mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風5 ~教室にて3~

トラウマ大陸への視座

 前回・「教室にて2」に私はこう書いた。その後の精査に基づき一部数値を訂正(太字)してくりかえそう。
 学生たちのレポート「私のイジメ経験」(イジメられたにせよ、イジメたにせよ、傍観者となったにせよ、自分自身が経験ないしごく身近で見聞)総数388通の内、自己診断深刻度5と深刻度4の合計は39通。ここでいう深刻度5とは、「自殺を考えた、あるいはイジメてくる相手を殺したいと思った、それに準じる」というレベルのイジメ経験を指す。深刻度4とは、「長期不登校ないし転校を余儀なくされた」というレベルのイジメ経験を指す。深刻度3は「4ほどではないが、明らかにトラウマとなった」というレベルであり、148通。深刻度2は「イジメ経験はしたが、トラウマにまではならなかった」、174通。深刻度1は「イジメ経験をしないで済んだ、見聞もしなかった」であり、わずか27通

 そしてこう続けた。
 だから、明らかにトラウマ的質をもったイジメ経験を語るレポート数は——加害経験も傍観者経験も含んだ意味での——187通であり、総数の約48%である。つまり今日、この数値が日本の学生全体の平均値の近似値を表すとすれば、日本ではほぼ半数の学生がトラウマ的質をもつイジメ経験の持ち主である可能性が十分あるという仮説が成り立つ、と。

 今回はこの問題を考えたい。
 「イジメによるAの自殺!」、その報道に接して、われわれは「またも!」と思いつつも、あらためてその悲劇の個別性に、自殺に至るほどのかけがえのない一個の命の苦悶に目を見張らざるを得なくなる。
 しかし、私は学生たちのレポートを読みながらあらためてこうも思った。
 もし、頂点をなす自殺という出来事への注目喚起が裾野をなす事態への注目をそぐ結果となったのなら、自殺に追い詰められた彼らは死んでも死にきれまい、と。問題とは、いましがた述べた事態のことだ。今日、学生のほぼ半数がトラウマ的質をもつイジメ経験を抱え込んでいるという、いわばこの裾野的な事実。集団的な悲劇性。これから注意をそらす結果となるのであれば。

 この点で、ここでまず考えてみたいことは深刻度3の148通のレポートについてだ。一言でいうなら、深刻度3のレポートは深刻度4と5に陸続きにあるという問題についてだ。では、深刻度3と自己診断を記してあるこのレポート群から抜き書きしてみよう。

「休み時間になると、トイレに呼び出され、不良から殴られるのは日常茶飯事で、結構なアザまでできていた。A君は嫌な顔をせず、クラスで気丈に明るく振舞っていた。私をふくめクラス全員が大丈夫なのだと思ってしまった。だが、A君は高校生になって自殺してしまった。・・・〔略〕・・・今考えると、その気丈な振る舞いが警告だったかもしれない。先生も含めクラスで何もしてあげられなかったことが悔しい」。(下線、清)

 

「彼はいつも笑顔だった。『部活動が楽しい、学校が楽しい』と毎日のようにご両親に話をしていたらしい。しかし彼は自殺した。中学校を卒業してすぐのことだった。一生懸命頑張っても人と同じようにできないもどかしさ、障害があることへの周りからの風当たりの強さ、差別、それは私の想像を絶するものだったろう。私は彼の苦しみに気付いてあげることすら、助けてあげることすらできなかった。中学校を卒業して2年後、ご両親から連絡をいただき彼の自殺を知った。彼の両親は私に『あの子はいつもあなたのおかげで楽しいと言ってたよ。あの子のそばにいてくれてありがとう。それが私たちも、あの子にとっても唯一の救いだったよ。だからこれを聞いてあなたが気に病むことはないんだよ。本当にありがとう』と伝えてくれた。その出来事は私の心に深いキズを残した」。(下線、清)

 

