mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

サッカーへのVAR導入は何をもたらすか?

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 サッカーのレフェリングがこの2〜3年で大きく変化している。ご存知の方もいるだろう、VARの導入である。VARとはビデオ・アシスタント・レフェリーの3つの単語の頭文字から来ている。要するにビデオ判定のことだ。VARでより公正・公平なサッカーへ。そんな考え、理想から始まったVARだが実際は上手く行っていない。いや、より公平・公正という部分に関しては理想が現実になっている側面もある。しかし、その一方で根本であるサッカーそのものの魅力を大きく損ねる結果になっている。

 サッカーの魅力とは簡単に言うならば得点が入った時の盛り上がりだろう。「いやいや、サッカー以外のスポーツでも得点が入ったときは盛り上がる」という方もいるだろう。しかし、サッカーの得点時の盛り上がり、感情の爆発は他のスポーツとは少し違う。というのもオフサイドという簡単に言うと待ち伏せ禁止のルールやボールを足で扱うという不正確さから得点が著しく入りにくいスポーツなのである。5点、6点入るのが当たり前のスポーツの1点と、3点入れば大量得点の部類に入るサッカーの1点とどちらがより貴重で重いものかは一目瞭然だろう。我慢は最高のスパイスと言われることもあるがサッカーの得点はまさにそれで、入りそうなのに入らない中でやっとゴールが入ったときの感情の爆発はとんでもないもので、恥も外聞もなく、近くにいる見ず知らずのサポーターとハイタッチしたり、抱き合ったりして皆でゴールを喜ぶ。

 しかし、最近のVARを導入した国ではこのゴール時のこの感情の爆発が、サッカーの一番の魅力が失われつつあるのだ。というのも、ゴールをした「瞬間」が失われたからである。今まではボールがゴールネットを揺らせばその「瞬間」ゴールだった。しかしVARが入ってからはゴールの後にVARとファウルが無かったかやり取りをするためゴールネットを揺らした「瞬間」はまだゴールが認められない。感情の「爆発」は文字通り一気に弾ける、「瞬間」に弾けるのである。しかし、その感情を爆発させる「瞬間」はVARの判定を待つ「時間」になってしまった。これでは感情の爆発は起こらなくて当然である。結局VARチェックが終わりゴールが認められても、あの瞬間の、あの感情の爆発は戻ってこない。そんな中ではどんなに公平・公正でもVARが受け入れられないのも無理はない。

 このVARが来シーズンからJリーグにも導入される。公平・公正には厳格にこだわる気質を持つ日本という国でこのVARは果たして好意的に受け入れられるのか、それとも他国と同様にゴールの瞬間が、サッカーの魅力が失われることで拒否反応が起こるのか、これも来シーズンのJリーグの楽しみの1つだ。(アズール)

元旦の朝は・・・

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 元旦の朝は、わが家の恒例となった台原森林公園へ、佐藤忠良さんの『緑の風』に新年のあいさつにでかけました。
 家を出ると、外の空気は冷たくひんやりしていますが、風はなく穏やかで気持ちがいい朝です。寝起きのボッとした体と頭が、しゃんとします。町は静かで、しんとしてます。すれ違う人はほとんどありません。みなさん、家でゆっくり過ごしているのか、それとも夜更かしして今朝はまだ起きていないのか。
 静かな朝のなかを郵便配達の軽自動車だけがせわしげに走っていきます。ほんの短い間に3台も通り過ぎました。TVニュースは、ネットやSNSの普及で年賀状が減少していることを伝えていました。挨拶の手段はいろいろでしょうが、それでも人はみな誰かからのたよりを待っているのでしょうか。散歩から帰ると、私もついつい家のポストをのぞいてみました。

 仕事始めは、5日の「冬の学習会」からとなります。今年もどうぞよろしくお願いいたします。( キヨ )

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 私は好きだった、
 信じることの できる自分が。
 人を、生きている世界を、
 その未来を 信じると、
 私がいう時、
 星ほどの数の 子供たちが、
 信じる、といっているのを感じた。
 ある日、信じるといえなくなった。
 私が生まれる四十年前の夏、
 一瞬の光が、
 子供たちを、
 ガスにしてしまった、と知って。
 それから、
 信じるといおうとすると、
 ガスになった子供たちが、こちらを向く。
 ガスになった目で、私を見ている。
 いま、私は、
 古い 古い 手紙を、教えられた。
 争う者らを 和解させる、
 「新しい人」が来た、という手紙。
 私は、胸のなかでたずねる。
 もう一度、「新しい人」は来るだろうか?
 世界じゅうの子供たちが、
 それぞれの 言葉で、答える。
 ——きっと来てくれる、心から信じるなら。
 「新しい人」に、私は祈っている、
 来てください、あなたと働きたい私らの、
 いま、ここへ!
      ( 大江健三郎「新しい人」に )

