mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

どれに行こうかな? 春の教育講座

 新年度、子どもたちは期待と不安を胸に学校にやってきます。新しい友だちや先生との出会いにわくわくどきどき。そして、それは先生も同じ。子どもたちの願いや期待にどう応えていこうか、これから始まる一年を思いめぐらします。

 今年も宮城県職員組合が主催する「春の教育講座」が4月6日(土)、13日(土)に県内各地を会場に行われます。楽しい出会いと学びがいっぱいです。

 各講座の内容は、下記チラシをご覧ください。参加申し込みは申込フォームから、お申し込みください。

   申込フォームは、ココ から    

   

うつ病は、いつ誰がかかってもおかしくない

 教師生活41年を無事に勤め上げ退職した。今は労働相談業務の傍ら「働くものの命と健康を守る宮城県センター」の事務局や過労死を考える家族の会のお世話などで充実した生活を送っている。

 私がこれまで仕事を続けることができてきたわけ、それはある心療内科医との出会いにある。学校に多忙や困難な業務が増える中、全国に精神疾患で病休に入ったり教職を去らざるを得ないところまで追い込まれている教師が急増している。私の経験が少しでも悩んでいるみなさんのお役に立てば幸いである。  

 「いま死んだら楽になれるかなあ」「自殺した人はこんな風に追い詰められた気持ちだったのかなあ」学校からの帰路、車を運転しながらそんな考えがふっとよぎった。「だめだ。危ない、危ない」と首を振った。今思えば、かなりのうつ状態であった。25年前のことである。  

 その前年、仙台市職員組合の専従を終えて現場復帰した私は、職員を威圧するパワハラ校長への対応や、その下でギクシャクする職員関係を何とか改善しようと奮闘した。加えて担当学年の子どもたちが学校内外で連日事件を引き起こし対応に追われる日々が続いた。そしてようやく子どもたちを無事進級させ、ほっとした頃に症状は現れた。「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」と言われるものである。

 自分に自信が持てなくなり、教室ではオドオドして声が震えた。人前に出るのが怖くなった。授業もままならない。わけもなく急に涙が流れたり、心臓の鼓動がなぜか不規則になる不整脈が増えた。しかし、心臓病専門の病院で診てもらっても「正常」だと言われた。「いったいどうなってしまったのか」「自分は教師を続けられるのだろうか」と途方に暮れた。

 そんなある日、心療内科医であるK先生(仙台市教委の相談医)の言葉がふと頭に浮かんだ。「うつ病はいつ誰がかかってもおかしくない病気。『心の風邪』とも言われている。日本ではまだまだ精神科に対する偏見があるが、欧米では精神科の主治医を持つことが当たり前。不安を感じたり、何かおかしいと思ったら精神科を気楽に受診するといい」2年前に行われた、元中学校教員の過労自死の公務災害認定を求める会の記念講演での話である。私も当時、事務局に関わっていたが、自分とは別の遠い世界のことと捉えていた。K先生は「この先生は過労によりうつ病を発症した。その結果の自殺であり、当然公務災害として認めるべき」という立場で医師として意見書を書いたり、原告側の証人として裁判所で証言してくださった方であった。

 私は野外活動の代休日(部活動がない日)にK先生を訪ねた。藁にもすがる思いだった。K先生は私の話にじっくり耳を傾けて聞いてくださり、今の状態について「うつ状態である」「働き過ぎである」「気分転換(趣味)が必要」と断言された。その時、私はようやく自分の精神状態が異常だったのだと理解し、少し安堵した。光が差した気がした。

 その帰り道、処方された錠剤を口にした時の感覚は今も忘れられない。駐車場の車内に飛び込むや否や薬を2粒口に放り込んだ。最後の命綱だった。結果、ポパイがホウレンソウを食べたときのそれのような経験をした。モヤモヤが続いていた頭の中の霧が急に消え去り、半年以上感じることができなかったエネルギーが身体中にみなぎるのを感じた。その薬自体が効いたというよりも、「この薬を飲めば変わるはず」「これでだめだったら終わりだ」という強烈な思いが効果を引き出したのだと思う。「まだ教師をやっていく力が残っている」「オレは大丈夫だ」そう確信できた瞬間であった。

 その後はK先生の指導に従い、学校や組合活動で時間がないことを理由に中断していた趣味の「釣り」を復活させた。一進一退を繰り返しながらも心の状態も回復に向かい、教員の仕事もなんとか続けることができた。今では子どもの頃のような釣りキチに戻り、さらに畑を借りての野菜作りまで始めて、心身のバランスに注意を払いながら充実した生活を送っている。