「クラスの7割ぐらいが敵のようになっていた時があった。・・・〔略〕・・・授業中に教室を飛び出て屋上から飛び降りでもしてみようなんて考えてみたこともあるが、あの時ふと、そんなことをしても何も変わらないし、死んだぐらいで今の自分が回りに与える影響なんてたかが知れている。思われるのはせいぜい2週間くらいで忘れられるだけだと考えて自殺はしなかった」。(下線、清)

 

「教室でも部活でも一言も発せずに一日を終えることは珍しくなかった。・・・〔略〕・・・私のパーソナリティにトラウマ的記憶として大きなダメージを加えたのは、この中学の時のいじめ体験だったように思う。特に、口を開ければからかわれ笑われる、そこにいるだけで聞こえるように悪口を言われる、無視される、といったことは、私をひどく怯えさせた。どうしたらいじめられないのか、という自分自身への問いかけの末、私は『他人と関わらなければいじめられることはない』『何も話さなければ誰にも不快な思いをさせることはない』と気づき、それ以降その通りにしてきた。この答えが間違っていることは途中で気づいたからといってすぐに傷が癒えるわけではない。人と接するのが怖くてたまらない。その気持ちは、今でも自分の中に確かにある。・・・〔略〕・・・今こうしてレポートを書いていて、よくこの時期に自分が死を選ばなかったなと感心している。5年間にわたりいじめを受けて、助けられたと思ったことは一度もなかった。たった一人で暗夜の中、冷たい海の水に頭まで浸かっているような気持ちでただただ、その時を耐えていた。…〔略〕…裏切られたと感じたことは何度もあった。・・・〔略〕・・・奪われたものばかりだった。』」(下線、清)

 深刻度5の世界とかくの如く深刻度3の世界は陸続きなのだ。その境界線を引くことは無意味と思えるほどに、そうなのだ。*

*深刻度5の一通のなかにこうある。ほとんど同じ状況を語るものだが、「あのとき感じた身体の力が空気中へと分解していく感覚を、私は二度と忘れることはできない」と。そしてこの報告者はそれ以降の自分を「社会の関係性の束に絶えず埋め込まれながら、しかし、絶えず疎外されていくという循環運動をくりかえし続ける存在」となってしまったと語り、「見る私と見られる私の間に存在する中動態の私」と自分を名づけ、そのような在り方しか取ることができなくなったことが「関係性の崩壊した世界の正体」を示すのではないかと述べている。また別な一通は、いわばこうした孤独の刑に処せられたとき、「私はあの時一度死んだのではないかと思う。私が死んで、その代わりに私の中でいじめが生き続け、ゾンビのように惰性で今日まで存在している」と語っている。ここでは、深刻度5と4のレポートから引用することはこれでやめにするが、右の引用にもよく示されるように、くりかえしになるが、深刻度5.4.3は陸続きになっている一つの大陸を形成しているのである。

 殺人へ至る憎悪の発作に苦しむ、この点でも。たとえばこうある。

「私はその後考えて、助かったのが、親にそのことを打ち明け(Iが音頭取りになって起きた、自分に対する班全体からのイジメ——清)Iを殺すか死にたいととても中学生には言えないせりふだが、しっかりと主張したことである」。(下線、清)

 

「たまりにたまった何かが溢れ怒りで人を殺したいと思うのはこういう感情なんだとわかった。私は涙を流しながら家に帰った。それから一週間ほどは鞄のサイドポケットにタオルに包んだ果物ナイフを入れていた」。(下線、清)


「今でも中学校のバスケ部でいじめられる夢は頻繁に見るし、ふと思い出しては、殺すことばかり考えてしまう時もあるが、深刻度3が妥当であろう。今でもバスケットボールという文字、バスケットボールを見るだけであの頃の記憶が甦る」。(下線、清)

 自殺や殺人には至らず、長期不登校や転向にも至らなかったとしても、その経験がトラウマとなったということが如何なる心の事態を指すのか、私たちはそれを語る幾多の言葉をとおして噛みしめるべきだろう。この広大たる裾野をなす事態について。
 先の一通にこうあった。「人と接するのが怖くてたまらない」。
 どの証言にもこの苦悩が記される。「裏切られた」苦痛の身を切る鋭さとともに。

