mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

正さん、タイを歩く(3)

 アユタヤ駅に戻るときも渡し船だ。桟橋脇の船の屋根にエアコンの室外機が載ってるのにびっくり。電線はどうなってるかと見ると、発電機らしきものがあった。この船が住居なのだ。

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 バンコク駅に近づいても沿線にはバラック建てが並んでいた。その向こうにはビル群が並ぶ。昔の日本を見ているようだな。

 とても文化的とは思えない屋根に衛星放送用のパラボラアンテナがキノコのように生えていた。よくは分からないが、たくましく生きてるなあと思った。

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 バンコク駅に着くと、待合室でコンサートをやっていた。何やらタイのアイドルらしい。タイのおじさんたちに混じってパチリ。

目的地2「ワット・パクナム」へ》

 午後の時間もあまりないので,バンコク駅からタクシーを使うことにした。タクシー乗り場にはお客とドライバーをつなぐ案内係がいてとても助かった。メーター付であることを確認し乗り込む。やはり渋滞がひどい。4.50分は走ったと思われるが、それでも400円。

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 大仏塔の5階にある「仏伝図」である。プラネタリウムのような円筒形で,あまりの美しさに心が奪われるような錯覚を覚えた。
 仏陀の生涯と世界観が表現されており、その荘厳さに包まれる時間だった。

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 テラスからの寺院とビルの混在する眺めは、どんなに経済が発展しようとも仏教が深く根付いていることを教えてくれる。言い忘れたが、バンコク駅の待合室には僧侶用の一画が作られていた。列車内も僧侶専用の座席が一般市民と区切られていた。特別な存在として崇められている国なのだな。

 帰りは金をかけずに乗り合いトラックのようなものに乗ったが、言葉が全く通じず,高架鉄道の駅までずいぶん歩く羽目になった。地元の人に何度も駅を訪ねお世話になった。ありがとさんでした。本日はここまで。

西からの風24(葦のそよぎ・読書感想文)

 ここに学生の書いてきた読書感想文の束がある。先の冬休みにぼくが教師の地位を利用して彼女達に無理強いしたそれら。ぼくは、いくつかの本を提示し、そのうちの一冊を読むことをあたかも単位に関わる冬休みの〈課題〉のように見せかけて強制したのだ。
 しかし、ぼくが願っていたのはこの強制が彼女達のなかで〈自由〉へと変じることであった。もし、彼女達に押しつける課題図書の選択が正しければ、つまりそれらの本が彼女達のなかの〈自由〉への欲求と一つとなり、それを燃え上がらせるはたらきを持ちうるものであるならば、そのことを通じてぼくのなした強制は彼女達のなかで溶解し〈自由〉へと変貌できるはずなのだ。
 そしてぼくはことさらにそこでは子供達が主人公である文学を、子供達を主人公にするがゆえに必然的に「若い読者」を持ちうる、そしてこの主題と読者の両面にわたる〈子供〉との関係において作者の文学的エネルギーと誠実さが目を見張る緊張に達する作品を、課題図書として選んだ。なぜなら、そうした文学は確実に彼女達にとって〈想起〉という時空を開くものとなるのだから。

「私がジェム程の年令の頃、公正ではない裁判にくやしくて泣き出したジェムやディルのように、どうしても、許せない大人に対し、抗議をして泣いたことがありました。(中略)でも今の私には、そういう熱っぽさがすっかりなくなってしまいました。他人に対して興味というものがなくなってしまいました。いつからかわからないけど何にでも興味を示す気持ちが冷めてしまっていました。
 この本を読んで他人のような、昔の自分を思い出しました。あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います。今のこの気持ちを忘れないでいたいと思います。」

