北斜面に命をつなぐ 春の使者
雪解けの頃に、栗駒山や舟形山のブナ林を歩くと、カタクリやキクザキイチゲなど、早春植物といわれる草花たちが、瞬く間に花を開いて実を結び、いつのまにが姿を消していきます。イワウチワもその仲間です。
春を知らせるイワウチワの群落
私がこの花と初めて出会ったのは、雪解けの始まった栗駒山のブナ林でした。そのとき以来、私はこの花は、高山に咲く植物の一つと思っていました。ところが、仙台市の中心部にある青葉山の観察会で、思いがけずイワウチワに再会して、こんなに都市近くの山で見られることに驚きました。青葉山は西が奥羽山脈につながっていて、かつてはきわめて自然度の高い生態系が保たれていたと思われます。イワウチワはその名残なのでしょう。仙台市近郊の藩山や仙山線奥新川駅付近などでも群生していることを後で知りました。
イワウチワは、イワウメ科の多年草で、山地の岩場や尾根道、崖地の斜面に生育しています。草丈は10cm程で、葉の脇から花茎を伸ばして、3月から4月頃に、淡紅色の花を一つ咲かせます。たまに、白い花を見ることもあります。横向きに咲く花は、管楽器ホルンの先のベルのよう。花びらは5枚のように見えますが、根元が一つの合弁花です。花びらの先端には切れ込みがあって、フリンジフリルのようです。花の期間は短く、花が終わると筒のようにスポンと抜け落ちるところは、椿の花の落下に似ています。
花びらの先はフリンジフリルのよう
細長いのが雌しべ、周りに雄しべが5本
イワウチワは、岩場に育ち、葉が円形でうちわのような形をしているのでこの名がつきました。葉の大きさや形は地域差があって、オオイワウチワ、コイワウチワなどとよばれる変種がありますが、広義でイワウチワとよんでいます。
イワウチワの葉は常緑で少し光沢があり、冬の寒さにも十分耐えられる厚さを持っています。多くの早春植物は、林床が木々の緑の陰に覆われる前に、急いで光合成して休眠しますが、イワウチワは、丈夫な葉で、木もれ日の弱光を効率よく利用して、一年をとおして養分を蓄えることができます。同じ早春植物でも、独自の生き方をしていて、生活史に個性があるのは興味深いことです。
冬も残る光沢のある厚い葉 春先に紅葉が見える冬越しの葉
イワウチワは、県内の群落地を歩くと、多くが崖地や岩場の北向き斜面に咲いていました。イワウチワにとって、岩場や崖地は、大きな樹木が育たず日当りに恵まれていますが、一方で、日かげができず、陽ざしが強くあたる厳しい環境にもなります。特に夏は、西向きや南向き斜面は、乾燥が激しくなります。北向き斜面は、夏でも適度な湿気が保たれるので、生息の条件がいいのでしょう。
でも、冬の北向き斜面は、常に土や岩の凍結氷解をくり返すので、土砂崩れが起きています。実際に崩壊寸前の斜面で、大きな木の脇にしがみついて咲いている花や、斜面の土にかろうじて根をとどめて咲いている花を目にしました。
イワウチワは、岩場や崖地の北斜面という、最も生息に適した条件でありながら、同時にいつも生存が脅かされる危険な環境に、根をはり、花を咲かせ、その命をつないできているのでした。野生に生きるということは、そういうことなのです。
大木の根の脇に咲いている花
崖地の急斜面に咲いている花
イワウチワとよく混同される高山植物が、イワカガミです。イワカガミも高山の岩場や林下に育つ植物で、6月から7月頃に花を咲かせます。その葉はイワウチワより光沢があって、鏡のように光るので「岩鏡」と名づけられています。
イワウチワは花茎に一つの花を咲かせますが、イワカガミは数個の花を咲かせます。花の姿も花期も違うので見分けはそう難しくはないでしょう。
イワカガミは、県内の蔵王連峰、船形山、栗駒山などで見られます。花期も長いので、夏山を歩けば美しい群落に出会うことができるでしょう。
イワウチワ(花は一つで、ホルンのベルのような形)
イワカガミ(花は数個で筒のような形) 高山の岩場に咲くイワカガミ
イワウチワもイワカガミも岩場に生息し厳しい環境に耐えて美しい花を咲かせます。その花が美しいためか、掘って自宅に持ち帰ったり、売りさばいたりする人がいて、自生する個体の数が減っています。特に都市近くの山でも見られるイワウチワは、盗掘だけでなく、宅地造成、道路建設作業などで生息地が奪われています。イワウチワは、宮城県のレッドリストで、絶滅危惧Ⅱ類(VU)の指定になっています。
イワウチワ春の使者とて咲き出ずる愛しきいのちうちふるえるを
鳥海昭子
鳥海昭子さんは、山形県の鳥海山の麓生まれの歌人です。早春に咲き出す山野の花を慈しみ、「いのちうちふるえる」と詠む歌人の感性は、故郷の自然の暮らしの中で育てられたものでしょう。
野山に咲く花は、自生地の自然にあってこそ美しい。そう感じられる感性は、こどもの頃の豊かな自然とのふれあいの中で育てられるものです。小さな花に「いのち」を感じることができるなら、自生地を失う野花の思いは故郷を奪われる人の悲しみと同じと、想像力を働かせることもできるでしょう。
人が所有し住んでいる土地も、巨視的に見るならば、たまたま地球という星の一角を借りているだけのこと。この大地は、地上のすべての生きものたちのすみか。花に会いたくなったら、なつかしい友を訪ねるように生息地を訪ねたいものです。(千)