mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『偶然と想像』と、寂しげな神さま

 2月のDiaryで書かなかった映画『偶然と想像』の第2話「扉は開けたままで」について。第2話「扉は開けたままで」のあらすじは、おおよそ次の通り。

 芥川賞作家で教授の瀬川(渋川清彦)は、単位を求める学生・佐々木(甲斐翔真)の懇願を拒否し、佐々木は就職内定が取り消しになる。留年した彼は逆恨みし、同じゼミ生でセフレの奈緒(森郁月)に色仕掛けの共謀(ハニートラップ)をもちかけ、瀬川にスキャンダルを起こさせようとする。

 この後の展開については・・・映画を見てほしいが、個人的には3つの話のなかで一番刺激的だった。色仕掛けだからということではない。刺激的だったのはタイトルのとおり、瀬川教授の研究室が常に「扉は開けたままで」状態にあるということが。

 映画は冒頭、土下座して「お願いします!」と単位の認定を懇願する学生・佐々木が登場する。向かいの演習室でゼミをしていた教員は慌てて、瀬川の研究室の扉を閉めようとするが、瀬川は「開けたままでお願いします」とさえぎる。瀬川は、佐々木に対して不適切なアカハラ行為がなされていると誤解されることを避けるために密室状況を避け、扉を開けオープンにしておきたかったのだろう。また、その後の話で出てくるハニートラップの場面でも、女子学生・奈緒との不適切な行為と誤解されぬよう「扉は開けたままに」される。つまり「扉を開けたままに」しておくのは、不適切な行為がなされていると誤解されるのを回避するため。それなら四六時中ずっと扉を開けておく必要はないはず。それはなぜ?  そのことが気になりだして、頭のなかをとりとめない考えがめぐり始め、妄想列車が走り出した。

 そしてはっと閃く。そうか! 瀬川は、学生たちが気さくに研究室に入ってきてくれるのをずっと待っているのだ。扉が常に開けられているのはそのためなんだと。ところが学生たちは、彼の研究室の前をみな素通りしていく。誰も見向きもしない。扉が常に開いていることすら気づいていない。彼は、静かに避けられている。

 それはアーノルド・ローベルの「おてがみ」のがまくんと一緒! がまくんは手紙が来ることを楽しみに待っているのに、誰からも手紙が来なくてしょんぼりしている。それから「ないたあかおに」も。人間たちと仲よくなりたくてお茶とお菓子を用意して待っているのに、誰も来やしない。がまくんと赤鬼の悲しげな表情が、映画のなかで瀬川教授を演じる渋川さんの無愛想で寂しげな表情と重なってくる。彼は、学生をずっと待っている。

 さらに瀬川教授(渋川さん)のクシャクシャの頭髪とモジャモジャの髭の顔をみつめていると、今度はそこにイエス・キリストが浮かんでみえてくる。妄想列車は神の域まで来てしまった。それでも、ひれ伏す(土下座する)佐々木の姿や、神は死んだとその存在を否定され、見向きもされない神を思えば、あながち瀬川に悲しげな「神」を見ても許されるのではないだろうか。そう、瀬川教授は現代における忘れられた「神」なのだ。それは、今の大学という存在そのものを示しているかもしれない。
 そして、そういう視点でこの映画を観ると、まったく違う世界がみえてくる。そろそろ妄想列車は、終点に近づいたようなので、今日はこのへんで。(キヨ)

(追伸)濱口竜介監督が、本日『ドライブ・マイ・カー』で、第94回アカデミー賞・国際長編映画賞を受賞しました。おめでとうございます。