 これは、ハーパー・リーの『アラバマ物語』を読んだある学生の感想文の結びである。これが素晴らしい感想文だというわけではもちろんない。もっと生き生きとしたいわゆる感動に踊っている感想文はいくらもある。だが、ぼくはこの学生の文章の末尾はいつまでもぼくの記憶に引っ掛かっているだろうと、そんな気がする。
「あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います」
 この貧しく寂しい感慨のなかに、しかし突き刺さっている「絶対いい」という断片、その「絶対」という言葉はぼくには生命の叫びのように感じられる。変な言い方だが、この「絶対」は、「そういう感情を少しくらい持っていた方が・・・・・・いい」という一つの文脈を地下から突き破るような仕方で生命の文脈が我を忘れて叫んだ、叫びに聞こえるのだ。もし、それさえ失えばもうおまえは生きてゆけないのだぞ、と。それは絶対の限界なのだぞ、と。
「他人に対して興味というものがなくなってしまった」、これは恐ろしい言葉だ。本当にそうであれば、彼女の存在は石のように冷え込んでしまう。それは〈物〉と化すこと、人間の死だ。

 昨晩ぼくはマルクーゼという哲学者の本を読んでいて次の言葉を見出した。
 ——「あらゆる物象化は忘却である」。芸術は化石化した世界に語らせ、歌わ
 せ、おそらくは踊らせることによって、物象化と闘う。過去の苦悩や喜びを忘
 れ去ることは、抑圧的な現実原則の下にある生活を軽くする。ところが、追憶
 は苦悩の克服と喜びの永続への衝動をかきたてる。しかし追憶の力は挫折し、
 喜びそのものが苦悩の影に覆われる。——
 ここに哲学者が述べた洞察の素朴とはいえ直観的な理解が先の学生の文章を貫いていると考えるのは、ぼくだけだろうか。そしてぼく自身はといえば、課題図書に子供達が主人公の文学をことさらに選んだその自分の直観が上の一節によって改めて裏付けられる思いがしたのだ。

 また、かの哲学者はこうも言う。
 ——かくして想起は、過去の黄金時代(一度として存在したことのない)、幼児
 期の無垢状態、原始の人間、等々についての記憶ではない。認識能力としての想
 起はむしろ、歪められた人間性や歪められた自然に見出される小片、断片を再度
 集めなおす総合の作用なのである。この再び集められ(想起され)た材料が想像
 力の領域となった。——
 そして、この再度集めなおす総合とは「既成の現実の中で歪められ否定されていた事物の真の形式の再発見」に他ならない。この哲学者の見解に導かれて、今またぼくが感想文の束のなかから選び出してきたのは別の学生の、希望と意志にあふれた次の一節である。

「もし、トムが、そして私が、今持っている夢が本当に大切な物なら、それを叶えるまでに感じたり知ったりした事などは全て、必ずどこかで、夢に、自分の本当に好きな物につながっているはずなのだ。あるいはもし、その夢が大切なものではなかったのなら、トムも私も、いつかそれよりもはるかに素晴らしい、と思えるものにめぐり会えるはずだ。」
 ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』を読んで主人公のトムに感情移入したある学生はこう書いていたのだ。
 これは人生に対する美しい、そして真理でもある、正しい信念というべきものではないだろうか。世界を四散した断片の集合としてではなく、一つの有機的な全体と直観しうる信念のみが、この世界のうちに生の「真の形式」に他ならぬ〈意味〉というものを感受でき、生をこの世界に係留することができる。
 彼女達の素朴な直観力に対する敬愛をもしぼくが失わないでいられるなら、ぼくは自分のなす強制が彼女達のもとで〈自由〉に変じるというその希望を自分にまだ許していてもよいだろう。(清眞人)

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  12月4日のDiaryに、清さんの「葦のそよぎ・好きになれたら」(西からの風23)を掲載した。清さんの大学教師としての授業や学生への思いと構想を述べたものだ。今回の「読書感想文」も清さんの教師としての取り組み・企ての一つと言える。清さんの学生への信頼と、育てることへの思いを強く感じる。
 文章そのものは、ずいぶん前に書かれたものに違いないが、内容はまったく古びてはいない。今のような時代だからこそ、こういう取り組みが必要なのではないかと思った。

