mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

新しい年を迎えて~ 私たちの手で光の見える年に ~

 今、私は、コタツでパソコンに向かっている。そのすぐ右隣に張り付くように猫の「クリ」が寝ている。これが私たちのほぼ日常である。
 10時前後に私がコタツを抜けると、熟睡しているはずの猫も起き上がり、玄関に向かって歩きだす。これもまた、毎日変わりない。その時間帯にもし私の動きがないと、クリは起き上がり、私をじっと見つめつづける。私は時計に目をやり立ち上がる。(やっと気づいたか)と、彼はいそいそと玄関に向かって私の前を歩く。外に出た彼は20~30分すると戻ってきて、「ニャー」と帰りを告げ、また同じ場所に寝る。狭い屋敷内を一回りしてくるのだ。これを己の任務としているのかもしれない。私は、その声に合わせて玄関を締めに立つ。その後は、私が動いても午後まで起きることはない。

 奥本大三郎さんが、かつて「ちくま哲学の森」の月報(1990年9月)で次のようなことを書いている。

 哲学者によれば、人間は万物の尺度であるという。この「人間」というのがよく判らないけれど、結局のところは、自分が万物の尺度であると、半分無意識に信じ込んで、一人一人の人間は生きている。だから、自分とは異なった尺度を持った人間に出会っては、しょっちゅう腹を立てる破目になる。
 しかし、ほかの動物たちも、やはり自分を尺度として生きているに違いない。
 人通りの多い道端の、塀の上で昼寝をしている猫に定義させれば、「人間とは、われわれ猫の顔を見れば、チョッチョッと下品に舌を鳴らし、ついで下手な声色で、ニャーンと鳴いてみせる動物である」ということになるだろう。
 犬からすれば、人間は「飼主とほかの連中」に截然と区別されることになる。つまりこの上もなく慕わしいか、噛みついてやらねばならぬほど憎らしいかのどちらかなのである。
 動物園のゴリラからすれば、人間は「檻の向こうに群がる、騒々しく落ち着きのない、悪いところばかり自分たちに似た、類猿人」ということになるであろう。(後略)

  奥本説による猫の定義をクリに知らせれば、彼は大いに不満を示すに違いない。しかし、「自分が万物の尺度であると、半分無意識に信じ込んで、一人一人の人間は生きている。だから、自分とは異なった尺度を持った人間に出会っては、しょっちゅう腹を立てる破目になる。」という奥本説は人間を(言い得て妙)と私は思う。何年経っても変わらないどころか、年々ひどくなっている光景がすぐ浮かんだからだ。もちろん、ただ、感心していていいわけはないので、浮かべた光景にドッキリしてしまった。

 その浮かべた(浮かんだ)光景は、私だけに特別の光景ではないはずだ。誰もが目にし、おそらく私と同じ思いをもっていたであろうテレビで流されるわが「国会」での有り様だ。当人たちはどう思っているかしらないが、これに限って言えば100%当たっていると思うがどうだろう。
 国会内を闊歩し、多くは理解不能な言辞(?)を交わしている姿は、まちがいなく「自分が万物の尺度である」と思っていることの証であり、しかも、なぜかそれらこそが己の仕事と思いこんでいるようにしか見えない。もちろん、それは理解不能としか言いようがない。
 と言いながら、どうしてこうも同類の方々が国会という場に見事に集まったのだろう。ゴリラに言わせれば「永田町は檻」ということになるかもしれない。しかも、その檻に送りこんだのは私たち国民であることもまちがいないからやっかいだ。彼らは、檻に送り込まれる前からああなのか、それとも永田町という檻が人間を変えてしまう装置をそなえている故なのか。
 われわれ小者が「自分が万物の尺度」と考えている分には、笑い話で済むような気がするが、それが特別な檻となると笑って済まなくなり、「〇〇一強」などという言われ方まで普通に使われるようになり、本人もそういう言われ方を恥とも棘とも思うことなく「憲法改正は自分の手で」と平然と言いのける。それらを耳にするたびに、犬のように噛みついてやりたくなっても噛むことのできない悔しさのやり場に困る日々になる。まあ、これも「自分が万物の尺度」からきているのだろうが・・・。

 こんな夢のないグチはやめにしよう。遠吠えだけでは何も変わらない。
 私たちは、もっともっと具体的にならなければならない。12月、アフガンで凶弾に倒れた中村哲医師は「100の診療所より1本の用水路を」「憲法は守るのではない。実行すべきものだ」と言っていたという。中村さんのような方が撃たれるなんて私には想像すらできない。残念ながらそれが現在の世界なのだ。現地に立ってこそ、中村さんの言葉は生まれ、行動がつづいたのだろう。この日本が誇るべき人の死を、永田町はどれだけ悼んだか。誇るべき人を誇れない国に危機を感じる。
 新しい年を、私たちの手で光の見える年にしていきたい。そのために、ささやかでも具体的行動を! みんなで!( 春 )