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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

7月15日

 ずいぶん前からKさんの話を聞きに行こうと思いながら延び延びにしていたことがやっと明日行けることになった。
 今日は、聞き取りのための下準備をした。戦後の宮城の民間教育に関係するものや、Kさんが教組の教育文化部長のときに創刊した組合の機関誌『教育文化』などを広げた。
 私には過去に取り返しのつかないことをしてしまった苦い失敗がある。大村榮さんが宮城県教育百年史の編纂終了後『養賢堂からの出発』を出版したが、本人は「これは3部作の第1部で、2部は『大正自由教育の流れ』にして、すぐとりかかる」とおっしゃっていた。しかし、角田高校80年史など、次々と○○年史編纂の仕事が入り込み第2部に入れない。どうにもならないが私は焦った。時は待たないから・・・。
 (このままではまずい)と気づき、大村先生に、「休刊している『教育すばる』を私が復刊担当しますので、それに連載してください」とお願いし、「大正自由教育の流れ」はスタートしたのだが、連載5回で先生は病に伏し「大正自由教育の流れ」は序章で終わってしまったのだった。代われる人はだれもいない。今では悔いが残る。
 Kさんは幸い元気だ。今でも変わりなくペンをはしらせている。でも、宮城の教育史としてKさんしか語れないものがある。それは後々のために聞いておかなければならない。
 Kさんが創った『教育文化』は1962年4月創刊、2008年3月、492号まで続いて“休刊”となる。
 発刊構想を出したとき、サークル代表者会でも反対、執行委員会でも反対、中央委員会でも反対と、八方ふさがりのなかでスタートしたという。それが、休刊せざるを得なくなったとき、それを惜しむ声の大きかったこと。その声はKさんにまでどれだけ届いていたか。その『教育文化』創刊時のことは、ぜひ聞いておかねばならないひとつだ。これら今聞いておかなければならないことがたくさんある。
 明日を考えているうちに、(あの人たちも一緒なら、もっと話はふくらむだろう、ふかまるだろうに)と、既に亡い人たちの顔まで浮かんできた。