 と同時に『アラバマ物語』を読んだ学生の感想文を読んだとき、ふと春さんの教え子が書いた「考えない私になってしまいそう」が思い浮かんだ。国語が大好きで、考えることが大好きな自分ではいられなくなってしまう、そういう自分を失いたくないという思いが切々と綴られている。清さんの学生は二十歳前後、春さんの教え子は中学1年生だ。この世に生まれて20年足らずの間に、自分の中の大事なものを子どもたちの多くが失っているとしたら・・・。こういう思いを感じる中学生や若者は決して少数ではないだろう。そして、それが教育という営みを通じてなされてしまっているのだとしたら、教育とは一体何だろうと改めて考えざるを得ない。
 でも学生が「あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います。今のこの気持ちを忘れないでいたいと思います」と書き、春さんの教え子が大好きな今の自分を失いたくないと訴える、その疼きや気持ちがある限り、子どもたちや若者を信頼し、そこに希望があることを見出していいのではないだろうか。(キヨ)

冬の学習会 、年明けから 『ないた赤おに』で妄想する

 新年早々の冬の学習会に、多くの先生たちや市民が足を運んだ。午前中は、Diaryでも伝えたように前川喜平さんの講演会が行われ、会場いっぱいの参加者で熱気にあふれた。前川さんは、教育行政に身を置いて仕事をしてきた立場から、教育行政と教育はどのような関係でなければならないのか。文科省での仕事の経験も交えながらその想いを語った。

 午後は、国語の分科会に参加。報告されたレポートは「ないた赤おに」と「名前を見てちょうだい」、どちらも2年生の教材だ。以下では、「ないた赤おに」での話し合いを通じて、走り出してしまった私の妄想列車について書こうと思う。

 「ないた赤おに」は、多くの人が一度は聞いたことのある昔話だろう。ある先生は、お子さんが小さかったころ、絵本を読んでやるとかわいそうだといってよく泣いたという話をした。そうなのだ、この話は悲しいのだ。だが、その話を聞きながら、娘さんは誰のどんなことを悲しいと思ったのだろう。そして、この物語の悲しさはどこからやってくるのだろう。そんなことが急に気になりだした。

 「ないた赤おに」の赤おには、こわくて恐ろしいおにではない。人間と仲良くなりたいと思っている奇特な優しいおにだ。そんな奇特な赤おにの願いをかなえようと一肌脱いだのが友達の青おにだ。彼は、村で暴れる自分を赤おにがやっつければ人間は安心して赤おにのところにやってくる、そう考えたのだ。目論見は大成功、村人は赤おにのところへやってきて、赤おには大喜び。しかし青おには、自分が赤おにと行ったり来たりしていては元の木阿弥になってしまうと考え、みずから身をひいて去っていく。

 悲しみは赤おにからやってくるのだろうか、それとも青おにからだろうか。いやいや赤おにと青おに二人からだろうか。二人の間に悲しみは横たわっている。とは言っても赤おには当初の願いをかなえ、大喜びだったではないか。青おにと別れざるを得ないのは仕方がないことなのではないか。両方うまく行こうと思うことが土台無理な話。それが現実なのだ。そんな意地悪い見方をして、はっと気がついた。赤おにが望んだのは「人間たちともつき合って、なかよく くらして いきたいな。」ということ、人間たち「とも」だ。つまり赤おには人間とも、おにとも仲よく付き合いたい。そういう世界を願い、夢見ていた。赤おににとって青おにを失うことは、同時に夢の喪失でもある。そんなことを妄想して、これは昔、昔の話などというものではないのかもしれない? まさに今の、現代の話に通じるものかもという思いが湧いてくる。要するに、このおにの悲しみは、社会の偏見や差別のなかで苦しんできた、いや今も苦しんでいる人々の悲しみと相通じる悲しみではないのかと。そんな妄想がふつふつと胸に立ち上ってきて、「ないた赤おに」という話がいわゆる子どもむけの昔話という範疇を越えて、もっと歴史性を帯びた(部落差別や障がい者差別、ハンセン病患者の隔離政策など)人々の悲しみをも包括するような深い話に思えてきた。

