mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

10月12日

 宮城の会ニュース1010日号に江戸川区の「読書科」新設の記事が載っていた。どんな位置づけかはわからないが、なかなか思い切った試みだと思った。そのために区としての図書費の額も小さくない。

子どもはまちがいなく本好きだ。もしそうでなくなっているとすれば周りの大人のせいだと言ってまちがいない。

私の過去のクラスでは、「この時間は本を読みます」と言うと歓声があがった。特設「道徳」の時間は私の場合読み聞かせに決まっていた。何年生であっても子どもたちはその時間を待っていた。それ以上の「道徳教育」は私には到底無理だった。それでも、ある6年生に「一番好きな時間は道徳です」と書かれた時には内心複雑ではあったが。

最後の学校では6年生を3回受け持ったが、どのクラスでも決まって「漂流」(吉村昭著)を読んでやった。文庫本450ページぐらいあったろうか。読み終えるに3カ月ぐらいかかったと思うが、どの子も最後まで身じろぎもせずに聞いていた。子どもから「漂流は? 今度はいつ?」と迫られることが何度もあった。相当数の本を読んでやっているが、「漂流」は大当たりの1冊だった。

なぜこの本が6年生の子どもたちをこんなにもひきつけたのだろう。生きものといえば渡り鳥のアホウドリしか棲まない弧島鳥島に流れ着き、13年後に奇跡の生還を遂げた船乗りの物語だ。どう生きるか、人間の相手は自然そのものであり、アホウドリはそこで暮らす漂流者に大きな刻みの時を知らせ、しかも主食になり、希望を持続させる自然の最大の対象物であったと言える。鳥が島に姿を見せ始めても姿を消し始めても、そのたびに子どもたちの心は大きく動いていた。物語の終章、島からの船出の朝を吉村は次のように書く。

  かれらの顔には、泣くのを必死に堪えているような表情がにじみ出ていた。それは、出帆の日をむかえた感動と、死の船出になるかも知れぬ悲壮感が入りまじっているためにちがいなかった。

  夜が白々とあけてきた。

  かれらは、水平線を見つめた。雲がかがやき、朱色の太陽がのぼってきた。かれらは、厳粛な表情で柏手をうち、頭を深くさげて航海の無事を祈念した。

  風は幸いにも南風で、空は晴れていた。・・・

宮城の会ニュースには「自殺防止教育」の記事も載っていた。どんなことを考えているのかわからないがあまりに生で、「漂流」の子どもたちを考えると首をひねらざるを得ない。

昨日の帰りのバスで本を読んでいる中学生を見た。バスや地下鉄ではめったに目にすることはなくなっただけに、その子の姿が私には輝いて見えた。でも、子どもは本が好きだ。バスで読まなくてもどこかで読んでいるはずだ。