「イジメは私の心を殺し、私自身を臆病にし、弱くした。自分と同じ人間を怖いと思ってしまう感覚や得体のしれない恐怖は経験した者にしか分からない・・・〔略〕・・・あの頃の学校はとにかく地獄だったが、今ではこうして過去のこととして語れるまでになった。時間が解決してくれるものは実に多いが、心の奥底には当時の苦しみが未だにはっきりと残っている。私はいつになれば解放されるのだろうか」。(下線、清)


「大人になるにつれて自分が対人関係への恐怖を持っているとふと思うことがあります。人との距離感、そして見られ方をとても考えるようになりました。どのコミュニティでも無意識に嫌われないように気を張って生活しています。いじめという経験だけがこうさせた理由の全てではなく、成長して大人になったからだと思いますが、間違いなく一つのきっかけとなる経験だったと思います」。(下線、清)


「・・・〔略〕・・・それから私は人に本音で接するのが怖くなってしまった。また嫌われて、避けられてしまうのではないかと考えてしまうと本音で人と接することができない。気が付くと私は周りに合わせてばかりの人間になってしまっていた。中学校でも高校でも友達に本音で接することができず、うわべばかりの友達を作ることしかできなかった。大学生になり、新しくできた友達にも本音で接することができない私に、ある友達が『・・・〔略〕・・・人に合わせてばかりで、自分がなくて面白くない』と言った。その子の言うことが本当に当たっていて私は悲しくなった」。(下線、清)


「トラウマが拭えきれずにおり、苦手というか、女に対して恐怖を抱くことさえいまだにある。どこかで他人に期待しなくなったし、人は周りの調子ですぐに裏切る生き物であるから自分を深くまで絶対にさらさないことにしている。イタい人間と人はいうかもしれないが、こればかりはこの中1の経験則上しみついて離れない思考と化してしまっている」。(下線、清)

ついでにいえば、相手が女性にせよ男性にせよ、異性から加えられたイジメの恐怖と屈辱で異性に恐怖を覚えるようになったというレポートはほかに二通あった。

 トラウマは加害の経験においても成立する。被害の経験においてばかりではない。自分は償い得ない罪を犯した罪人であり、共犯者であり、共犯者となることを拒絶できなかった卑怯者だという烙印が、心の額に押される。早くも十代の入り口で、あの子供の《生命》が象徴していたはずの、晴れやかな朗らかな無邪気な自己肯定から彼らは追放される。
「当時は、これがイジメだと自覚できなかった。相手の立場になって物事を考えることができなかった。これがいけないことだと気づいたのはもう少し後になってだ・・・〔略〕・・・後悔してもしきれず、誰にも相談することができなかった。何度も直接謝ろうとしたが あの時人の目を気にせず謝れたら、少しは相手も私も人生が変わっていたのではないかと考えてしまう。・・・〔略〕・・・数年前、よく地元最寄り駅で彼を見つけた。彼はスーツを着ていた。・・・〔略〕・・・その姿を見るたびに、なぜかほっとしている自分がいた。・・・〔略〕・・・しかし、どこか表情が冴えなかったのが気がかりである。彼から明るい表情を奪ってしまったのではないかと考えてしまう。・・・〔略〕・・・胸が苦しくなる。・・・〔略〕・・・悔やんでも悔やみきれない過去である。今でも謝る機会があるならば、面と向かって謝りたい。そう強く思う。これが私のイジメ経験である」。

 既に前回述べたことだが、私のいわば「イジメ」定義はこうだ。
——イジメは、児童期(小学五年から中学三年まで)に誕生し、大多数のコミュニティメンバーの「傍観者」=共犯者化という必須の媒介項を得て、はじめて自分をイジメられる者とイジメる者とのイジメ関係性として樹立する。今日のイジメ関係性の基本構造は、イジメられる者からコミュニティーへの一切の参加の絆を剥奪する、《一対全体》の形をとった極端な異者排除の攻撃性からなる。そして、「傍観者」=共犯者化はそうしなければ次は自分が標的とされるという内部恐怖によって駆動される。
 私見によれば、この「児童期に誕生」という問題にはイジメ問題についてまわる次の四つの問題が貼りつくこととなる。