 今年も、年始早々から、私の妄想列車は快調に走りだしてしまったようだ。考えることはとても楽しい。一つの発見がそこにあれば、至福の喜びにさえ通じる。今年も多くの学びを通じて、大いに妄想していきたい。(キヨ)

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おすすめ映画『 i 新聞記者ドキュメント』

  私(たち)はどう生きるのか

 この表題は,2017年度コミック版でベストセラーにもなった「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎)をもじったものである。大学時代、研究室の自主ゼミで読み合った本だ。当時、自分の思いだけでしゃべっていた私が、考えて話せるようになったのは、この本をもとに議論した〈ゼミ〉を通してだった。本の中で、主人公のコペル君は様々な経験とおじさんとの対話のなかで世の中の仕組みや自分の存在意義をつかんでいく。このコペル君の成長を通して、作者は「君たちはどう生きるのか」と問いかける。

 『i新聞記者ドキュメント』を観ていると、途中からずっと私の頭の中に、「この映画を見た俺がどう生きるのかを問われている」気がしてしょうがなかった。はっきり言って、今の政権による政治は腐っていると思う。何をしても、そのことの陰で人が死んでも「資料がない」「遺憾である」「私は関わっていない」などと言って、まともに向き合わない。挙句、マスコミを掌握し、反旗を翻す者には、ありとあらゆる手で嫌がらせをする。そうした者たちが「いじめ防止」を声高に叫ぶなんて、悪夢としか思えない。

 しかし愚痴っているだけでは、世の中は変わらない。映画の中で、記者の望月氏は、真相を追い求めて、妬み、嫉み、妨害、ありとあらゆる壁を仕掛けられる。しかも、それは権力による非常に厭らしく稚拙な脅しだけでなく、同じ記者からの同調圧力もある。しかし望月氏はめげない。私=iとして、自分の生き方を曲げずに貫いている。こうした姿勢に励まされた。ただ私はiとしてだけではなく、weとしても仲間たちと共に、歩んで行こうと強く思った。巨大な権力に対しては、同じ志を持つ仲間との共同が大きな力となるから。そのためのiでありたいと思った。そして、これを読んでいる皆さんにも。この映画を見てもらって問いかけたい、
 ~私(たち)はどう生きるのか?~ (鈴木吉雄)

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 実は、今週末に出来上がる「つうしん97号」に、おすすめ映画として鈴木さんが紹介してくれたのが、上記『 i 新聞記者ドキュメント』です。そしてちょうど現在「仙台フォーラム」で、この『 i 新聞記者ドキュメント』が上映されています。事の順番からすれば、まず「つうしん」、そして「Diary」での紹介というのが筋かもしれませんが、ご本人からも《映画も上映されているし、ぜひ多くの人に観てもらいたい。早く知らせることができれば》との意見をいただいたので、先んじてDiaryで紹介することにいたしました。

 なお上映は、「仙台フォーラム」で、1月10日(金)~1月23日(木)までの予定です。上映開始時刻は1週間ごとに変わりますので、確認のうえ来場するのがよいと思います。ぜひ、みなさんご鑑賞ください(ちなみに上映期間も、好評だと延長されたりするのでお気をつけください)。

 さらに、この上映に直接関連した企画ではありませんが、せっかくなので以下の別企画も紹介します。
 宮城県職員組合が、2月8、9日(土・日)茂庭荘で『GO!DO!教研』という先生方中心の学習会を行います。その記念講演に、本映画の主人公であり、中日新聞記者の望月衣塑子さんが講師としていらっしゃいます。教員でなくても、一般の方も参加できるそうです。講演日時は、次の通りです。なお参加費は1,000円です。(問い合わせは、022‐234-4161  宮城県職員組合まで)