 当時、K先生のおかげで「復活」した私は、再び仙台市職員組合の専従になり、事務局の一員として裁判で国を相手に公務災害認定の勝利判決を勝ち取る力の一端を担うことができた。その後は、過労が心身をどのように蝕むかを身をもって体験したことを踏まえ、仙台市全体の安全衛生活動推進のために取り組んできた。学校でまかり通っている異常・違法な教師の労働の状態を一刻も早く克服し、教師が安心して快適に働ける学校現場をつくることが退職後も私のライフワークである。(エンドウ)

同志会 " 陸上運動指導法講座 " のご案内

 夏の全国大会の準備を着々と進めながら、しっかり授業づくりの取り組みも行っている同志会のみなさんが、新年度のスタートダッシュにむけて陸上運動の実技講座を行います(内容の詳細などは、チラシをご覧ください)。
 ちなみに講師は、研究センター研究部長の久保先生です!

 みなさん、春です。ケルルンクック冬眠している生き物たちも目を覚まします。寒さで縮こまった心と身体を解きほぐしませんか。リフレッシュもかねて、ぜひご参加ください。

 と き:3月30日(土)13:30~16:30
 ところ:宮城教育大学グランド、または体育館
 講 師:久保健さん(みやぎ教育文化研究センター研究部長)
 準備物:運動のできる服装、体育館シューズ、飲み物
 参加費:500円(学生100円 ※同志会会員、全国大会実行委員は無料)

   申し込みは、ココ  から

  

季節のたより143 トサミズキ

  限られた山地に自生、園芸樹となって種を存続

 朝の光が芽吹いたばかりのトサミズキのつぼみを照らしていました。                 
 トサミズキはトサ(土佐)の地名がつくとおり、四国土佐(高知県)の限られた山地で発見された在来種です。庭木として育つことから、東北の地でも庭木や公園樹として植えられてきました。ミズキの名がありますが、ミズキ科ではなく早春にいち早く花を咲かせるマンサク(季節のたより21)と同じ仲間です。
 マンサクはまだ色彩の見られない山林で、トサミズキは里の近くの民家や公園で淡黄色の花を咲かせて春の息吹を伝えてくれます。

 土佐水木(トサミズキ)山茱萸サンシュユ)も咲きて 黄を競う 
                          水原秋桜子


              トサミズキの花の芽吹き

 トサミズキはマンサク科トサミズキ属の落葉低木です。高知市周辺の蛇紋岩地帯のかなり限られた地域にしか自生していないので、高知市を代表する市の花として選ばれています
 トサミズキの樹高は1m~4mほどで、幹が地ぎわから四方に力強く伸び上がり株立ち状になります。枝はやや太くまばらに分岐し、若い枝は分岐点でジグザグに稲妻のような伸び方をしています。
 枝についた冬芽は2枚の褐色の芽鱗に包まれています。よく見ると2種類の冬芽があって、細長いのは葉芽で、ふっくらと丸いのが花芽です。

 
ひこばえを出し株立ちになります。   稲妻の枝(上)   花芽(下左)と葉芽(下右)

 トサミズキの開花は3月~4月です。花芽は立春を過ぎた頃から膨らみ始めます。花全体を包んでいた芽鱗が押し開かれると、その下でレモン色のベールのような苞葉に包まれていたつぼみが姿をあらわします。


  苞葉に包まれたつぼみ    寄せ集まる小花が見える。  小花の先端は赤い。

 トサミズキの花は淡黄色の小花が穂状に集まったものです。小さな鐘のような小花が6個から8個、最初は寄せ集まっていますが、しだいに連なって垂れてきます。
 雄しべは5本、葯は暗赤色で、花粉が成熟すると裂けて黄色い花粉を出します。雄しべの間に雌しべが隠れていて、2つに分かれた柱頭だけがピョンと白く突き出るのでよく目立ちます。


   暗赤色の雄しべの葯   突き出る雌しべの柱頭       葯の色が黄色に

 3月上旬、トサミズキの茶色の冬芽が芽鱗をぬいで、黄色い花が咲き出すと、辺りがほんのり明るくなります。


  刻々と開く花。満開になるとあたりは灯をともしたように明るくなります。

 トサミズキの花は蜜も多く、香りもほのかに漂います。この香りに引き寄せられ訪花している昆虫は、ビロウドツリアブ、ミツバチ、コマルハナバチなどです。樹木の花の蜜が大好きなメジロもやってきて、花粉を運びます。
 花を見ると、まだ開き切らないうちに雌しべの柱頭が飛び出していました。(写真下左)。これは、先に雌しべが他の花の花粉で受粉をすませ、後から雄しべを成熟させて他の花の雌しべに花粉を運んでもらっているのでしょう。トサミズキの花は雌性先熟で、自家受粉を避けているようです。                         

