mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

今は昔、こんな校長さんたちがいた ~ オレは幸せ者11 ~

 オレの教職年数は、組合専従3年間があったので、実質35年間。その間、ご一緒しお世話になった校長さんは13人。そのうち、今振り返って、どうしたわけか、記憶に残る話し合いのない方がお二人いる。お二人ともご一緒したのは1年ずつだったからかもしれないが・・・。それにしても、何十年も経っているからとはいえ、話し合った記憶がないというのは、別室にいる学校長だからとはいえ、職員のひとりとして自分を内心失礼だったと思うし、自分自身として今になるも寂しい感じはぬぐえない。

 初任時すぐA校長に言われた「①時間を守る。②出勤したらすぐ出勤簿に捺印する。③机上には物を置かない。」は今でも忘れない。しかし、どうしたわけか、②と③は転勤後すぐ瓦解、他の同僚よりもひどくなった。 
 A校長は、学校のすぐ前に下宿していた。「月曜の朝のバスでも間に合うでしょうに、どうして前日の日曜に戻られるんですか」と聞くと、「カスガクン、バスが予定通り走るとは限らないじゃないか。もしものことがあったらどうするかね」と言われた。また、『コウモリ校長』と言われるほど、コウモリを身から離すことがなかった。このことについても尋ねたことがあった。すると、「雨はいつ降ってくるかわからないじゃないかカスガクン。そうだろう」と言うのだった。当時まだ折りたたみ傘はなかった。痩せぎすな体で、チョビ髭をくっつけていた。腕にこうもりをぶら下げて歩く姿にチャップリンを重ねたことがあった。

 初任の小学校3年後に中学校に異動し、10年目ぐらいにM小学校に赴任した。後述するが、私は異動について、ごねたのは1度だけ。

 M小に転任後、飲み会などで何度か、「だまされてお前を採ってしまった」とB校長に何度か言われたことがある。自分のことなのにオレは面白く思い、「校長さん、どんなことを言われたの?」と聞くと、その度に、いかにも悔しそうに「そんなことはいい!」と言うのだった。その相手の校長が、先に「話をした記憶の残っていない2人の校長」のうちのひとりであるC校長であり、(B校長ではかなわないだろうなあ)と思うと同時に、オレの転任希望をかなえるために、生のオレを話したのでは希望をかなえることができないと思ってのダマシだったのだろうと考えると、オレのどこが異動に危ういキズなのか自分ではよくわからないが、オレのためにウソをついたC校長も責められないし、また、正直に悔やしい気持ちをオレに繰り返し吐き出すB校長を(正直な方なんだなあ・・・)と思うのだった。

 どうしたわけか他にも似たようなことがあるが、それはもうやめて、ここからは、仕事を本気で話し合い、いろいろ教えられたことが今もたくさんのことが残っているお二人、K校長とS校長とのことを述べる。
 
 K校長とは、中学で5年半、ご一緒した。オレを採ってくれたY校長が3年目の秋、急逝。その後を継いだのがK 校長。Y校長とは3年という約束だったので、その年度末、異動希望を出した。するとK校長は「何か転任しなければならない理由があるのか。オレが途中で来てその年に出ていかれると、なんかオレの問題にみられそうだ。特に理由がないなら、もう少しいてくれ。」と言われ、そのまま、同一校満杯と聞いていた都合8年いさせてもらった。

 この中学時代は、50代が校長、40代が教頭、あとは30代と20代が半々という職員構成で活気がありオレは楽しかった。何をやるにも、みんな(もちろん校長・教頭も入り)でワーワーとしゃべり合い決まっていった。だから、いったん決まれば、みな懸命に取り組んだ。生徒にもそれは伝わっていたと思う。
 K校長は、行事版に書かれた自分の出張の欄を時々「それは出かけないから消してくれ。もし補欠があればオレが行く」と言うのだった。そうそう、ある年、福島で日教組主催の全国教育研究集会があった。この頃は、毎年、1万人をはるかに超える集会だった。開催地が隣ということで、1日だけでいいから参加したいと7人の希望者が出た。係のオレがK校長にそのことを言うと、「そのような人数、補欠は大丈夫か」と言う。「やってみます」と言い、教科ごとで穴埋めをやってみたが、どうしても2コマ埋まらない。そのまま校長に見せて「この穴を校長先生にふさいでいただくと、全員の希望がかないます」というと、「オレが2時間行くのだな、いいだろう」と決着がついたことがあった。

