mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと12 母との思い出

 小さい時の部落内の家の屋根は、私の家を除いて、みんな茅葺だったように思う。私の家は、祖父が別家ということで新しく、平屋で、屋根は「コバブキ」だった。
 と書いて、「コバブキ」とは漢字でどう書くのだろうと、いつも手元に置いている(電子辞書大辞林)を開いてみた。
 辞書は「該当語なし」と答える。それで、「こば」と開くと、いろいろな欄の並ぶその欄外に「木羽・木端」と出て、「材木のきれはし。こっぱ」「柿板(こけらいた)に同じ」とあった。「柿板」を出すと「屋根を葺くのに用いる杉・椹・檜などの薄い削り板。木瓦(こがわら)。木羽(木庭)。木羽板、こけら。」とあった。私も今初めて知ったが、「柿」の木の板をスレート状に並べたのが最初だったのだろうか。
 後日、コバが反り返って隙間を作るようになり、瓦屋根にしたことと、思い出はつながった。言葉を知らない・忘れることが多いので、辞書を傍に置いているので、すっかり話が横道にそれてしまった。

 ところで私の家は、畳の部屋が茶の間を含めて3部屋並び、それに道路に面した部屋がつづいていて、そこは店に使ったり自転車置き場になったりした。
 奥の部屋の壁には大きい額が2枚と、それよりやや小さい額が1枚ならんでいた。その小さい額は、セーラー服を着ていた。
 その3枚について母に聞いたことがある。「大きい額はおじいちゃんとおばあちゃん。もう一枚はおばちゃん」と言い、私が小さかったからか、それ以上のことは何も言わなかった。
 その時はそれで終わったが、私のなかではおさまらなかった。その後、本家の叔父に聞いてみた。叔父の答えは、おおよそ次のようなものだった。

 「タツオのじいちゃんは、店をやっていた。ばあちゃんは石森(いしのもり)から嫁さんに来た。
 あんたの母ちゃんが登米(とよま)の女学校に行っていた時、ばあちゃんが病気で死んだ。その次の年、じいちゃんまで死んだ。じいちゃんが死んだ時、母ちゃんは女学校をやめた。女学校の4年生でなかったかなあ。
 母ちゃんは、まだ小学生のスミエちゃんと二人だけになったんだ。母ちゃんは、じいちゃんの店をやると言って、始めた。
 オレたちは、(このままではダメだ)と思って、母ちゃんの結婚相手を探した。
 結婚と言っても、しばらくは親代わりをしてもらえるという人を探した。
 そこで、来てもらえることになったのが父ちゃんだ。上沼(うわぬま)の人だ。行ったことあるだろうが、上沼に・・・。
 父ちゃんは先生だった。母ちゃんの妹のスミエちゃんは、母ちゃんと同じように
女学校に入った。
 ところが、スミエちゃんも、体をこわして亡くなった。タツオ、おまえが生まれて間もなくだ。1か月ぐらいしか経っていなかったような気がするなあ。・・・・」

 この話を聞いたのは、私が小学校に入った頃でなかったろうか、父が戦争に行ったのは2年生だったから。
 叔父の話にはよくわからないところがあったが、母の大変さがなんとなくわかった。
 その後、叔父の話のことについて、母に言うことはなかった。( 春 )