 
  飛び出す雌しべ     香りに誘われてきたミツバチ      花粉団子もつけて

 花が終わると花の根元から新葉が出て来ます。トサミズキの葉は、丸いフォルムがポップな印象、1度折りたたんでから広げたようなシワが特徴的です。
 秋に気温が下がると、緑色の葉は黄緑色からオレンジへと色づき紅葉も楽しむことができます。

 
  花の根元から新芽が芽吹きます。       葉のフォルムが印象的

 花後に小さな緑の実が集まって房になり、花と同じように垂れ下がります。10月~11月、実が熟して茶色になります。実のなかには黒く楕円形の種子が2個入っていて、乾燥すると二つにわれて遠くへ散らばります。実の殻は空洞になって春先まで残っていました。
 この種子の発芽率は50%前後、種子を発芽させ観察した人の記録によると、秋に採取した種をまき、冬越し後に発芽できたものは、そのまま成長して翌年の春に花を咲かせていました(GreenSnap トサミズキ 実生に挑戦!)。
 前年枝を1月下旬から2月に採取し貯蔵しておき春に挿したり、当年枝を夏に挿したりすると、挿し木でも育てられるそうです。


      花の終わり      緑の実ができます。   種子(円内)と殻

 早春、同じマンサク科の花でトサミズキと間違えられるのがヒュウガミズキです。トサミズキと同じく、庭園や公園に植えられていて、葉の出る前に穂状の黄色い花を多数ぶら下げます。樹高が1m~2mとトサミズキよりさほど大きくならず、花も葉も小さいのが特徴です。庭木としてはツツジなどの灌木のような扱いで植えられています。

 
     ヒュウガミズキの花           樹高は低く株立ち状です

 枝につく小花の数を比べてみると、トサミズキは6個から8個ほどですが、ヒュウガミズキは1個から3個。雄しべの葯を見ると、トサミズキは暗赤色をしていますが、ヒュウガミズキは黄色です。小花の数が少なかったり、咲いている花の雄しべの葯が全部黄色だったりしたら、ヒュウガミズキと考えていいでしょう。
 公園などでは一緒に植えられていることが多いので、実際に見比べてみるといいと思います。

 
     トサミズキの小花は8個前後     ヒュウガミズキの小花は1~3個ほど

 トサミズキは土佐(高知県)に自生しますが、ヒュウガミズキは日向(宮崎県)に自生していないことから、その名の由来について研究者を悩ませてきました。                             
 明治以降の園芸書には、ヒュウガミズキは別名イヨミズキの名でも出ています。トサミズキ属の分類と分布を詳しく調べた山中二男氏(1966年)によると、ヒュウガミズキの確かな生育地は石川県、福井県京都府兵庫県の4県内に限られていて、日向(宮崎県)や伊予(愛媛県)などの自生は見られないといいます。
 牧野富太郎博士は、花も葉も実も小さいことから、「ヒメミズキ」と名づけられ、それが訛ってヒュウガミズキと呼ばれるようになったのだろうと述べていますが、根拠があるわけではありません。京都府北部の丹波地方に見られることから戦国時代にこの地を所領していた「明智日向守光秀」に由来するとの説もあるようです。これに対して森林植物研究家の峠田宏さんはおもしろい説を述べています。

 江戸時代から園芸植物としての地位を得ていたトサミズキに対して、小ぶりな方の品種を何と売り込んだのか。土佐と区別するために、産地でもない「伊予」や「日向」を適当につけたところ、伊予の方は受けが悪かったようです。
 やはり、何らかの理由付けが必要なのです。旧国名の日向ではなく、「日向守」のヒュウガミズキといえば、人気のあった明智日向守が連想され、その領地と産地が重なっていることも理由になります(子ども樹木博士ニュースNO78 樹木名の話16 峠田宏)。