『星の王子さま』~おとなは、だれも、はじめは子どもだった

  新年あけましておめでとうございます

 年末に読んだ本の中で、久しぶりにを読み直したのが『星の王子さま』でした。本好きの4年生になる孫にあげようとしたのがラッキー(?)でした。それは今まで複数回読んでいたはずでしたが、読み飛ばし気づかずにいた冒頭の序文に気づいたからです。
 そこには次のような言葉がありました。

  おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいる
 おとなは、いくらもいない。

 この言葉に目がとまったのは、年末から里帰りで泊まっていた孫たち(10歳・5歳・4歳)の言動を見聞きしているうちに、俺にもこんなことで驚いたり、疑問に思ったりしていた時期があったのかなあと考えてしまったからです。子ども(孫たち)の生きる世界に引き込まれながら、序文に書かれたことは、私のことだと思わずにいられなくなったのでした。そして子どもの心を育てるとは、どういうことなのかを考える機会になりました。

 同時に今の学校の姿を考えました。小さな知識を次から次へと詰め込まれ、学力テスト対策に追われる子どもたちは、もっともっと大切なものからどんどん離れていってしまうのではないでしょうか。大切なものの一つには『驚く気持ち』もあるでしょう。喜び・怒り・哀しさ・楽しみさえも、自由にできない空間に学校がなっていることもあるでしょう。
 こんなことに気づかせてくれた『星の王子さま』と孫たちに感謝で正月を迎えました。

 話は変わって、このセンターダイアリー・ブログのコーナーについてです。
 <春さん>から始まったコーナーでしたが<キヨさん><千さん><正さん>、そして遠く関西から<清眞人さん>と書き手が一気に増え、毎回、このコーナーを開くのが楽しみになっています。今年はどんな文章と出会えるか、読者のみなさんもきっと同じ気持ちだと思います。<仁>

新しい年を迎えて~ 私たちの手で光の見える年に ~

 今、私は、コタツでパソコンに向かっている。そのすぐ右隣に張り付くように猫の「クリ」が寝ている。これが私たちのほぼ日常である。
 10時前後に私がコタツを抜けると、熟睡しているはずの猫も起き上がり、玄関に向かって歩きだす。これもまた、毎日変わりない。その時間帯にもし私の動きがないと、クリは起き上がり、私をじっと見つめつづける。私は時計に目をやり立ち上がる。(やっと気づいたか)と、彼はいそいそと玄関に向かって私の前を歩く。外に出た彼は20~30分すると戻ってきて、「ニャー」と帰りを告げ、また同じ場所に寝る。狭い屋敷内を一回りしてくるのだ。これを己の任務としているのかもしれない。私は、その声に合わせて玄関を締めに立つ。その後は、私が動いても午後まで起きることはない。

 奥本大三郎さんが、かつて「ちくま哲学の森」の月報(1990年9月)で次のようなことを書いている。

 哲学者によれば、人間は万物の尺度であるという。この「人間」というのがよく判らないけれど、結局のところは、自分が万物の尺度であると、半分無意識に信じ込んで、一人一人の人間は生きている。だから、自分とは異なった尺度を持った人間に出会っては、しょっちゅう腹を立てる破目になる。
 しかし、ほかの動物たちも、やはり自分を尺度として生きているに違いない。
 人通りの多い道端の、塀の上で昼寝をしている猫に定義させれば、「人間とは、われわれ猫の顔を見れば、チョッチョッと下品に舌を鳴らし、ついで下手な声色で、ニャーンと鳴いてみせる動物である」ということになるだろう。
 犬からすれば、人間は「飼主とほかの連中」に截然と区別されることになる。つまりこの上もなく慕わしいか、噛みついてやらねばならぬほど憎らしいかのどちらかなのである。
 動物園のゴリラからすれば、人間は「檻の向こうに群がる、騒々しく落ち着きのない、悪いところばかり自分たちに似た、類猿人」ということになるであろう。(後略)

  奥本説による猫の定義をクリに知らせれば、彼は大いに不満を示すに違いない。しかし、「自分が万物の尺度であると、半分無意識に信じ込んで、一人一人の人間は生きている。だから、自分とは異なった尺度を持った人間に出会っては、しょっちゅう腹を立てる破目になる。」という奥本説は人間を(言い得て妙)と私は思う。何年経っても変わらないどころか、年々ひどくなっている光景がすぐ浮かんだからだ。もちろん、ただ、感心していていいわけはないので、浮かべた光景にドッキリしてしまった。

