今になるも、ときどき茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」がふっと浮かんでくる。
若い時は、「ばさばさに乾いてゆく心」についてだったり、「苛立ったり」とか4連までにかかわることが多かったが、歳を重ねた今は、5連の「時代のせいにする」ことが多くなり、「時代」を使い、考えることを動くことを止めて平気でいる自分を発見することがやたら多くなったのだ。これを「わずかに残る尊厳の放棄」と言われるとムチ打たれた感を強くもつ。なにしろ、何もかも時代のせいにすることは生きている意味もないじゃないということでもある。
それでいて深刻にならないのは、「ばかものよ」と頭ごなしのことばが、妙に親愛感を覚えるからだろうか。また同じことを繰り返すのだが、叱られても明日の自分を思うことができるのだ。そう、「自分の感受性くらい」自分で守らなければ!! 私以外にも似たような人はいるかもしれない。
蛇足だが、ある類語辞典は「~くらい」の用例として、「彼女くらい親切な人はいない」「それくらいわかるさ」を入れていた。「自分の感受性くらい」がどちらの使い方かは明らかでありそうだが、両方の意が入っているというのは誤答になるのだろうか。 最後に、「知ってるよ、おせっかいな」と思われそうだが、詩を紹介する。
自分の感受性くらい
ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