 峠田さんによれば、土佐の名で地位を得たトサミズキに対抗して、園芸業者がヒュウガミズキを広めるため、産地と関わりなく、日向や伊予の名をつけて売り込みをはかり、日向の名が残ったのではないかという話なのです。                 
 トサミズキとヒュウガミズキは19世紀にシーボルトの『日本植物誌』(1835~1870)によって海外に紹介されています。この本は初めて日本の植物を本格的な彩色図譜で紹介したもので、図版は驚くほど精緻で美しいものです。このときのトサミズキは和名が「Tosa-midsuki」と表記されていますが、ヒュウガミズキは「―」となっています。当時の和名はまだはっきりしていなかったのでしょう。
 植物学者や研究者が悩んでいる間にも、名の決まらない樹木をどう名づけて広めていくかは園芸業者の取り組みとして当然ありうることです。峠田さんの話が本当のところなのかもしれません。


     トサミズキは土壌を選ばず、人の手を借りて仲間を増やしています。

 トサミズキは土佐近辺の蛇紋岩地帯に自生、ヒュウガミズキも蛇紋岩・カンラン岩地帯などの限られた地域に分布していますが、蛇紋岩は硬くて風化しにくく、蛇紋岩から溶け出すマグネシウムイオンは、植物の根からの吸水を鈍らせるので、このような土壌には通常の草木は生育できないといわれています。
 トサミズキやヒュウガミズキはおそらく他の場所では他の樹木との競争に負けてしまい、蛇紋岩地帯の特殊な環境に適応することで生き延びてきたのでしょう。

 蛇紋岩の山といえば、尾瀬至仏山笠ヶ岳、岩手の早池峰山が知られています。花の山で知られる早池峰山に登ったときに、山名を冠したハヤチネウスユキソウやナンブトウウチソウ、ナンブトラノオなどの世界でも稀な高山植物に出会うことができました。これらの植物は普通の植物が育たない蛇紋岩の地に生存の場を求めて適応し独自の進化をとげてきたもので蛇紋岩残存種と呼ばれています。他の蛇紋岩の山でも一般の山で見られない高山植物が蛇紋岩残存種として残っています。
 蛇紋岩残存種は、その地に適応して生き延びていますが、逆にその地を離れると生きることのできない希少種です。ところが、蛇紋岩残存種でもあるトサミズキやヒュウガミズキは、幸運にも土壌を選ばないという性質を持っていました。自然界では限られた土地でしか自生できなくても、早春の花を求める人の手によって、これからも庭や公園で植え続けられていくでしょう。
 トサミズキやヒュウガミズキは人の手を借りてか、あるいは巧みに利用してか、園芸樹として生きることで生存の道を見出しているのです。(千)

◇昨年3月の「季節のたより」紹介の草花

見ているだけで見えていなかった

 ニラの種を蒔いて1週間、発芽はまだかとプランターに眼を凝らす。「まだ早いのかな?」とあきらめかけたその時、一本のか細い芽を見つけた。「こんな弱弱しい芽ではなかなか見つからない」と改めて表面を見直すと、たくさんの芽が見つかった。見つける「眼」を持っていなかっただけなのだ。既にニラは、たくさんの芽を出していた。そういえば教員1年目にもそんな体験をした。

  中学校での「荒れ」が広がっていた頃の話。斜に構えるクラスの生徒たちと、何とか秩序とメンツを保とうとする新米担任の連日のバトルが続いた。私は生徒たちを叱っては大きな反発を食らう繰り返しで精根ともに尽き果てていた。神経性胃炎と診断され、学校にしばらく通えないこともあった。見かねたあるベテラン教員が「子どもは認められ、褒められて初めて成長するものだよ」と助言してくれた。実際、その先生の授業では、同じ生徒たちが目を輝かせて生き生きと学習する姿が見られた。

  「こんな子どもたちのどこを褒めればいいの?」悩める日々が続いた。ある昼休みのこと。教卓から教室の様子を眺めていると、田中さんが友達の落ちた筆箱をさりげなく拾って机に置く光景が眼に入った。「おっ」と思い、「優しいな!」と彼女に声を掛けると、にこっと微笑んだ。久しぶりに見るクラスの生徒の笑顔だった。

  「こういうことか?」そんな目線で改めて子どもたちの様子を見ていると、子どもたちの「おっ」という行動がどんどん眼に飛び込んできた。教室に落ちていた紙くずをゴミ箱に捨てる子、曲がっていた机の列を当たり前のように揃える子、教室の隅まで丁寧に雑巾で拭く子・・・褒めたいことがたくさん目の前にあふれていた。それまでは見ていただけで見えていなかったのだ。それを言葉にすると子どもたちはとても喜んだ。