 その浮かべた(浮かんだ)光景は、私だけに特別の光景ではないはずだ。誰もが目にし、おそらく私と同じ思いをもっていたであろうテレビで流されるわが「国会」での有り様だ。当人たちはどう思っているかしらないが、これに限って言えば100%当たっていると思うがどうだろう。
 国会内を闊歩し、多くは理解不能な言辞(?)を交わしている姿は、まちがいなく「自分が万物の尺度である」と思っていることの証であり、しかも、なぜかそれらこそが己の仕事と思いこんでいるようにしか見えない。もちろん、それは理解不能としか言いようがない。
 と言いながら、どうしてこうも同類の方々が国会という場に見事に集まったのだろう。ゴリラに言わせれば「永田町は檻」ということになるかもしれない。しかも、その檻に送りこんだのは私たち国民であることもまちがいないからやっかいだ。彼らは、檻に送り込まれる前からああなのか、それとも永田町という檻が人間を変えてしまう装置をそなえている故なのか。
 われわれ小者が「自分が万物の尺度」と考えている分には、笑い話で済むような気がするが、それが特別な檻となると笑って済まなくなり、「〇〇一強」などという言われ方まで普通に使われるようになり、本人もそういう言われ方を恥とも棘とも思うことなく「憲法改正は自分の手で」と平然と言いのける。それらを耳にするたびに、犬のように噛みついてやりたくなっても噛むことのできない悔しさのやり場に困る日々になる。まあ、これも「自分が万物の尺度」からきているのだろうが・・・。

 こんな夢のないグチはやめにしよう。遠吠えだけでは何も変わらない。
 私たちは、もっともっと具体的にならなければならない。12月、アフガンで凶弾に倒れた中村哲医師は「100の診療所より1本の用水路を」「憲法は守るのではない。実行すべきものだ」と言っていたという。中村さんのような方が撃たれるなんて私には想像すらできない。残念ながらそれが現在の世界なのだ。現地に立ってこそ、中村さんの言葉は生まれ、行動がつづいたのだろう。この日本が誇るべき人の死を、永田町はどれだけ悼んだか。誇るべき人を誇れない国に危機を感じる。
 新しい年を、私たちの手で光の見える年にしていきたい。そのために、ささやかでも具体的行動を! みんなで!( 春 )

西からの風23 ~私の遊歩手帖9~

ゴッホの手紙』とやっと出会う2

  「ゴッホ」の画像検索結果

 印象主義の只中から、つまり外なる世界、自然と人間の色彩が画家の内なる世界・魂を光を放って刺激する、その色と光の様相の描写に専心するというベクトル、「イン・プレス」というベクトルの中から、その正反対の志向に担われた表現主義が立ち上がる。内なる魂の表現を託すその媒体として色と光に満てる外なる世界(自然と人物)を抱え込み、世界に己が魂を刻印するという「エクス・プレス」というベクトルが。

 だが、この志向ベクトルの反転は、既にして印象主義に内蔵されていたともいい得る。前回、私はゴッホの次の言葉を彼の弟テオへの手紙から抜きだし掲げた。
「僕は、眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現するためにもっと自由に色彩を使う」という言葉を。また次の言葉も紹介した。彼が自分のことを「いまだかつてないほどの色彩家」と呼び、色彩に「完全に歌う表現」を与える画家、色をして歌わせしめる画家と自己規定したことを。

 とはいえ、この「色彩」主義の最初の発見者はまさに印象派であったのだし、「眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現するためにもっと自由に色彩を使う」という立場もそもそもは印象派マニフェストにほかならなかった。そのことは、印象派とそれ以前の西欧絵画の連綿たる精密描写主義の伝統、しかも聖書世界か王と貴族らが織りなす宮廷世界を主たる舞台としたそれ、かくてまた重厚・荘重・悲劇という感情の主軸をなす暗色を基調とするそれが培ったいわゆる「自然主義リアリズム」の強固なる伝統を対比してみれば明らかであろう。

 この点において、ゴッホは一方ではいわば印象派の過激派として登場するのだ。つまり、印象派の開拓した色彩主義の内にそもそも潜んでいた表現主義的要素をさらに過激化することによって独立分派としての「表現主義」を立ち上げた画家、それがゴッホその人である。

 そこには次の問題の文脈が波打つ。
 「眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現する」ということは、実は、その対象を描こうとする画家をして自ずと己の魂へと送り返すことなのだ。画家が「それを強く表現する」ことを欲する、その対象に孕まれる要素(色彩であれ、描線・形であれ、他の対象とのあいだに取り結ぶ構図的関係・空間配置であれ)は同時に映し鏡なのだ。その画家の魂の在りようを映す、その画家の魂とその対象とが取り結んだ奇しき契りを暗示する、それ!
 「青は君の色だ」。「黄色はゴッホの色だ」。
 鑑賞者をしてそう言わしめるほどの世界表現、それが問題だ!
 前回、私はそう書いた。

