mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風7 ~教室にて5~

   幾つかの導きとなる言葉

 《自分のなかのトラウマを問うということは、それ自体、人間にとって生を励まし豊饒化させる働きをする肯定的経験と、それを破壊する否定的経験、そのどちらがその人間の世界観を定める基礎経験の地位を占取するかの主導権争い、これが実はなお密かに闘われ続けているということにほかならない》、そう私は前回の終わりに述べた。
 学生たちが寄せた388通のレポート群の93%はその内実において一つの陸続きのトラウマ大陸の存在を告げるものであり、その大陸全体を覆う意識の基軸とは自分は「1対全体」の異者排除の暴力に対して不甲斐なくも「傍観者」であるほかなかったという後悔にある、と私は指摘してきた。

 私は以前も学生たちに紹介したのだが、あらためてまた紹介するであろう。マイケル・ジャクソンのショートフィルム『鏡の中の男』を。そこで彼はこう歌う。

 襟を立てたってさ お気に入りのウィンターコートの
 冷たい風が心に吹き込んでくるぜ
 路上には子供達がいる 十分な食べものがない
 めくらのふりをする俺って、何者なんだ?
 気付かないふりをしているのは? 
 彼らに必要なものに 夏は無関心
 ギザギザに欠けた瓶の先っぽと そして、ある男の魂
 お互いの後をおっかけている
 風は、そうさ、知ってるのさ
 ヤツらには向かうべき場所がないからだってことを
 だから、おまえに知って欲しいんだ
 俺は鏡の中の男から始めるよ

   (リフレイン)
 彼に生き方を変えるようにいってみる
 どんなメッセージもないぜ
 これほどわかりやすい
 もし、おまえが世界を
 もっとよい場所にしたいなら
 (もし、おまえが世界をもっとよい場所にしたいなら)
 まず自分を見て、
 自分を変えることさ
 (まず自分を見て、自分を変えることさ)
   (ナ!ナ!ナ!ナ!ナ!ナ!)

 そして、私は学生たちにこう提案してみたい。この歌詞をちょっとばかり替え歌してみよう、と。マイケルは「傍観者」の心のなかの荒廃を巧みに歌いながら、だから、その荒廃から自分の魂を救おうとするなら、「鏡の中の男」つまり自分を、しっかり見て、その自分を変えることから始めなければいけない、そうしなければ、「世界をもっとよい場所にする」ってことはできない、と。何でも他人のせいにするんじゃなくて、「鏡の中の男から始める」ってことをしろ、と。

 襟を立てたってさ お気に入りのウィンターコートの
 冷たい風が心に吹き込んでくるぜ
 君の横には彼がいる 誰からも口をきいてもらえない彼が
 めくらのふりをする俺って、何者なんだ?
 気付かないふりをしているのは? 
 彼に必要なものに 夏は無関心
 ギザギザに欠けた瓶の先っぽと そして、おまえの魂
 お互いの後をおっかけている
 風は、そうさ、知ってるのさ
 おまえには向かうべき場所がないからだってことを
 だから、おまえに知って欲しいんだ
 俺は鏡の中の男から始めるよ

   (リフレイン)
 おまえに生き方を変えるようにいってみる
 どんなメッセージもないぜ
 これほどわかりやすい
 もし、おまえが世界を
 もっとよい場所にしたいなら
 (もし、おまえが世界をもっとよい場所にしたいなら)
 まず自分を見て、
 自分を変えることさ
 (まず自分を見て、自分を変えることさ)
   (ナ!ナ!ナ!ナ!ナ!ナ!)

 マイケルはあの歌「We are the world」プロジェクト——飢餓に苦しむアフリカの子供たちへの救援募金を集めるためにレコード化された——の中心人物の一人だったが、あの歌でもこのメッセージが鳴り響いている。「傍観者」でいることがもたらす心の荒廃から自分を救うことと世界を荒廃から救うことは一つのことだというメッセージが。サビのコーラス部分の歌詞は彼が書いたもので、こうだ。

We are the world, we are the children
(僕らは世界とひとつ、僕らは(神の)子供)
We are the ones who make a brighter day
(僕らこそが 輝ける明日を作り出せるんだ)
So lets start giving             
(だから与えることを始めよう)
There's a choice we're making        
(一つの選択があるんだ、僕らのする)
We're saving our own lives          
(自分たちの人生を救うのは僕らなんだ)
Its true we'll make a better day
(ほんとうさ、良い日々を作るのは僕らだってことは)
Just you and me             
(だから、君と僕からはじめよう)

 私は、以前もしたが、また学生たちにこうくりかえそうと思っている。——君たちの寄せた「私のイジメ経験」レポートが描きだす問題は、次に紹介する五つの哲学的名言が投げかける問題提起とぴったり照応している。いわばそれらと「四つに組んでいる」と言える、と。