  数十年後の中学校での教育相談(親子面談)でのこと。学年スタッフは子どもたちには楽しい学校生活を送ってほしいと語り合った。「せっかくの機会だから、子どもたちのいいところを親と担任とで共有できる機会にできたらいいね」ということで、担任が「当日、お子さんのよいところを2つ教えてください」と宿題を出した。親からは「悪いところならいくらでも出てくるが、よいところなど考えたこともなかった」「改めて我が子のことを考えてみると結構いいところがあった。うちの子すごい」という反応。担任からは「こんなに楽しい面談は初めて。親の子どもへの思いがビンビン伝わってきて聞く度にウルウルした」という感想が聞かれた。

 「我が子のいいところがわからない」と悩む親はこう考えたらいい。「ご飯をたくさん食べることも自分の体にとっていいこと」「ご飯をおいしそうに食べることも料理した人を喜ばせる才能」「朝、元気よく『おはよう』と家族に挨拶できることも」「弟の面倒をよく見ることも」「自分の考えをはっきり主張できることも」「自分の食べた茶碗を片付けることも」「動物に優しくすることも」「足が遅くても一生懸命走ることも」「アニメを見て涙を流すことも感受性の豊かな証拠」。こう考えてみれば、我が子のいいところがたくさん見つかり愛おしく感じるはずだ。多くの親と教師が、「あなたにはこんなにいいところがある」と声に出して伝えてほしい。子どもたちはとても幸せな気分になりますます自分を好きになること請け合いである。(エンドウ)

奈良教育大学附属小学校で起きていること(訂正版)

 前回の投稿の中で、学習指導要領の作成年度に誤記があったので、訂正し、改めて掲載します。   

  学習指導要領の法的拘束力について、改めて考える  

 今年の1月、耳を疑うようなニュースが飛び込んできました。奈良教育大学附属小学校において、教育課程の実施等に関し法令違反を含む不適切な事案がある。それは学習指導要領に示されている内容の実施不足(授業時数・履修年次・評価の実施不足等)、教科書の未使用等である。そこで学校の教員を大量に他の学校へ出向させるというものです。
 具体的には毛筆指導、道徳、外国語、君が代の指導などが不十分であることや、職員会議の決定権が強く校長の権限を制約していることなどに疑問を感じたと、校長は説明していました。
 我が身を振り返ってみれば、書写の時間数、道徳の内容、君が代の指導が6年生だけ、教科書の未使用、プリント教材の利用など、どれもが私の実践内容と重なるものばかり。
 もう少し具体的にみると、習字の時間で筆ペンでの指導が良くない。しかし、これは市内各地からバスで通学する子どもたちの負担を減らすための選択だったそうです。図工の教科書を使用してないことに対しては、保護者から「描く方向のデッサンから始まり、絵の具やパレットの基本的な使い方をしっかり教えてくれている。教科書にはどこにも書かれていない。不満をいうなら全校図工展の作品を見てから言って欲しい」などなど。
 そもそも教育大学附属小学校の校長は、ボクの知る限りでは、その大学の教授が着任するはずです。今年度やってきた校長は、教育委員会から派遣されてきたそうです。付属小の実践や教育課程が広まることを恐れた行政の対応とも考えられます。
 今、全国の多くの研究者や教師たちが、奈良教育大学附属小学校の教師たちへの処分とも言える出向命令に異議を唱えて、署名運動が急速に広がっています。

 そこで40年ほど前、学習指導要領の法的拘束力について、多くの研究者や教育関係者の発言を元に考えたメモノートがあることを思い出し、改めてワープロで打ち込み直しをしました。
  現在、教育基本法も改悪され、最新の学校教育法も読んでいないので、多少、現状に沿わないことがあるとは思いますが、あえて紹介します。