 かくてまた、この対象・外的世界と己の魂とのあいだに成立する「映し鏡」・「契り」の関係性にいやがうえにも鋭敏である画家のみが、そういう鋭敏さを培う自己修練を積み、そこから自分の画法を生みだし得た画家のみが、「表現主義」の画家となり得る。ゴッホが言わんとすることはこのことだ。
 次の言葉も前回で紹介した。実はそれは、つい先ほど、この連載第二回の書き出しに引用したゴッホの言葉の直前に来る言葉なのだ。

印象派の人たちが、その人たちよりもむしろドラクロワの思考によって豊かにされた僕の手法に文句をつけるようになったとしても、僕はさして驚きはしないだろう。 

 上の言葉は、さらに次の言葉にそのままつながる。実にそれはゴッホの画法の核心を解き明かす言葉だ。 

ああ! クロード・モネが風景を描くように、肖像を描きたい。 他のことはさておき、印象派の中で厳密な意味でモネ一人だけが正しいと見る前に、どうしても人物画を完成させたい。ドラクロア、ミレー、何人かの彫刻家たちの方が、印象派の人々やJ・ブルトンより人物画がうまかった[1]

 まず私はこう言いたい。モネとドラクロア。風景画と人物画。一方と他方、この二つの「異種」の「交配化合」がゴッホを生みだすのだ、と。だから、上の一節の書き出しはこうも書き換えることができるはずだ。「ああ! ドラクロワが肖像を描くように、風景を描きたい」と。

 ついでにいえば、私のいわば信念とはこうだ。
 ——あらゆる創造はただ「異種交配化合」によってのみ引き起こされる。君がそ
 の創造の秘密を掴まえたいと思うなら、そこでは如何なる相異なる要素、これま
 で対立するか無関係か、とにかく「異種」と遇されるのが当たり前であった要素
 と要素とが、その創造者において如何に交配され化合されたかを探究せよ!
 君が創造者になりたかったのなら、君の自己分裂を、つまり君が互いに異種なる
 二つの要素に同時に惹きつけられ分裂していることを恐れるな、むしろチャンス
 と心得よ! 汝の自己分裂を化合へと駆動せよ。
 そして、この「異種交配化合」のみが創造を可能とするという命題は、《人間に
 とって「痛切な生の体験」とは、如何なるものであれ、それを生きる人間をして
 必ず「異種交配化合」の場に引きずりだし、そこへと立たせるものとなる》とい
 うもう一つの人生の命題に立脚するものなのだ。その体験の痛切さは、それまで
 その個人が、自分の経験を精神的に処理してきたやり方をはみ出し処理しきれぬ
 何物かに衝突したということ、そしてその衝撃を処理しきれぬ疼きを抱えながら
 今を生きているということ、そこからやって来る。創造の原動力はその疼きにこ
 そある。

 『ゴッホの手紙』を読むとよくわかる。そもそもゴッホの独創性の起点は、実に彼の次のきわめて強烈な自覚にあったことが。すなわち、いましがた言ったこと、画家の創造性の原点はまさにその画家が自身の「痛切なる生の経験」を絵として表現し得えているか否か、この一点にのみ懸かっているとの。

 何故、彼は風景画家たることに飽き足らず、再び印象派と出会う以前の自分、画家たることを目指す人生の旅の起点を定めたオランダ時代に再帰し、肖像画・人物画を描こうとしたのか? もとより、新しい方法、印象派、誰よりもモネとの出会いが自分にもたらした「色彩画家」としての方法に基づく試みとして、であれ。
 それは、一言でいえば、対象となるその人物を如何に描くかは、その人間の身体のフォルムなり顔つきなり眼差しが、この人物は如何なる生の経験を積み重ねてかかる身体のフォルムと表情を己のそれとしたのか、かかる問題の環に最大限の想像力と直観を働かせることなしには成り立たないからだ。かかる人物は如何なる人生経験の持ち主であるのか、その結果、如何なる生き方、人生感情、眼差し、身振り、身体の傾き方、等を得ることになった人物であるのか、これを如何に一挙に、その身体と顔つきのフォルム(=描線)と相手の存在に感じた色彩の両者を通して直観するか、またそう直観するが故にその直観を如何に強烈化する(誇張化する、デフォルメする)ことによって絵画化するか、この対象との緊張関係をもう一度自分に与える必要をゴッホは強く自覚したのだ。

 この相手は如何なる生の体験の持ち主か? という問いかけは、別な言い方をするなら、この相手は如何なる生命感情——苦悩の局面においてにせよ、喜びの局面においてにせよ、鎮静と安息の局面においてにせよ——の持ち主なのか? それを私は画家としてどう直観したのか? どう想像したのか? という問いである。
 ゴッホは、絵を描くにあたっての想像力の働きについて、たとえばこう言っている。(それは、風景画を描く場合を例にとっての発言だが、人物画に対しても拡張し得る、清)