  ◇記念講演(2月8日・土 13:20~15:00) 会場:茂庭荘
           報道の今、~記者の目から見えること~
             
講師:望月衣塑子さん

季節のたより43 ナンテン

 難を転じる薬用の葉や実 紅葉する常緑樹

 小雪のなか、ナンテンが赤い実をたわわにつけて、冬の庭を彩っています。
 校庭に雪が降ると、このナンテンで、低学年のこどもたちと雪ウサギを作って遊んだことを思い出します。新雪をそっと両手でかき集め、雪かたまりを作り、目には赤い実を、耳にはナンテンの葉をつけてできあがり。大小のたくさんの雪ウサギがこどもたちの手から生まれて、思い思いの場所で遊んでいるようでした。 f:id:mkbkc:20200109160654j:plain
      小雪ふるなか ナンテンの赤い実が鮮やかです。

  ナンテンは、メギ科ナンテン属の常緑低木で、呼び名の音が「難転」と同じで、「難を転ずる」に通じる縁起のよい木として、古くから日本の民家の垣根や庭などに植えられてきました。赤い実は、お正月の門松やしめ縄飾りにもよく使われます。

 ナンテンは、本州中部以西の温暖な林野に、野生のものが生えていますが、それらは、自生のものか、栽培種の種が運ばれ育ったものかは、不明のようです。
 漢字では「南天」と書きますが、もともとは日本にはなかった木でした。中国原産ともいわれ、漢名が「南天燭」「南天竹」「南天竺」で、それが省略されて「南天」となったといわれています。
 我が国で、最初にナンテンの記録が見られるのは、鎌倉時代の初期に書かれた藤原定家の「明月記」とのこと。調べてみると、寛喜二年(1230)の6月22日の日記に「中宮の役人が南天竺を選んで庭に植える」といった内容が書かれていました。すでに庭木として植栽されていたようです。ナンテン平安時代に日本に入り、鎌倉・室町時代を通じて縁起木として人気を集めていたと思われます。

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    今でもナンテンの木は、家の玄関や庭先に植えられています。

 江戸時代の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』の「南天燭」の項で、「これを庭に植えて火災を防ぐ。大へん効験がある。」といっています。火事の多い江戸のこと、ナンテンは防火用としても人気があったのでしょう。その後、「難を転じる」に「魔除け」の意味も加わって、どこの家でも、生け垣や玄関口、手水鉢や厠などに植栽されていったようです。こうした習俗は今も日本の各地に残っています。もし、古い民家の庭先で大きな南天の木を見かけたら、それは江戸時代から今日まで人の暮らしをみつめ見守ってきた長寿の老木かもしれません。

 ナンテンは、6月の梅雨の頃に、小さく白い花をいっぱい咲かせます。赤い実に目にとめる人があっても、花に心をよせる人は少ないかもしれませんが、白い花を散りばめたような円錐形の花穂の集まりが、あたりをほの明るく照らしている様子は心惹かれるものです。

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  円錐状に花を咲かせるナンテン      つぼみと開いた花のようす

 ナンテンは、花が咲いても、白い花びらはすぐに散ってしまい、きれいな形の花は、なかなか見ることができません。花びらは6枚に見えますが、正確には花びらが3枚、ガクが3枚です。花びらもガクも同じような形で区別がつきません。このような特徴の花は、チューリップなどのユリ科植物に見られますが、樹木では「ありふれた庭木だが、植物学的に珍しい」(「花おりおり」・湯浅浩史)のだそうです。

 ナンテンの葉は、小葉が鳥の羽のように並んでいる羽状複葉といわれる葉です。枝先に集まってつきます。葉の集まりの中から、一つの葉柄をとってよく見ると、小さな葉がデザインされたように美しく、日の光も十分に受けとめられるように並んでいます。自然の造形は、すっきりしていてむだがありません。

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  光があたるように広がる葉      三回奇数羽状複葉といわれる美しい葉

