mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

7月17日

 15日、宮崎典男さんの墓参に行き、帰りにお宅に寄った。そこで、紙袋の中から見つかったという新聞の切り抜きを見せてもらった(昭和5283日付「河北新報」。*連載記事「戦後教育・この30年」レッドパージ上)。私だけのものにしたくないので、長くなり、「つぶやき」にはならないが、そのまま紹介させていただく。

 宮城県教育研究所の所員をしていた宮崎典男さん=当時(33)=は、2410月、所長室に呼ばれた。(以下約150字略)宮崎さんを呼んだのは、所長事務取扱 高山政雄宮城県教育次長だった。高山次長は宮崎さんに言った。

「向うさま(アメリカ軍政府)からの要請もあり、どうしても処分者が出るらしい。君もそのなかに入っている。処分される前に自発的に辞めてくれないか」

 この年の春から、共産主義者に対するGHQの攻勢が一段と強まっていた。国鉄全逓の組合指導者が人員削減に合わせて、続々と首を切られていた。レッドパージが、ついに教員にも及んできたのだ。文部省は2497日、都道府県教育委員長をひそかに東京に集め、レッドパージを指示した。「共産党員の追放が占領軍から命令されている。これに従わなければならない。が、憲法上の諸権利とも絡むので、共産党員を理由としての解雇ではまずい」ということだった。

 宮城県では1013日、県教育委員会が開かれ、7項目の人事刷新要項をまとめた。次のいずれかの項目に当たる者には、免職、休職、降任または退職の措置をとるというものである。①勤務成績不良の者②教育委員会の教育方針に協力せず、指示に従わぬ者③教師としての指導力が著しく劣り、能率の上がらぬ者④教育公務員としての体面を汚す行為のある者⑤極端な非民主的言動をなし、学校内の秩序を乱す者⑥新教育をことさら阻害しようとする者⑦教育基本法8条(政治的活動禁止規定)にふれる者 ―。

 高山次長は宮崎さんに「研究所は県教委の一つの機関である。その所員が県教委の方針、考えに対し批判的な考えをもったり、批判的な研究を発表するのは困る」と説明した。宮崎さんは共産党員ではなかった。しかし、民主的な教育運動を展開し、同人誌「カマラード」の発行責任者をしていた点が、GHQににらまれた一因らしい。「カマラード」は戦前、生活綴り方事件で検挙された佐々木正氏が発刊し、宮崎さんはその志を継いで昭和21年、復刊した。

 呼び出しを受けたその日、宮崎さんは「私は辞めます。ただし、“カマラード”に参加している何百人もの先生に迷惑を及ぼさないで欲しい」と念を押した。宮崎さんの願いにもかかわらず、「カマラード」は248月、第20号で再び中絶してしまう。

 研究所から宮崎さんと、もう1人の研究員の2人がパージを受けた。この研究所は県教委と組合の協力で生まれた機関だったが、その蜜月時代はつかの間に終わり、組合推薦で研究員となった2人がパージされた。

 教職に一生をかけていた宮崎さんは大変なショックを受けた。「敗戦以上のショックだった」と言う。「ひと一倍、教育に対する関心があったし、辞めさせられるような悪事を働いたとは、とても思えなかった」。3日間ぐらい、何も手につかず自宅でぼんやりしていたという。

 この後、宮崎さんは宮城県内では、なかなか復職できず、昭和28年に福島県の土湯小で、念願の教壇にもどれた。ここで優れた教育実践を残し、生活綴り方運動の賞として知られる第6回小砂丘賞を受けた。

 パージから11年後、宮崎さんはやっと宮城県内の小学校に戻る。柴田町船岡小で平教員のまま残る13年間を子どもたちと過ごし退職年齢を迎えた。宮崎さんにとって、レッドパージとはなんだったのだろうか -。

 「敗戦直後、先生たちは物質的には貧しかったが、政治でも教育においても、エネルギッシュに活動していた。それが、レッドパージでしぼみ、生気を奪われた。しかし、その一方で、レッドパージをきっかけに、それまでの浮ついた上っ調子ではない教育実践が始まった。世の中の変革を安易に考えるのではなく、あるときは回り道をしながら着実にやっていかねばならないと反省させられた」と言う。宮崎さんも含め、宮城県では23人の先生たちが教育現場あるいは組合執行部から追われた。

思うことはたくさんあるが、「つぶやく」ことはしない。文中に出ている小砂丘賞受賞の実践書名は「人間づくりの学級記録」、戦後教育実践書を読む会の第3回目に取り上げることになっていることだけを付しておき、宮崎典男さんについてもその時の話を待つことに・・・。