 また、当時、3年生は、放課後2時間の全員補習があった。オレが何回目かの3年担任のとき、学年で話し合って、6時間の授業の充実を工夫して、2時間の補習はしないことを提案することに決めた。主任がなかなかの方だった。K校長に話すと、「大丈夫なのか(進学のこと)、もし失敗すると、オレは街の中を歩けないな」と言う。「それは我々も同じです」と言い、補習をやめることにした。校長はすぐに、「これまでやってきたことをやめるのだから、3年父兄への説明会を9つの町内会でオレが歩いてもつ」と言う。オレは、学区内に住んでいたので「私も出ます」と言った。遠くから通っていた主任には無理しないように言ったが、学年主任もほとんど参加した。入試の結果は問題ゼロだった。

 在籍8年になり転任希望を出した。出張から帰ってきたK校長に「F小に決まったので、明日身体検査に行くように」と言われた。オレは驚いた。すぐに「せっかくですが、そこには行きたくありません。しかも、その地以外の地を希望したはずです」と言った。
 どうしても嫌なところで仕事をしたくないが、切り抜ける案も浮かばない。翌日は「風邪」ということで学校を休んだ。雪の日だった。ひとり炬燵で本読みをしていたところに、雪の中をK校長が現れ「仮病だろう」と言う。「そうです」と返事をした。今、その後についての記憶はない。異動については何も話さなかったと思う。直後から、その件についていろんな方と会いつづけたが、私は拒否しつづけた。
 異動発表が近づいたある日、今まで何も言わなかったK校長が「異動というのは芋づる式につながっているんだ」とポツンと言った。オレは、(そうだ、オレの後に来る人、その後の人と、もう決まっているんだ)と初めて気がついた。あわてた。そこで、「私の気ままのために迷惑をかけたくありません。私のあとがまは必ず出るでしょう。その方が海から出ても山から出ても私がそこに行きます」と言った。あとがまはすぐに決まった。気ままほうだいのオレの、人生最大の気ままだったろう。K校長には本当によく我慢をしてもらった。今も感謝している。

 次にS校長とのことを少し述べる。S校長とは2年間だけのご一緒だった。同一校勤務年限が満杯になったからだ。
 私は学級だよりを2日に1回の割で発行し、職員室では「読みたい」と言われた同僚には読んでもらっていた。S校長からは、赴任1か月後ぐらいに「私にも読ませてほしい」と言われた。その後、時々、「今日の放課後、あなた、時間とれないか」と言われ、校長室に行くと、S校長はオレの学級だよりのファイルを机の引き出しから持ち出してくる。どの便りにも赤線が何カ所にも引いてあり、余白にはメモ書きがある。それをもとにしてしばらく話し合う。もちろん、便りだけについての話し合いで終わらない。オレにとっては、S校長は「便り」の一番の読み手であり、便りをつくるための応援者であったと言えるように思った。

 ある朝、打ち合わせの会で、市の特別活動研究部の担当者から、「児童会の役員選挙をやめようと部会で話し合った」という報告があった。それについて、児童会担当のオレは、「子どもの自治活動を部会が各学校の児童会の運営を決めるのはおかしい」とオレが言い、議論になった。S校長は、「そのような大事なことを朝の打ち合わせで決められるものではない。きちんと時間をとって話し合うべきだ」と言い、後日、臨時の職員会で話し合い、従来通りということになった。

 次の勤務校の時、河北新報の友人からの話で、夕刊の小さいコラム欄に週1回で2か月、書きつづけたことがあった。その拙文について、S校長からは何度か感想のお手紙をいただいた。たいへん恐縮しながら、コラム文に終わらない大きな激励になった。

 K校長とS校長は、なんと、ともに退職後の仕事を半ばにして急逝されたことを後で知った。種々のご迷惑をおかけし、たくさんの教えを受けながら、直接お礼を申し上げることができなかったことを今になるも悔しく思う。( 春 )