 想像力だけが——変わりやすく、稲妻のように速い——現実をただ一瞥しただけ
 で自然をもっと激しいものにもし、また安らかなものにも出来るのだ[2]

 ところで、まさしく問題となっているのは相手の生きる生命感情の在りようであるが故に、それは、直に我の生きる生命感情に訴えかけてくるものとなる。そこには応答と共振の感情交換の絆が生まれる。相手のその生命感情を「これだ!」と感得すること、あるいは想像することは、己もまたかつて生きた、あるいは現在生きている、あるいは眠っている同種のそれに目覚め、それを引き出し、増幅し、強烈にすることである。そもそも想像力の元手は己の「痛切なる生の経験」以外に無い。この交換・共振・強烈化なしには《感得する》あるいは《想像する》ということは成立しない。相手への往路は同時に我への環路である。この往還こそが実は表現なのだ。かの「表現主義」の。
 たとえば、ゴッホはこう弟テオに書き送る。ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらと同時代の詩人ジョットについて。 

 僕の心を一番強く打ったのはジョットだ。いつも悩んでいて、それでいていつも慈愛と烈しさにあふれていて、まるではじめからこの世界とは別の世界に生きてでもいたようだ。
 それにジョットには何か異様なものがある。僕はダンテやペトラルカやボッカチオのような詩人以上にそう感じる。
 絵画の方が詩よりも汚くて厄介だ。それにしても僕はいつも詩の方が絵画よりもすごいと思っている。で、結局絵は何も語らず、沈黙を守っているが、僕はやっぱりこの方がずっと好きだ。テオよ、君がここの糸杉や夾竹桃や太陽を見たら——その日は必ず来るから安心していたまえ——きっと君はもっとあのピュヴィス・ド・シャヴァンヌの『甘美な国』やその他の絵を想うことだろう[3]。(強調、ゴッホ

 ここで急いで付言しておきたい。
 『ゴッホの手紙』を読むと、如何に彼が文学好きであったか、その読書範囲は古代ギリシャから始まり、今見たように中世ならびにルネッサンス期のイタリアを通過し、彼の同時代のフランスの諸作家、バルザックモーパッサン、ゾラ(誰よりもゾラを愛したと思われる)を熱く抱え、しかもその関心は後に触れるように同時代のロシアの作家、トルストイドストエフスキーに及んでいることが痛いほどよくわかる。そして、このゴッホにおける文学熱は彼の宗教的関心の強烈さと一体のものであることが。
 彼は画家であるが、文学的精神を、またそれと一体となった宗教的精神を己に波打たせた画家なのだ。だから、文学の鋭く分析でかつ総合的な思索力に富んだ人間観察を指して、「詩の方が絵画よりもすごい」と述べ、文字言語を使うことでその観察結果を端的に集中的に表現できる詩の方が絵画よりも夾雑物がなく曖昧さがない点を称え、「絵画の方が詩よりも汚くて厄介だ」とさえ言うのだ。

 ただし、そう述べる彼はあくまでも画家なのだ。だから、そう述べながらも、「何も語らず、沈黙を守っている」ところの、文字言語の代わりに、フォルムと色彩を通して語ろうとする絵画の方が「ずっと好きだ」とも告白するのだ。
 そして、絵画の使命は、ゴッホによれば、ジョットの詩のように、人間が「いつも悩んでいる」しかないこの世にあって、しかし、同時にそれを超える、「まるではじめからこの世界とは別の世界に生きてでもいた」ような二重世界感覚・感情を、文字言語によってではなく、フォルムと色彩によって鑑賞者の魂のなかに喚起することにあるのだ。

 彼は、テオに、自分の心身の不調を訴える手紙のなかで最近自分が取り憑かれた狂気について語りながら、きわめて興味深い自己分析を披歴している。
 すなわち、自分は「修道僧的でもあり画家的でもあるというような二重人格的要素」を抱えている人間であり、この二重人格的要素がなければ、自分の狂気はもっと酷いものとなったはずだ」と。そして、自分が陥っている狂気というものもまた、この二重人格的要素に規定されて、「被害妄想的なもの」ではなく、「むしろ永遠とか永遠の生命とかを考える方向」に感情が以上に昂ぶり極度の興奮状態に陥るという狂気性を意味すると注釈を加えている[4]。いうならば、まさにその方向へと修行僧的側面と画家的側面とがいわば手に手を取って彼を駆り立てるというわけだ。そして、ここで「永遠」・「永遠の生命」あるいは「無限」という場合、それは時間的な垂直軸と空間的な水平軸とが交差し融合するところに成立する永遠性・無限性を意味する。

 私は推測する。——ゴッホ的狂気は「被害妄想」が生む怨恨的復讐欲望の暴力的狂気とはついぞ無縁であった。 まさに修行僧的でもあり、画家的でもある狂気、宇宙の全体性と自我との融合的一致の裡に自我を失おうとする美的狂気、あるいはヨーガ的な瞑想的狂気であった、と。