 ナンテンは常緑樹ですが、冬に紅葉する葉が見られます。寒くても半日かげで風の当たらない場所の葉は緑のままですが、直射日光や寒風にさらされる葉は、茶色や赤色に変色しています。もっと環境が厳しくなると、モミジやカエデに負けないほど真っ赤に紅葉していきます。
ナンテンの葉は紅葉しても、落葉はしません。落葉樹のように枝から葉を落とす離層を作らないのです。そのまま冬を越して、暖かくなると緑に復活していきます。ナンテンの紅葉は、冬の寒さにじっと耐えて、春待つ姿でもあるのです。

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     冬、寒風にさらされると 葉も紅葉して赤くなります。

 こどもの頃、祝い事でお赤飯を近所に配るとき、重箱にお赤飯を入れたその上に必ずナンテンの葉がのっていました。
 ナンテンの葉にはナンジニンという成分が含まれていて、熱いお赤飯の上に乗せると、その成分が微量のチアン水素を発生させます。チアン水素は猛毒ですが、含有量はわずかだと危険性はなく、殺菌効果があることが分かってきています。
 昔の人は、ナンテンの葉には “ 食べ物を腐敗させない何かがある ” と経験的に感じて、それを利用していたのです。

 ナンテンの赤い実も、古くから咳止めの薬として使われていました。完熟した実を天日干しで乾燥させた「南天実(なんてんじつ)」という生薬は、今は医薬品の有効成分として認められ、咳やのどの炎症をおさえる「南天のど飴」の原料となっています。

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  雨にぬれた、ナンテンの実      綿帽子をかぶった ナンテンの実

 ナンテンの葉を防腐用にしたり、実を煎じて咳止めの薬にしたり、昔の人は薬用成分など全く知らなかったはずなのに、先人の知恵はすごいものです。

 ナンテンの実は、人間が利用するだけでなく、冬の野鳥たちの貴重な食べ物にもなっています。よく見られるのはヒヨドリですが、越冬のために日本にやってくるツグミジョウビタキなどの冬鳥も群がって食べにきます。でも、弱毒を含んでいるので、食べ続けないで少し食べては移動することを繰り返します。ナンテンは、時間をかけて広い範囲に種子を運んでもらうように仕組んでいるようです。

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      雪の白さは、実の赤さを 際立たせます。

 小川未明の作品に、「おじいさんが捨てたら」という童話があります。

 おじいさんが、いつものように手車にくずかごをのせて歩いていると、喫茶店の若いおかみさんに、不用な道具やがらくたを買ってくれと言われます。その中にあったのが、枯れかかった鉢植えの南天の木。「どうせその木はだめなんですから、どこかへ捨てて鉢だけ持っていってくださいな。」と笑っていうのです。おじいさんは持ち帰りますが、誰もがこの木は助からないと言うのです。

 「子供を育てると同じようなもので、草でも木でも丹精ひとつだ。」
 こう、おじいさんは、いったのでした。それから、おじいさんは、朝起きて、出かける前に、鉢を日あたりに出してやりました。また帰れば店さきにいれてやり、そしてときどきは雨にあわせてやるというふうに手をかけましたから、枯れかかった南天もすこしずつ精がついて、新しい芽をだしました。新しい芽は、また子供のように、太陽の光と新鮮な大気の中で元気よく伸びてゆきました。そして夏のころ白い花が咲き、その年の暮れには真っ赤な実が重そうに垂れさがったのであります。(「定本小川未明童話全集10」講談社

 みごとに育った南天を見て、売ってほしいという人がいても、おじいさんは断りますが、ある日、孫の正坊が重い風邪で高熱をだして、夜中に駆けつけてくれたお医者さんに助けられます。そのお医者さんが、南天をたいそうみごととほめたので、おじいさんはお礼にさしあげるのです。そして、そのあとにいうのでした。「あの人なら、だいじょうぶ枯らすことはない。」と。

 命あるものへのやさしいまなざしを感じさせてくれるお話。小さなこどもたちと一緒に読んでみたいものです。なぜ「おじいさんが捨てたら」の題名なのか、考えてみるのもおもしろいかもしれません。