1「傍観者」vs フロムの言う「応答責任」
 フロムいわく。
「今日では責任感というと、たいていは『義務』、つまり外側から押しつけれられる何ものかとみなされている。しかし本当の意味での責任感とは、完全に自発的なものである。責任感とは、表明されたものであるにせよないにせよ、他の人間存在が抱く欲求へのわたしの応答である。誰かにたいして『責任がある』と感じることは、『応える』ことができ、その用意がある、という意味である」 。
 誰にも口をきいてもらえず、「1対全体」の孤独の刑に処せられている友達が「表明されたものであるにせよないにせよ」抱く欲求——孤独は僕の魂を殺し、生命力を脅かすという必死の——に対して「応える」ことができ、その用意があるとする、同じ生の欲求を生きる者としての「自発的」に湧き出る生命感情、これをいったい君はどれほど持ち、現に生きているのか?
 フロムの先の言葉はこの問いを直に君にぶつけてくるものである。

 なお、私はついでにたいてい次の補足説明をすることにしている。
 ——日本語の「責任」という漢字表記は、ここでフロムが言う「外側から押しつけれられる」・「義務」としての「責任」という観念のニュアンスが色濃い。君が君の外側(君が自発的に帰属している仲間=同胞関係ではなく、その外部や上部にある権力から)から授けられた「任」(義務)に照らして、その「任」を果たして遂行しているか否かを糾す(責める)といった観念連合が生む「責任」のイメージである。義務の与え方も外的であり、それに照らして自分を責める仕方も外的である。いいかえれば、ひたすらに権力的・強制的である。それは基本的に処罰と訴訟の論理のうえに展開する責任追及の関係性である。
 これに対して、欧米語の「責任」(たとえば英語のresponsibility、仏語のresponsabilité、独語のVerantwortung)は、フロムのいうとおり語源的には何よりも相手からの呼びかけ・訴え・問いかけに「応答 response」(独語antworten)しようとする自発的・内発的な感情が生み出す問い、「それに応答する能力(ability)が自分にあるんだろうか?」、「この応答能力としての応答責任(responsibility)を自分は発揮できるであろうか?」という自己の内なる良心から発する内的な責任を問う言葉として誕生した。

2「生命的自発性」を君の現在の生きざまはいったいどのくらい発揮しているの
  か?「生命的自発性」の回復は君の今の中心問題ではないのか?
 フロムの言う「応答責任」はあくまでも「自発的」なものであることが強調されていた。彼は「生命的自発性」の回復という課題が現代人が抱える問題の中心にあることをくりかえし強調した。彼によれば、人間には「生命的自発性」に満ち溢れた人間とそうでない人間とがいる。前者は、いわゆる「天然」タイプの人間であり、「自由な人間」という言葉を具体的に実感させてくれる人間といえる。後者は、いつもおどおどしていて、周りを気にし、自由ではなく、束縛され、自分の感情や欲望に確信をもっておらず、絶えず自分を咎め反省し「これではダメだ、俺はダメだ」とばかり言う人間、何をやりたいのかが自分ではっきりしていない人間、人間として影が薄い人間である。

 たとえばフロムはこう言っている。自分のいう「生命的自発性」というものが何を指すものかを知りたければ、自分のなかに湧き起る生き生きとした感情や感覚をひたすらに正直に真実に表現しようと夢中になっている「芸術家」や、そうした生命的感情に突き動かされて無邪気に遊んでいる「子供」を見ればよい。また普通のわれわれも、彼らほどには大胆かつ自由になりえないとしても、実はそれを生きた経験があるはずだと指摘し、こう言う。「一つの風景を新鮮に自発的に知覚するとき、ものを考えているうちに或る真理がひらめいてくるとき、型になまらない或る感覚的な快楽を感じるとき、また他人にたいして愛情が湧きでるとき、——このような瞬間に、われわれはみな、自発的活動とはどんなものであるかを知るであろう」と。そしてこう付け加えている。「それは同時に純粋な幸福な瞬間である」と 。

 私はフロムに倣ってこう言いたい。——人間が自己について感じる存在感の強度とその幸福感の輝度は「生命的自発性」の発揮の程度、それがもたらす「生命力」の自己感覚の強度によって規定される。すなわち、生命的自発性の発揮が存在の充実ということなのであり、存在充実はそれだけでかけがえのない幸福感(「純粋な幸福」)の享受、自己肯定感の獲得なのである。
 この観点からいうと、学生たちが寄せた幾多のレポートは、「イジメられはしないか」という恐怖に裏打ちされた極端なグループ同調志向の支配のなかで、今日の日本の学生の心のなかでフロムの強調する「生命的自発性」は、極端な自己抑制の下で委縮し衰弱しつつあることを物語っていると言わざるを得ない。

3 人間同士のあいだに真に深く熱度をもったCall & Response関係を再生する
 ためには、まさに「We are the world」にあるように「So lets start giving 
 だから与えることを始めよう」と呼びかけねばならない。極端なグループ同調
 志向の支配の下にある「イジメ・トラウマ大陸」にあって衰弱していくのは、
 この「与える」生命エネルギーの強さではないだろうか? 生命的自発性とは
 何よりもCallの孕む、この「与える」パワーではないだろうか?
 フロムいわく、
「与えるという行為のもっとも重要な領域は、物質の世界にではなく、人間相互間の領域にある。では、ここで人は他人に何を与えるのだろうか。自分自身の何かを、自分のいちばん大切なものを、自分の生命の何かを、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分のなかに息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づき生きているものの一切を与えるのだ。このように自分の生命の何かを与え、他人を豊かにし、他人の生命感を高めることによって、人は自分の生命感も高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、必ず他人のなかで何かを生き返らせ、その生き返ったものは自分にはねかえってくる。ほんとうの意味で与えれば、必ず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、互いに相手のなかで生き返ったものから得る喜びを分かちあうのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、互いのために生まれた生命に感謝するのだ」