 では、この「永遠」あるいは「無限」の概念をキーワードとする彼の「修行僧」的側面、まさにそれは彼が己の「痛切なる生の経験」を究めようとするときのガイドの役割を果たすものなのだが、それはさらにいってどういう内容を持つのか?
 一言でいうならば、それは彼のイエス主義——キリスト教の核心を何よりもイエスの言動それ自体のなかに見る——と汎神論的救済主義との独創的結合が生む彼の独創的な救済思想なのだ。だから彼は「イエス主義者」たる自分自身を[5]、同時に「永遠の仏陀の素朴な崇拝者である或る坊主」とさえ呼ぶのである[6]

 次回、私は『ゴッホの手紙』を通して語るであろう。この問題の環について。(清眞人)
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[1]ゴッホの手紙』下、岩波文庫、157頁。
[2]ゴッホの手紙』上、94頁。
[3]ゴッホの手紙』中、251~252頁。
[4]  『ゴッホの手紙』下、50頁。
[5]ゴッホの手紙』上、118頁。
[6]ゴッホの手紙』中、295~296頁。

東京エキストラ物語3 ~ ゴーイング・マイ・ホーム ~

mkbkc.hatenablog.com

「あした、東京に行っていいかな?」
「お母さんのこと? このところずっと行ってたのに」
「お袋のことじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「いや、ちょっと・・・、是枝さんのトークショーがあるんだよね。」
「是枝さんの話を聞きに行くの? まあ~、いいけど」

 震災から1年9ヶ月あまりが経っていた。ここ1年ほど我が家は、千葉の施設にいる母親の見舞いと葬儀で何かと出費がかかっていた。仙台からの交通費は新幹線の往復だと2万、家族四人だと6万、月2回ともなれば交通費だけで12万かかってしまう。そんな出費も妻はとやかく言わなかった。それどころか「お母さんのことなんだから仕方ないでしょ。お金にかえられないことよ。」と、逆に出費を心配する私をいさめた。

 横でこたつに入りながら、お笑い番組をゲラゲラわらって見ていた息子が、「お父さん、明日の東京はやめた方がいいよ。昨日大きな地震あったから。3月11日のときも2日前に大きな地震あったでしょ。だから明日はやめた方がいいって。もしかしたら、明日は大きな地震来るかも知れないし」とマジ顔で言う。「そんなことないだろう」と返しながら、内心ちょっと気になった。「そうよ、お金余分に持ってってね。地震あったら、お金だって簡単に引き出せなくなるから」と、妻まで息子の話にのって言う。日帰りだから着の身着のままでいいはずなのに、あの日以来どこか外出するとなると、必要以上にあれこれ持って行ってしまう。保険証にマスク、キズバン、風邪薬もあった方がいいかな? 寒くなってきたからホッカイロも。そうだ、帰れなくなったら余分に上から着る服も。そんなこんなで、いつの間にかディバックは、ぱんぱんになった。

 是枝さんの話を聞きに東京に出かけたのは師走初め。ずいぶん空気は冷たくなっていたが、仙台に比べればまだまだ暖かい。すでに都心の繁華街はどこもかしこもクリスマスと歳末商戦で賑やかだった。
 トークショーの会場は表参道からしばらく歩いたところにある。地下鉄の改札口を出てA5の出口から地上に上がると、冬の弱い午後の陽が目の前に淡く拡がる。空気はひんやり冷たく澄んで気持ちいい。行き交う人は、みんな和やかでとても楽しそうだ。道沿いには洒落た店舗がいくつも並んでいる。ショーウインドーの向こうの世界は別世界で、足を踏み入れるのも気が引けてしまう。震災から1年9ヶ月が経つが、東北の被災地はまだまだ震災の傷が癒えない。いや、日が経つごとにジワジワとやり場のない思いが心に浸潤し、何とも言いようのない疲れが溜まっていく。今日は、東京での1日を楽しもうと思って来たはずなのに・・・。師走の表参道の世界に溶け込むことのできない自分がいた。

 そんな気持ちを抱えながら、ひたすら会場をめざした。会場は、街の喧騒を抜けた住宅地にぽつんとある煉瓦づくりの洒落た建物だった。半地下へと続く会場の入り口には、すでに開場を待つ若い女性たちがおしゃべりに花を咲かせている。場違いなところに来てしまった感が、よりいっそう膨らんだ。身を寄せるところを失い、行く当てもなくしばらく歩いて行くと、大きなお寺の門前に出た。その辺りを行く当てもなくぶらぶらとほっつき歩いた。