 「学習指導要領の法的拘束力について」
 学習指導要領が初めて作成されたのは1947年。当時、文部省はこの学習指導要領について、次のような説明を行っています。
 『この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、1つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求に応じて生まれた教育課程をどんなふうに生かして行くかを教師自身が自分で研究していく手引きとして書かれたものである』(学習指導要領一般論・試案、序論 昭和22年度・文部省)
 ここにで分かるとおり、学習指導要領には、戦前に用いられた「教師用書」のような「法的拘束力」はまったくないこと、また、「拘束力」をもたせることは、子どもの教育にとってどんなに有害であるかを、文部省自身が説明していたのです。
 それではいつから学習指導要領の法的拘束力がいわれるようになったのか。それは1958年の第3回目の学習指導要領のときから、試案の2文字が外され、官報での告示の形になりました。そして文部省は、制度的には学校教育法施行規則が、文部省の一存でつくれるのをいいことにして、国民に計ることなく、その25条を一方的に次のように変えてしまいました。
 それまでは、「小学校の教育課程については学習指導要領の基準による」となっていた条文を、「小学校の教育課程については、(中略)教育課程の基準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」と中略以下の文を付け加えたのです。中学・高校についても同じです。そして、それまでの「試案」の2文字を消して、官報での「告示」欄で公示しました。
 文部省はさらには次のように言い出しました。<学習指導要領には法的拘束力があります。なぜなら、学校教育法施行規則に「小・中・高」の教育課程は、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する学習指導要領によるものとする」となっているからです。また、政府が法令の公布などを国民に知らせるための官報でも、「告示」されています。だから学習指導要領には「法的拘束力」があるのです>と。
 しかし、このような言い分は通りません。なぜなら学校教育法施行規則に書かれていることが「法的拘束力」をもつためには、まずその内容が学校教育法にきちんと書かれていなければならないはずです。ところが学校教育法には、そのようなことはどこにも書かれていません。法律に書かれていないものに「法的拘束力」が生ずるわけがありません。
 では学校教育法には一体どんなことが書かれているかをみてみます。学校教育法には、「教科に関する事項は……監督庁が、これを定める」(第20条)、また監督庁は「当分の間、これを文部省とする」(第106条)と書かれています。
 つまり学校教育法には、文部省は「小(中・高も同じ)学校の教科に関する事項」を「定める」ことができるとだけ書いてあり、学校教育法が、教科に関して文部省にあると認めている権限はこれだけです。従って学校教育法では、文部省が「教育課程の基準として」の学習指導要領をつくることはできないようになっています。
 この「教科に関する事項」とは、子どもの学習権と国民の教育水準の確保のために、どうしても全国的に共通でなければならない、国語や算数などの教科名、標準授業時数、高校の卒業単位などのことを指す言葉だからです。つまり、教育の内容や方法まで文部省が決めていいなどとは、どこにも書かれていません。それは教育基本法第10条で教育行政が教育内容にまで立ち入ることをきびしく禁止していることからしても当然のことです。
 しかし文部省はどうしても教育内容を権力的に統制したいがために、とんでもないすりかえを行いました。それが「教科」と「教育課程」のすりかえです。つまり学校教育法でいう「教科」とは「教育課程」と同じだという強弁です。
 もともと「教育課程」とは「教科」と「教科外」をふくむ教育活動の全体を指す言葉です。従って、「教科」よりはるかに広い範囲の内容を含んでいます。それなのに文部省は勝手に同じものだと言っておいて、<学校教育法には「教科に関する事項は文部省が決めることができる」と書いてある。ところがこの「教科に関する事項」とは「教育課程」と同じ意味である。だから文部省は、教育課程の基準として「学習指導要領」をつくることができる>とごり押ししたのです。二重三重のペテンとしか言えません。  <仁>

「釣り」だけではない、もう一つの顔を持つ男!

  畑づくりもやってます!
 地元の農家さんから畑の一角を借り受け15年ほど野菜を作っています。15坪ほどの限られた土地で、いかに効率的に多くの種類の作物を栽培するか、その計画が冬の間の楽しみです。

  昨年は畑の3分の1をいちご園にしようと考え張り切って苗植えや施肥を続けたものの、密集させ過ぎたためか収穫の時期になっても実なりが悪くガクッ。
 サツマイモも10株植えました。蔓が伸びて葉がたくさん広がり、秋口にさぞ栄養分が芋にたまっただろうとワクワクしながら掘り上げたときも、ひょろっとした小さな芋ばかりでがっかりでした。
 スイカは6株植えたら、昨年の高温でたくさんの実がつきました。ただ一斉にできてしまうため、ご近所に分けても食べるのが追いつかず、多くを腐らせてしまったり、カラスにやられたりと散々でした。まさに毎年が勉強です。

 しかし、長くやっていると「トウモロコシやニンニクは自分でつくるより買って食べたほうがラク!」とか、「大根は聖護院と青首の両方を植えたい」など、自分なりのこだわりが生まれてきます。時にはセオリーに反した実験も試みます。
 今年はオクラの根を残してみました。一年草として扱われていますが、長年付き合ってみると、根の張り具合などからどうしても一年で終わる植物には思えないからです。果たしてどうなるか。とても楽しみです。(エンドウ)