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      おもそうにたれさがる ナンテンの実

 これまで、ナンテンを「木」として紹介してきましたが、ウエブサイトを見ていたら、「ナンテンには年輪がない」「南天は木質化した茎を持つ草」という記事がありました。さて、どうなのでしょうか。ナンテンの謎はまだまだありそうです。
 身近にあるものは、いつでも手にとり観察できますし、一年をとおしてその姿をみつめることができます。ナンテンを「ありふれたもの」と思うと、何も見えてきませんが、じつは、自然の不思議を考える素材をいっぱい見せて、私たちの前に立っているような気がするのです。(千)

◆昨年1月「季節のたより」紹介の草花

正さん、タイを歩く(2)

《12月27日 目的地1「アユタヤ」へ》
 実質2日しかないので、一番早く着けるスーパーエクスプレスという列車にしてみた。でも、昨日乗ってきた普通列車とあまり変わらない感じもした。座席が少しいいのと、冷房が恐ろしく強いのが運賃に反映されているようだ。指定席のある客車はほとんどが外国人で占められていた。

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 切符はこんな感じ。345B(約1,200円)。帰りは普通列車で20B。雲泥の差だ。
発車が8時30分となっているいが、かなりアバウトなので30分前にその場にいないと何が起こるか分からないらしい。国鉄がそうだから、これも国民性なのだろう。なぜか愉快だ。
 1時間20分ほどでアユタヤ駅に着いた。観光地だけあって、ちゃんとした駅だった。

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   アユタヤの駅             アユタヤの駅前の様子 

 タクシーやトウクトウクの客引きをよけて、駅前正面の路地を川に向かう。チャオプラヤー川を渡り、念願のトウクトウクで遺跡群を巡ることに。もちろん値段交渉する。どっちもタイ人に見える。

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  船着き場、ここから船で対岸へ      どっちもタイ人?  

★ワット・プラ・シーサンペット
 王室専用寺院が建っていたが、今は3基の仏塔のみ。

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 ほとんどの仏像に首がないので驚いた。度重なるビルマの侵攻によるものだということを教えられた。そうしてアユタヤ王朝は衰退したのだそうだ。何で首だけ取るかな~。

★ワット・マハタート 
 木の根に埋もれる仏頭として有名になったのだそうだが、
悠久の時を感じる光景だった。おいらが邪魔で申し訳ない。

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★ワット・ロカヤ・スター(巨大寝釈迦仏)
 周りに寺院は無く、野っ原に寝そべっている。この写真では顔の表情が分からないが、実にのどかでほわわ~んとしていた。仏様のおおらかさがいい(写真のなか真ん中あたりにいる米粒みたいなのがおいら。わかります?)

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 いやな物を見た。遺跡群の説明がしてある標示だと思って近づいたら、「やめてください」という看板だった。しかも、英語の下に日本語で表記してあった。例えば、「首のない仏像に自分の顔を乗せて写真を撮ることをしないでください」「壁をよじ登らないでください」など。なんということだと思った。この遺跡がタイの人にとってどういう存在なのかを少しでも調べていたら、自ずと振る舞いは分かるだろうに。奈良の大仏によじ登って、手のひらに座って写真撮るようなもんだ。確かに日本人観光客は多かった。

正さん、タイを歩く(1)

《 出発!》
 12月25日・夜、まずは仙台から夜行バスで成田に向かう。隣の席のおじさんのいびきがものすごい。いわゆる無呼吸症候群。1分近く返しの轟音が戻ってこない。死んだのか?音よりそっちが心配で眠れなかった。腰も痛い。

 出国審査は機械がやってくれた。パスポート写真をひっくり返してパネルにおいて、後は鏡のようなデイスプレイに顔を見せるだけでOK。顔認証システムがずらりと並んでいた。東京2020に合わせて審査時間を短縮するためだろうかと思った。
 手荷物検査もあっさりしたものだった。液体物、歯磨きチューブなどをジップロックに入れてきたのに、ザックに突っ込んだままで通過。タイ・ライオンエアーはライター1個なら許してくれるので好きになった。

