mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと8 地区講演会

 私は、教職最後になるK小に12年間在職した。1校満期10年間と決まっているらしいので、それを2年オーバーしたわけだ。
 10年目の終わり、T校長に、「異動しても残任期間は2年間なので、できればここで退職にさせてください。これまでさんざん迷惑をおかけしましたが」と言い、加えて「『私を』という学校はないでしょうから、校長さん、ここで私を使ってください」とお願いした。このことで校長にどのくらいご苦労をおかけしたかどうか、T校長は一言も言わなかったのでわからないが、そのままK小で2年間プラスされることになった。子どもたちや同僚・父母にとってはどうだったかわからないが、私にとっては、まちがいなく忘れられない2年間がプラスされた。
 この12年間はいろいろあったが、ここでは、学校を直接離れたK小時代の1つの思い出を記す。

 K小への転任が決まった時、「K小が所属する仙台市職員組合第1地区の地区議長(?)になってくれ」という誘いがあった。自分がそんな柄でないことはよくよく承知していたが、その時、パッとうかんだことがあり、「教員と父母が一緒の地区講演会などをもってみたいので受けてもいい」と返事をし、それ以外のことは何も考えずに事は決まった。私は、年に一度ぐらいは、近隣の教員・父母が一緒にいろんな方の話を聞く場があるといいのではと以前から考えており、そのチャンスと思った。

 1年目の秋の地区委員会で、講演会をもつことを提案。特に異論はなかった。もしかすると、賛成はしたが、参加者数についての心配を持つ方はいたかもしれない。講演講師についても、初めてであり、とつぜん「誰に」と言われても困るだろうと思い、私は腹案をもっていた。秋保での生活体験もある「ガラスのうさぎ」の著者・高木敏子さん(作家)の講演を提案した。「どれだけの方が来てくれるだろうか・・・」という心配の声もあったが、年度の残りを考えるとここで日時を決め、すぐ取り組まなければならない。
 さっそく連絡先を調べて直接お願いした。電話の向こうの高木さんは、「引き受けてもいいが、2か月ぐらいしかないのに、人は集まるの?」と。「頑張りますからよろしく」と言い、高木さんに返事をいただいた。
 地区委員だけでなく、多くの仲間が頑張り、会場の西多賀市民センターのホールは200人を超える参加者が集まった。会場に入った高木さんも、「あれから取り組んでよく集まったねえ」と満足そうだった。

 2年目の1985年度からは、地区委員のお互いがいろんな候補者を出し合って話し合うようになった。記憶では、話し合って決めた方に依頼、すべての方に受けていただいたと思う。
 以下に、おいでいただいた方と演題をほぼ年度順に紹介してみる。
・「子は天からの授かりもの」大田堯さん(教育学者) ・「教育ってなんだー今、親と教師は・・・」斎藤茂男さん(共同通信記者) ・「動物の親は子をどう育てるか-私の動物記」増井光子さん(井の頭動物園長) ・大石芳野さん(写真家) ・「いま子どものために何をだいじにしなければならないか」千田夏光さん(作家) ・松谷みよ子さん(児童文学作家) ・辺見庸さん(作家) ・「子どもに平和とやさしい明日を」早乙女勝元さん(作家) ・「動物はどう生きているかー40年間動物を育てて」増井光子さん(上野動物園前園長)
(*以上であるが、見つからない記録があり、演題を紹介できない方がいることをお許しを・・・)

 なお、90年度は近隣PTAに働きかけ、「近隣5校PTA共催」の講演会としておこなった。
 演題は、「なぜ少年たちは事件をおこしたか」で、横川和夫さん(共同通信記者)にお話をお願いした。このお話は、河北新報など地方紙36紙に「荒廃のカルテ」の題名で連載、大きな話題になったルポルタージュで、その取材チームのキャップが横川さんだった。講演後、講演記録をおこし、5校PTA名で報告集をそれぞれのPTAで各戸に配った。
 5年目ごろからだったと思うが、会場を広い山田市民センターに移しており、入場者は常時400人台になり、横川和夫さんの時は600人を超える集まりになった。
 今考えると、よくぞ毎年休むことなく続けたと思う。みんな本気だった。それに、講師の方もすべて第1候補ですべて決まっていったのも、取り組みに力をつけていただいたと思う。
 もうひとつ加えておくならば、増井光子さんに2回登場いただいたことである。1回目の時は西多賀会場だったが、開演時間が近づいても増井さんが現れない。心配になった私は、ホールと玄関を何度か行き来した。ぎりぎりの時間に、作業着と長靴姿の方が現れ、「増井です」と言い、講演は何事もなく終わった。その後の話では、「ぎりぎりの時間まで園で動物の世話から離れられず、そのままの姿で園を飛び出してきたのだと言う。しかも「今日は終わりしだい新潟にいく」ということだった。
 私は、この時の増井さんの生き方が忘れられず、地区委員会で頼んで、増井さんが上野動物園長を退職された後、「もう一度お話をしてください」とお願いして快諾を得たのだった。演題の「動物はどう生きているかー40年間動物を育てて」は、増井さんに決めていただいたもので、このことは今も忘れることのできない講演になった。
 私は、その2か月後に満期退職となった。( 春 )