4 精神的筋力は、自ら選択することをとおしてしか鍛えられない。
 欧米のリベラリズムの産みの親の一人、J・S・ミルいわく、
「知覚、判断、識別する感情、心的活動、さらに進んで道徳的選択に至る人間的諸機能は、自ら選択をおこなうことによってのみ練磨されるのである。何事かをなすにあたって、慣習であるがゆえに、これをなすという人は何らの選択をもおこなわない。・・・(略)・・・知的および道徳的諸能力は、筋肉の力と同様に、使用することによってのみ改善されるのである。・・・(略)・・・自分の生活の計画を(みずから選ばず)、世間または自分の属する世間の一部に選んでもらう者は、猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない。自分の計画を自ら選択する者こそ、彼のすべての能力を活用するのである」 。
「独自の欲望と衝動をもっている人物、すなわち、その欲望と衝動とが彼の独自の天性の表現であり、かつ、その独自の天性が独自の教養によって発達しまた修正されたものであるような人物こそ—性格をもっている人物と呼ばれうるのである」 。

 つまり、「世間」ならぬ「グループ」に「自分の生活の計画」を「選んでもらう者」は「猿のような模倣の能力以外にはいかなる能力をも必要としない」のであるから、彼らが「性格をもっている人物」、言葉の真の深い意味で「個人」となることはないのである。彼らの手にするのはいわゆる「キャラ」、一つのパターン化した・物まねできる・演じられた「役割」に過ぎず、そこには「独自の教養によって発達しまた修正された」ところの「彼の独自の天性の表現」なぞ何もない。真の意味での「性格」は、その個人が己の「独自な天性」が生む「生命的自発性」に基づき、それに最高の発揮を与えようと様々なことを「自ら選択をおこなうことによってのみ練磨される」のである。

5 中間社会への視点
 最後に私は次のことを学生たちにあらためて問題提起するつもりである。これも拙著『創造の生へ』で書いたことであるが、もう十年以上も前になるのだが、私は「社会」という言葉を聞いて、まず直感的に湧き出るイメージを調査したことがあった。
 一言でいえば、そこに共通して現れてくるイメージは、暗闇の奥の奥へとその姿が消えていってしまうわれわれには手も足も出ない不可視の権力が暗いドームとなってわれわれの上に覆いかぶさっているといったものであり、そこでは不安と恐怖の2文字こそが「社会」を象徴するキーワードであった。たとえば、
「社会というと、ただ広いばかりで途方もなく大きな怪物か何かのように感じる。そこには様々な思惑が複雑に絡み合っていて、一つの問題を解決しようにも、何から始めればいいやらわからない。・・・〔略〕・・・それほど、この社会の中には深く取り込まれているし、またつまはじきにされている気がしてならない」 。

 私はこの「社会」イメージを「カフカ的社会」と命名したうえで、そこへ「中間社会」という概念を導入し、さらにこう問題提起した。いわく、
「中間社会とは、個人としての私と或る一まとまりの大きさの全体的なシステムとしての《全体社会》との中間に位置し、私と全体社会とを媒介し仲立ちする日常的具体性に満ちたコミュニケーションを基礎に成立している小さな社会空間を指す。・・・〔略〕・・・この私と全体社会とを媒介し仲立ちする働きはその中間社会のあり方・構造によって否定的になったり肯定的になったりする。その否定度が増せば増すほど私にとって全体社会はカフカ的イメージのもとで現れるようになり、逆にその肯定度が増せば増すほど全体社会は私にとって自分の行動によってはっきりと作用を及ぼしうるものとしてイメージされ始め、手も足も出ないといったイメージは消え、掴みどころのある或る具体的な介入路を通じて自分がその変革や改良に作用しうる対象、自分が一人の行動者としてその具体的創造に参加しうる参加対象としてイメージされることとなる」 。

 つまり、問題とはこうだ。学生たちにとってこれまで彼らが生きてきた「中間社会」とはまさにこれまで私が「イジメ・トラウマ大陸」と呼んだ「クラス社会」であり「グループ社会」なのであり、そこでの彼らの経験の在りようについてはこれまで縷々述べたとおりのそれであった。だから、今日の彼らが「全体社会」に対して抱く、「カフカ的社会」イメージと、それに深く結びついた恐怖感と無力感はいっそう増大していることは間違いない。
 一言でいえば、日本の民主主義的エートスの衰弱と学生たちのスクールライフにおける「イジメ・トラウマ」問題は深部において明らかに深く結合しているに相違ないのである。(清眞人)