mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

少年の日のこと

 どういうわけか、歳が重なるにつれて、仕事上でのことはもちろん、ほとんど語ることのなかった自分の小学校(国民学校)時代のことまで妙に浮かんできて、「吐け」「吐け」と体のそちこちをつつく。
 吐けば少しは気が楽になるならばと、きわめて個人的であり、この欄を汚すことになるだろうことには目をつむってもらうことにし、ほんの少し吐かせてもらおうと思う。

 私の小学校時代は岩手県を隣にする山の分校だったことは、すでに何かで触れたことがある。自分で比べようがないので、分校生活の6年間が他と比べてどうだったかはわからない。しかし、自分では、分校生活はよかったと今でも思っている。何よりも、学校内よりも、学校への行き帰りに楽しみが多かった。それも季節ごとに変化があったのだから。

 学校は、私の部落から一山越えたところにあった。山越えと言ってもそれほど急坂ではない。この山が、行き帰りの楽園だった。山の中腹に堤があり、春先には、カバンを投げてこの土手の枯れ草に仰向けになり天を仰いで大騒ぎする。夏休みは北上川が待っている。堤防沿いの家からはパンツひとつで、ときどき畑の生り物をつかんで走る。秋は道路わきにカバンをなげて、山に入る。キノコが待っているのだ。竹串に刺して家への土産とする。
 川向に叔父の家がある。ふだん用事のある時は船頭さんの渡し船で行くのだが、その北上川が冬になると見事に凍り、しばらくの間は歩いて渡れた。行くと叔父叔母が喜んでくれるので、頻繁に顔を出したものだった。今はまったく凍ることのないことを思うと、これこそまちがいなく地球温暖化の証である。「四季」という言葉は知らなくても、生活に四季を体感しつづけることができたのだった。

 ところで、こんな暮らしの中で、一度だけ、仮病を言い、学校を休もうとしたことがある。2年生の時だ。特別悩みつづけたうえでのことではなかったのだが、ある朝、目を覚ました時、フッと学校のことが浮かび、(どうせ今日も授業はおもしろくないのだろう。今日は休むことにして、このまま寝ていよう)と決めたことがあった。
 複式学級だから、1年生と一緒だ。ほとんどの場合、時間の半分は自習になる。1年生の時は、この自習時も、知らない2年生のことが聞けるからまだよかったが、2年生の自習は、新しいものは聞こえてこない。自習もありきたりのものだから退屈で仕方ないのだ。

 「時間だよ。遅くなるよ」と、突然、母が現われた。私は、とっさに「腹が痛いから、今日は休む」と言った。母は怒った。「腹が痛いぐらいで学校を休むということがあるか!」と言うなり、布団を剥がされ、服を着せられ、ランドセルを背負わされた。そして学校の途中まで引きずられ、「あとは、一人で行け!」と、突き放された。母のこの時の形相にはこのまま学校に行かないことではおれないものだった。ひとり歩きながら、(母ちゃんはダマセナイナ・・)と思い、学校に行った。父はそのとき戦地だった。(父のいない間に子どもを曲げることはできない)と、母は非常にぴりぴりだったのだ。そんな母の気持ちが伝わってきたようにも思う。それからは一度も学校を休もうなどとは考えることはなかった。

 授業がおもしろくないと、ひとり別のことを頭に浮かべて過ごすことで十分時間を使えるようになっていった。祖父の書棚に並んでいた「講談全集」(総ルビ)を読むようになっていったのもその頃からのように思う。( 春 )