 是枝さんは、今や時の人だ。その年のカンヌ映画祭で賞を取り、一挙にお茶の間をにぎわす話題の人となった。映画の主人公を演じたのが福山雅治だったことも、よりいっそうマスコミの報道熱に拍車をかけた。映画監督が、これだけ露出するのもしばらくぶりのような気がした。その是枝さんが、その受賞熱も冷めない9月からテレビ初の連ドラを指揮監督した。今日はその番組のトークショー

 連ドラも中盤から終盤にさしかかった回でのことだった。主人公の夫(阿部寛)と妻(山口智子)との会話が突然耳に飛び込んできた。

妻「帰っていく場所なんてなくていいんだって、ずっと私も思ってたけど」
夫「ここあと、何年残ってるんだっけ?」
妻「ローン?15か16。なんで?」
夫「自分の家持つのって昔から夢だったんだけど。でも何て言うかさ、ここは

  萌江の実家っていうか、故郷になれるのかなって思ってさ?」

 「帰っていく場所」「故郷」、その言葉が父と母を喪い、帰る場所を失った私の耳の奥に残った。私と同じように両親を亡くし、団地暮らしでもあった是枝さんは故郷をどう考えているのだろう? 無性にそのことが知りたくなった。

 トークショーは、連ドラの裏話や俳優さんの演技のすばらしさなど、楽しい話が続いた。会場いっぱいのお客さんたちはそれらの話に聞き入り満足していた。もちろん私も。でも、聴きたかったことは聞けなかった。それでも、来てよかったと思った。表参道を歩きながら、自分の今の自然な気持ちに気づくことができたのだから。トークショーの終わった静かな夜道を、最終の仙台行き新幹線をめざして、ひとり歩いた。( キヨ )

季節のたより42 ナナカマド

  白い花、羽状の葉、紅葉、赤い実が楽しめる樹木

 ナナカマドの赤い実が似合うのは、雪の綿帽子をかぶった街路樹。特に北海道ではこのナナカマドを市町村の木と指定しているところが多く、美しい街路樹の街並みが見られます。
 旭川に生まれた作家井上靖は、市制百周年の年、86歳で故郷を訪れ、ナナカマドへの想いを詩文にし、それが文学碑に刻まれて市民に親しまれていました。

  私は十七歳のこの町で生れ / いま、百歳の、この町を歩く。
  すべては大きく変わったが、/ ただ一つ、変わらぬものありとすれば
  それは、雪をかぶったナナカマドの、/ あの赤い実の洋燈(ランプ)。
  一歩、一歩、その汚れなき光に、/ 足許を照らされて行く。(略)

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      冬の空に、鮮やかなナナカマドの実

 ナナカマドは、バラ科ナナカマド属の落葉高木で、寒冷地の山林に育つ樹木です。北海道から九州の山地や深山に分布しています。秋には紅葉し、赤い実も美しいので、北海道だけでなく、東北でも街路樹や庭木として植栽されることが多く、北国の人にとっては身近な樹木になっています。

 ナナカマドは、漢字では「七竃」と書きます。その名の由来は、木材が燃えにくく、かまど(竈)に七度入れてもまだ焼け残るからと、広く言われていますが、これは、「牧野新日本植物図鑑」の記述がもとになっているようです。でも、実際にはナナカマドはよく燃えるようで、越後の山荘で薪をたいて暖をとったことのある中村浩氏は、「この木の材はよく燃えて決して燃え残る事は無い」といい、この名は炭焼きと関連した名で、「ナナカマドを原木として極上品の堅炭を得るには、その行程に七日間を要し、7日間かまどで蒸し焼きにする。」それで、「七日竃すなわちナナカマドと呼ばれるようになったのだと思う。」(『植物名の由来』・東京書籍)と述べています。自らの体験と炭焼き現場の取材による説で、こちらの方が説得力があります。実際にナナカマドで焼いた炭は、火力が強く、火持ちも良いので、江戸の頃は鰻の蒲焼き用に珍重されてもいたようです。(同著)。

 ナナカマドは、山地では高さ10mにもなりますが、県内の公園や街路樹、学校の校庭などの木は、3~5m前後です。4月初めに仙台・治山の森の遊歩道で見つけたナナカマドは3m程で、固い鱗片に包まれた冬芽が金色に光っていました。
 5月、暖かな日が続いて、木々の芽吹きが一斉に始まると、ナナカマドの冬芽もほころんで、若葉が次々と開いていきました。

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   ナナカマドの冬芽            若葉がひらくナナカマド

 新緑の葉っぱの間から、花のつぼみがのぞいていました。冬芽の中で、花芽は、さらにしっかり葉の芽に包まれ、守り育てられていたのです。
 ナナカマドの葉が開くと、11~17の小さな葉が集まり鳥の羽のような形をしています。その葉の数が奇数なので奇数羽状複葉(きすううじょうふくよう)とよばれていますが、その葉は陽射しを透すと、緑が美しく輝きます。一枚の小さな葉の先端がとがり、縁にはぎざぎざの鋭い鋸歯が規則的に並んでいます。自然が作り出す造形は細部までみごとで、春に芽吹く葉や花のつぼみのすべてが、あの小さな冬芽の中に準備されていたと思うと、何とも不思議な気持ちになります。

