mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

佐藤忠良さんと、宮城県美術館移転問題に想う

 最近、自分の人生を振り返ることが多くなった。子どもたちへのいたらなかったことが数多く思い出され、取り返しのつかない過去の事実に身の置き所がなくなるのだが、それでも、幸せなことに、たくさんの仕事の師や同僚との出会いにより、なんとか仕事を終えることができた。その後、歳を重ねるごとに、(あの方との出会いがなければ・・・)と思うことが次々と浮かんでくる。
 それらの師への感謝の意のつもりで、たくさんの師との事実を、断片的でも、この欄を借りて書いてみようという思いがふくらんでいる。それはまた、もしかすると、教育という仕事が人とのつながりの大切さや、多くの同僚や師に支えられながらの仕事であることを考えてもらえるきっかけになるかもしれない。

 そんなことを考えていた最中の9月22日、河北新報朝刊に、「県美術館移転 故佐藤忠良さん家族反対『壊されれば父悲しむ』」と、3段抜きの見出しの記事が載った。県美術館移転には「声」欄その他で毎日のように「反対」記事の掲載がつづいており、不思議なことに「移転賛成」は目にしない。だれがどんな理由で賛成なのだろう?
 22日の記事の中では、長女のオリエさんが「父は建物の設えや周囲の環境、作品の展示や保管方法など熟慮された県の建設計画に納得し、作品の寄贈と記念館設立に合意した。記念館は県民の皆さまの熱意と父がつくり上げた稀有な美術館と言っていた」と書かれていた。

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 私はこの記事を読みながら、忠良さんのアトリエを訪ねた日のことを思い出した。
 親交のあった現代美術社の太田弘さんが、高校美術の教科書「美術・その精神と表現」を発行。その編集者代表が佐藤忠良さんだった。
 「美術・その精神と表現1」の表紙は、忠良さんの作品「帽子ー夏」で、その巻頭には、「この本を読む人へ」と題した忠良さんの文が載っている。

 この本をはじめて手にした人は、美術の教科書としては文字数が多すぎると思うかもしれない。
 実は、ここのところに、この本をつくった者の願望が端的に表れている。
              *
 わたしたちは、美術を静止的なものとしてとらえていない。変化しやまないものとして見ている、と言ってもよい。また、当然のことだが、その変化しつづける美術の制作にあたっている人間もまた、変貌しつづけている、と考えている。
 美術や人間の変化というと、時代が移り変わったり、年齢を重ねたりすると自然に変わっていくように感じられるかもしれないが、わたしたちは、そうは考えていない。しぜんに変わるどころか、自覚的に人生を歩んでいる人は、自分をつくり変える努力を重ねていきていっている、とみている。
 自由な人間というのは、偏見や権威に惑わされず、真理や美に対して直面し、勇気をもってそれを吸収できる知性や感性をそなえた人間である。生まれたままの自然児が人間なのではなくて、ほんとうの知性や感性を努力の末に獲得した人間が自由なのである。(以下略)

 この巻頭の言は、忠良さん自身の生き方そのものなのだろうと思い読んだ。
 彫塑とまるっきり縁のない私だが、このような教科書つくりにまで参加してものを言う忠良さんに直接お会いしたい気持ちが日ごとにふくらんだ。忠良さんのアトリエを訪ねたいと太田さんを通してお願いし、杉並のアトリエを訪ねた時のことを思い出す。

 自宅から少し離れたところにアトリエがあり、私たちは約束より早めにアトリエに到着した。そのときには車が一台止まっていた。約束の時間、忠良さんが自転車で現れた。私の心臓の鼓動はアトリエに着く前から普通でなくなっていた。 
 後での話によると、車は笹戸千鶴子さんのもので、造形大学一期生の笹戸さんは卒業後も教えてほしいとねばり、アトリエの掃除などをやってくれるのなら、アトリエを一緒に使うのはいいということになり、笹戸さんは多摩から通い、忠良さんが来る前にアトリエをきれいにし、最後の片付けもして帰っていっているのだという。

 アトリエの内部は私の予想よりはるかに広く、忠良さんは、よく「私は職人だ」と話すのだったが、職人ということばがぴったりする部屋であり、気さくな対応に、私もいつの間にか正常にもどっていた。
 「いま、そこの制作中のものは、フランス文学者で慶応大塾長の佐藤朔先生の頭像なのだが、悪戦苦闘している」と言っておられた。その後、忠良館開館の日に、完成した朔先生の頭像に会うことができ、他の作品とは別な感慨をもった。
 忠良さんには、休むことなくいろんな話をしていただいた。造形大創設のこと、学生を4年間でどう育てるかなどなど。それは、前記高校教科書巻頭言を具体的にしていることでもあった。そして、現代美術社との関りのことなどについてもお話しいただいた。

 種々のお話のなかに、宮城県美術館に作品を入れることになったこともあった。
「~~県から話があり寄贈させていただくことになった。その手続きとして、ぼくからの寄贈申し入れがあったのでということで県議会にかけることにする。そのための議会用にとりあえず作品目録を3分の1程度つくってくれと言われた。そのため作品リストを自分でつくるというのは造った自分としては辛いので、全部彼女にやってもらった。どんなリストをつくったか僕もよく知らない。」と笑いながら話し、笹戸さんにそのリストを見せていただいた。

 どの作品も、朔先生の頭像と同じように苦労して仕上げたものであろうから、寄贈リストを自分でつくるのは「辛い」と言われる忠良さんの気持ちはわかるような気がした。
 それから何年後になっただろうか、県美術館の一角に位置する忠良館の開館式が行われ、その式にも、現代美術社の生活科教科書つくりにかかわっていた仲間が忠良さんに呼んでいただいた。忠良さんは終始満面に笑みを浮かべていた。あの「寄贈作品リストは自分ではつくれない」と言っておられた時と違っていたのは、自分の精魂込めた作品の居場所が決まり、その場所を目にした安心・喜びだったのだろうと思う。
 そう考えると、河北新報にあるご家族のお気持ち、わけてもオリエさんのお気持ちはよくわかるし、県美術館を愛している方たちが移転反対をしている気持もわかる。アトリエでのお話のひとつひとつ、あの忠良館開館の忠良さんの笑顔を忘れ得ない私もまた絶対動かしてほしくない。

 アトリエを訪ねた後、ご多忙をわかっておりながら、私は忠良さんにずいぶんご迷惑をおかけした。一度は、クラス(6年生)の子どもたちに彫塑の授業をしていただいた。また、宮城民教連「冬の学習会」と、東北民教研宮城集会での講演をお願いした。制作にすべての時間をそそぎたいと思っておられることを私も知っていた。それでいながら、つい、無理を言いつづけた。授業をしていただいたときは、「あなたのクラスだけで終わりということで」とも言われたのだった。
 ずいぶんご迷惑をおかけしてしまった。
 今私にできるせめてものお礼の意は、「県美術館を移転案から守ることにがんばることだな!」と忠良さんのご家族の意についての記事を読んで、さらに強く思った。( 春 )