 第1の問題は、いわゆる「イジる」と「イジメ」との境界、悪ふざけの遊戯性と相手を自殺に追いつめるほどの行為の攻撃的な犯罪性との境界、これが当初はきわめて曖昧で自覚されないことだ。
 「小学5~6年生のとき、私はイジメに加担した。集団イジメである。当時はイジメという感覚は全くなかったが、振り返ってみるとそれは間違いなくイジメだった。・・・〔略〕・・・彼女は不登校になった。担任の先生は『こころのやまい』だと話していた。・・・〔略〕・・・自分は心臓が悪いのかと思った。・・・〔略〕・・・卒業まで彼女は学校に来ることはなかった。『イジメだった』と気づいたのはまさに『今』なのだ。今回の講義で十年の月日を経て、ようやく気付いた。後悔という言葉では言い表せないぐらいの心の詰まりを感じている。一番の問題は誰一人として『イジメ』だと判断していないかったことだ。おそらく、現在のクラスメイトたちは過去に『イジメ』を執行したという事実を『知らない』。『忘れている』のではなく『知らない』のだ。なぜなら、『イジメ』だと思って振舞っていたわけではないからだ。実際に私は今日までそのことに気付けなかった」。(下線、清)

 第2に、異者排除の攻撃性がもはや明確になった時点でも、その《一対全体》の構造によって排除者たちは己の排除行為に対する責任意識を絶えまなく曖昧化し他者に転嫁できることだ。確かに私は傍観者であったかもしれないが、主犯者でないことは確かだ、と。
 これは深刻度2との自己評価が付いたレポートであるが、そこには次の指摘がある。
 「今の自分が思うことは、小学校低学年のときであって一人一人の意志が弱く、みんな周りに合わせてしまい、集団であるといった安心できる立場に落ち着いてしまっていたのである。そうしたことから、些細な出来事から集団という媒体により、一人一人がいじめる側の一員となってしまったのである。今になって反省することは遅すぎるということを改めて痛感した」。(下線、清)

 なお、ここで急いで指摘しておきたい。
 深刻度2は前述のとおり「イジメ経験はしたが、トラウマにまではならなかった」が線引きの基準である。私はここで次のことを強調しておきたい。そこに語られる「イジメ経験」は深刻度5・4・3が語るイジメ経験そのままであることを。つまり端的にいえば、昨日まで信頼に満ちていたはずの友達に裏切られる経験と、昨日までの友を自分が標的にならないためには裏切るほかなかったという経験とに媒介されて成立する、《一対全体》の形をとった極端な異者排除の攻撃性からなるイジメ経験、まさにこれだということを。
 そこには何も変わりがない。深刻度2のレポート数は174通だから、それが計361通、全レポート388通の93%を占めるイジメ経験の大陸なのである。

 しかも深刻度2のレポートにおいても確かにそこではその経験はとりあえず自分にとっては「トラウマとなった」とまではカウントされないと一応表記されてはいる。だが丁寧に読めば、いくつものレポートが境界線上で揺れていることがわかる。たとえば、次の証言が深刻度3にカウントされなかったのは次の事情による。すなわち、たまたまその後「席替えで隣になったクラスの子」との会話が始まり、それが積み重ねられ、ある時気づくと彼が孤独の地獄から救い出されていたことに。だがもしこの僥倖がなければ、彼の証言は確実に深刻度3と表記されたにちがいない。実はこうして深刻度3と2との間にも先に5・4と3との間について述べたことがそのまま言われねばならないのだ。両者もまた「陸続きにある」と。
 「私は、これまで仲良くしていた子がこれほど態度を変え、私の存在を遠ざけるようになったことにひどく傷ついた。これまでの関係が一気に崩れ去った感じがして、これまでのその子たちとの思い出のすべて嘘の物のように思えた。もちろん楽しかった学校はただの苦痛の場所になり、教室でも虚無感と孤独を感じる時間ばかりが流れた」。