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  若葉に包まれているつぼみ        ひらいたナナカマドの葉   

 ナナカマドは、5月の半ば頃から、白い花が咲き出します。羽状に広がる細長い葉の上に咲いた花は、遠くから見ると、白い雲がふんわりと重なっているようです。白い花と緑の葉の組み合わせも美しく、遠くからでもよく目立ちます。

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      小さな白い花が集まる ナナカマドの花

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  梅の花に似ている花(拡大)        上向きにつく実(初期の頃) 

 ナナカマドの花はバラ科にしては地味な花ですが、花びらは5枚、雄しべは20個、花柱は3~4個のバラ科特有の花をしています。雄しべが長くつき出ている様子はウメの花にそっくり。その小さな白い花がびっしり集まって咲いて、昆虫たちを引き寄せます。密集している花は止まりやすい土台にもなって、昆虫たちの働きを助けています。

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      初秋の頃 緑の葉の中に浮かぶ 赤い実 

 花の時期が終わると、房なりの実ができます。初めは葉と同じ緑色ですが、やがて、黄色に変わり、9月末には色づきます。ナナカマドは、まだ葉が緑なのに、実は真っ赤になるので、紅葉よりも一足先に秋の訪れを感じさせてくれます。

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      色づき始めた 高山のナナカマド

 秋の深まりとともに緑だったナナカマドの葉も赤く色づいていきます。ナナカマドは、カエデやヤマウルシとともに、秋の紅葉では赤色が最も美しい樹木です。
 でも、県内の街路樹や公園のナナカマドは、真っ赤で美しく紅葉した姿をあまり見ることはありません。気候が影響しているのでしょうか。寒暖の差の激しい高山や北海道のような土地の方が鮮やかに色づくようです。

 県内で紅葉が美しく見られるのは、秋の栗駒山です。9月下旬、山肌は織りあげられた絨毯のように彩られます。

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      樹木がよりそい、色なす、栗駒山の紅葉

 赤の色も違いがあって、ナナカマドは濃く深い赤色、真っ赤なのがサラサドウダン。黄色がミネカエデやダケカンバ、緑が常緑のハイマツ。樹木がよりそい、色なす紅葉は、高山の樹木たちが見せてくれるいのちの輝きの姿です。

 紅葉が終わり、ナナカマドが葉を落とすと、これまで、紅葉した葉に紛れて見えなかった赤い実が、急にその存在をあらわします。房になった赤い実はよく目立ち、不思議なことにその艶やかさを失うことなくかなり長く枝についています。研究者によると、ナナカマドの実の果汁には腐食をおさえる「ソルビン酸」が含まれていることが分かってきました。
 真冬になっても、ナナカマドの実はまだ残るので、虫も消え木の実も不足する冬の野鳥たちにとっては貴重な食料になります。ツグミムクドリ、レンジャク類、カワラヒワ、ウソ、ヒヨドリ、スズメ、カラスなど、場所によって、いろんな種類の鳥たちが集まってきます。

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    落葉すると、目立つ房なりの実       冬日に光るナナカマドの実

 鳥に食べられたナナカマドの実の中の種子は、新天地に運ばれます。おもしろいことに、ナナカマドの種子は、そのまま蒔いたのでは全く発芽しないのだそうです。種子の果肉には発芽阻害物質が含まれており、鳥の砂嚢を通過することで吸収されるので、鳥から排出された種子ほど発芽率が高いということ。ナナカマドの実は鳥たちに食べられることで、種子が発芽できるようになっているのです。
 ナナカマドの種子は、山地の山火事や伐採地の跡、針葉林帯での倒木の跡などに運ばれると、日当たりの良い土壌で芽を出し、ダケカンバ、ネコシデ、ミネカエデなどとともに、森林を回復する先駆者としての役割を果たしていきます。

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   蔵王連峰、刈田岳のナナカマド。赤い実とお釜の色の対比が美しい。

 冬期の道路閉鎖前、蔵王連峰の刈田岳付近のナナカマドは横に這うように生えていました。低木化してねじれた樹形は、風雨と積雪に耐えて生きているあかし。その姿に圧倒されます。一方、街路樹や公園に植えられたナナカマドは、優しい葉に、枝はしなやか、楕円や円錐形の整った樹形をしていて、自然の造形の美しさを感じさせます。白い花、羽状の葉、紅葉、赤い実と、四季を通じて変化のある姿を楽しませてくれるナナカマドは、育つ環境によって「動」と「静」のまったく違った魅力を見せてくれる樹木でもあるようです。(千)

◆昨年12月「季節のたより」紹介の草花

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