸せ者なのだろうとつくづく思う。

 命日は過ぎたが、間もなく、いつものように墓碑銘「無根樹」の前にひとりで立ち、返事のない話をしにいこうと思っている。