 議論を戻す。
 前述の第2点に、しかし、急いで次の第3点がつけくわえられねばならない。すなわち、その自己弁護論理の欺瞞性は実は各自によって既に自覚されてもいるという両義性、これが見逃されてはならない、と。止めに入れば次の標的は私になるから、私は傍観者であるほかなかったとの鋭い隠された暗黙の意識の介在、それが生む《傍観者とは実は共犯者にほかならない》との良心の呵責、罪の意識。
 実に深刻度2のレポート群はこの「自分は傍観者であった」という自己懺悔に満ち満ちているのだ。深刻度3に至るほどのトラウマを蒙らずに済んだのは、「傍観者」になることによって辛うじて「一対全体」の残酷な孤独の刑を受けずに済んだからなのであり、大部分の証言はそれを自認し、罪の意識に黒ずんでもいるのだ。

 そして第4に、これはいわゆる「スクールカースト」の関係性の成立に深くかかわることだが、「児童期」はほんのちょっとした肉体的な、体力的な、あるいはまた気性上の優劣や強弱の差異が大人の想像を超えた差異として働き、支配と服従の力関係を産みだしてしまうという問題だ。これも深刻度2のレポート群からのものだが、次の指摘を引いておこう。
 レポートは言う。「学校側がいじめを認識できるはずがないと私は思います」と。そしてこう続ける。
「なぜなら、いじめは仲の良くない人間関係から生まれてくるより、友達グループの中から生まれてくることが多いからだと思います。そもそも仲が良くなかったら、遊びもしないし、一緒に帰ったりしません。ただそれだけの関係で終わります。では、なぜ友達グループの中からのほうがいじめが起きやすいのか、それは一定の仲がいいグループができるとその中からリーダー格の人間がでてきます。リーダー格の人間ができると、その反対に下っ端の人間もできます。その下っ端の人間はパシリにさせられたり、おごらされたりして、それが段々とエスカレートしていき、いじめが起きます」。(下線、清)

 この認識は卓見である。グループは権力を産み、産まれた権力は必ず自己増殖のサイクルを開始する。権力は下っ端を産み、下っ端は権力を産むという相互作用が開始される。
 政治学の基本テーゼの雛型は既にして児童期の政治学のなかに育まれている!
 あらためて私たちは気づく。児童期とはあらゆる雛型の体験期であることに!
 そしてこの位階制は必ず脅迫の位階制である。何故ならそれは権力という位階制だからだ。お前が、少なくとも傍観者、さらにいえば実質的共犯者の役を負わないなら、つまり反逆をするなら、次の標的はお前だ! 
 先の鋭利な指摘はこう続く。だが、「親や学校側はそのことを知らず仲が良い友達だと思い、いじめを認識できないのです」と。
 かくて、「傍観者であった」との告白に満ちている深刻度2のレポート群は、グループのなかに必ず生まれる「リーダ格」・「権力ある子」にはほとんど逆らうことができないという己の「無力さ」の証言に溢れかえる。(もっとも、昨日まで位階制の頂点にいたはずの子が今日突然下っ端であったはずの全員から無視の懲罰を受ける、いわばクー・デタ的逆転劇が起きるということ、このこともまたこの児童期グループ・ドラマの特徴である。今回二通がそれを報告していた)。

 イジメは、これら4つの要素の絶えまない絡み合いのなかで己を成長させてゆく児童期特有の暴力の関係性なのだ。くりかえす。それは全レポートの93%を占めるトラウマ大陸の現存を証言する。自殺という頂点は広大な裾野を指し示す。児童期を構成する大陸と呼ぶのがふさわしい、それを。既にして、それは大人が生きる暴力と罪、裏切りと無力、自己嫌悪と他者憎悪の暗黒大陸の雛型である。
 驚くべき現状である。(清眞人)