《12月26日 LCCに初めて乗る》
 何が違うのかと座ってみると、前席との空間が狭いような気がする。新幹線の席間より確実に狭い。おまけに、いすは倒してはいけないようなので、リラックス姿勢が取れない。おちびさんのおいらでもそう感じるのだから、大きい人はもっと狭く感じるかもしれない。

 機内の飲食物は当然有料と思っていたら、クロワッサンと水はサービスだった。帰りの機内でも同じ物が提供された。そこでおいらはなかなかいい発見をした。飲み物は自分で買ってきていたので、サービスの水は半分残そうと思った。ゴミ集めに来たアテンダントに、“残したいんだけど、このまま捨てられないよね。”とカップの水を指さしたら、OKと言って通り過ぎてしまった。あれ?通じてないや。きっと、“急がなくてもいいですよ、ゆっくり飲んでください。”てな感じかな。
 しかし、全く違っていた。アテンダントはすぐに戻ってきて、両手におかわり用のクロワッサンと水を持っていた。あららら、とお断りした。もう飲めないよ、を伝えるためにno moreとかgive upぐらい言えばよかったのだ。でも、失敗のおかげで、“なに~おかわりができるのかあ~”と分かったのだ。次回使わない手はないな。

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   機内サービスのクロワッサンとお水

《ドン・ムアン空港到着》
 いやあ腰が痛い。6時間半はおいらには長かった。

 バンコク郊外の空港ではあるが、日本のように住宅がびっしり並んでいた。
入国審査は両手の指紋をタッチパネルに押しつけてる間に終了。関税品もないしトランクもないので、空港接続の鉄道駅に直行。

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   機内からバンコク郊外     アマリホテルのエレベーター前

 ネットによると空港から駅への通路が非常に分かりにくいということだったので調べると、空港1階にあるアマリホテルのエレベーターで2階に上がると標示があるということだった。そこに行こうとしたら、連れは別ルートを探していた。出口付近に階段があってそこを登るとエレベータールートと同じところに出た。結論は、そんなに込みいったルートではなかった。また、ネット情報だけに頼らず、現地で動き回ることがいいと思った。ここに並んでいる人たちは、俺と同じ情報を見たものと思われる。

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 プラットホームに出たら、とんでもない蒸し暑さ。タイに来たんだと実感。早速冬装備からTシャツに変身。
 バンコク駅までの切符を買う。およそ1時間で着く予定。20バーツ。日本円で約70円。どう考えても安すぎる。

バンコク駅》
 到着したプラットホームは、列車を待つ人々が地べたに座ってくつろいでいた。ここは、待合室ではなく、あくまでもプラットホーム。日本で言えば東京駅にあたるかな。
 写真・右が待合室。どの時間帯も人でいっぱいだった。いすが空いていても地べたに座る方が多いので、それがタイの習慣なのだろうと思った。

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   バンコク駅のプラットホーム        こちらが待合室 

 ホテルまでは歩いて5,6分。でも、大きな通りを横切るのに時間がかかった。もちろん信号はあるのだが、地元の人は赤でもどんどん流れてくる車のすきをねらって、慌てることなく渡っていた。まねしようとしたが、うまくタイミングが取れなかった。見かねた地元のおばちゃんが、付いてこいと一緒に渡ってくれた。誤解されると困るので話しておくが、じっと信号を待っていれば青信号になるのだ。日本のように歩行者信号が赤なら、車が来なくても止まって待つという習慣はない。タイの人から見たら、なぜ車が来ないのに渡らないのか不思議に思えるだろうと思う。何回かそういう渡り方をしたらうまくなったので、片側5車線ぐらいの大きい通りを赤で渡ろうとしたら、地元のおじいちゃんに「だめ!」と注意されてしまった。駄目な日本のじじい、調子にのってしまった。