mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

欠損・欠如をめぐって あれこれ

 このところ鷲田清一さんの本を読んでいました。鷲田さんは関西の方ですが、ご存じのようにせんだいメディアテークの館長でもあります。遠くの人のようで実は近い人でもあるのです。

 哲学者にとって、対象との距離をどうとるか、どう向き合うかというのは、とても大切なことです。昨今、遠くから近くから仙台にも関わられている鷲田さんが、今という時代や社会を、そして人が生きる営みをどんなふうに見つめてきたのか、いるのか。そんなことに関心を持ちながら著書を読んできました。

 少し前まで読んでいたのは『人生はいつもちぐはぐ』です。その中の「不足だからこその充足」という短い文の冒頭に目がとまりました。こんな書き出しです。

 おのれの身元に不明なところがある。おのれの出自に納得できないことがある。父親を知らず、そして祖母に母として育てられたという、そんなじぶんの〈存在の欠損〉と向きあい、もがくことから、その映画制作を開始した人がいる。

 誰だと思われますか? 映画監督の河瀨直美さんだそうです。
 河瀨さんは「殯の森」という作品で、2007年カンヌ国際映画祭でグランプリを授賞しました。昨年『万引き家族』でパルムドールをとった是枝監督に負けず劣らずというか、それ以上にカンヌに愛された監督の一人と言ってよいかもしれません。ちなみに河瀨監督の『あん』は、とても好きな作品の一つです。昨年亡くなられた樹木希林さんや市川悦子さんが、社会からのさまざまな差別や偏見のなかをともに思いやり励まし合いながら生きてきた元ハンセン病患者を好演しています。

 先の鷲田さんの文章に目がとまったのは、河瀨監督のことだからというだけではありません。〈存在の欠損〉という、その言葉に魅せられたからでもあります。
 〈欠損〉という言葉、実は他人事ではありません。肌身離さずというか不即不離のように私にくっついていた言葉です。しかもここしばらくはすっかり忘れていた言葉でした。その言葉に、思わず出くわしてしまったのです。しかも私の好きな監督の一人を評する象徴的な言葉として。ところで私の場合は、心臓の欠損です。監督の〈存在の欠損〉とはずいぶん違う? どちらも存在に関わるということでお許しを。
 それにしても「欠損」という言葉は、いやな気がしてなりません。欠けているというだけでも引け目を感じたり気になったりするものなのに、さらに損だという評価までされてしまうのですから。

 でも鷲田さんは、冒頭の一文で〈欠損〉を悪く論じているわけではありません。鷲田さんは、〈存在の欠損〉と命名した河瀨監督が取り組む「なら国際映画祭」のプロジェクトも、河瀨さんの〈欠損〉を代弁するかのように欠損・不足だらけ。ところがどういうわけか多くのボランティア・スタッフが集まり、「比類ない熱さ、そして表現の濃密さ」を生み出していると、その魅力を語ります。そして「不足の中に充足が立ち上がること」、これは「いったい何を意味しているのか」と問いかけるのでした。

 鷲田さんはその問いにそれ以上は述べていませんが、その問いかけを受けて、すぐに想うのは吉野弘さんの次の詩です。

  生命は

 生命は
 自分自身では完結できないように
 つくられているらしい
 花も
 めしべとおしべがそろっているだけでは
 不充分で
 虫や風が訪れて
 めしべとおしべを仲立ちする
 生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ

 世界は多分
 他者の総和
 しかし
 互いに欠如を満たすなどとは
 知りもせず
 知らされもせず
 ばらまかれている者同士
 無関心でいられる間柄
 ときに
 うとましく思うことさえも許されている間柄
 そのように世界がゆるやかに構成されているのは
 なぜ?

 花が咲いている
 すぐ近くまで
 虻の姿をした他者が
 光をまとって飛んできている

 私も あるとき
 誰かのための虻だったろう

 あなたも あるとき
 私のための風だったかもしれない

 生命のなかに欠如をみとめ、その欠如に生命の摂理と生きていくことの豊かさをみる。詩人の目には、欠損の中に立ち上がる生命そのもの、生きることそのものが孕む世界の豊かさが、その可能性とともに見えているのではないかと勝手に思うのでした。
 そして、これらの欠如をめぐる世界は、昨年カンヌでパルムドールをとった是枝監督の多くの作品にも引き継がれているとも、これまた勝手に思うのでした。
( キヨ )