mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

8月15日

 あの戦争が終わって67年目。私はあの時小学校4年生だった。12時という予告があった「玉音放送」をラジオのある近所の友だちの家に集まって聞いた。何を言っているか私には聞き取れなかったが、終わって大人たちは口をそろえて「戦争が終わったらしい」と言っていた。午前中、山に松の根掘り(「松根油」をつくると言われた)に行き、汗みどろになってもどってきた母は午後は家の中にこもった。

 空は、ヒロシマの日・ナガサキの日と同じで雲ひとつなくどこまでも青かった。今になるも道端でムクゲの花を目にすると、隣家のムクゲの垣の花、そして、この日の様子が浮かんでくる。

 60戸ほどの小さな部落に戦死者のお骨が帰りつづけていたが、戦争が終わったあと、生きて帰ってくる人はほとんどいなかった。戦地の父からは年が越えても何の便りもなかった。突然、霞ヶ浦病院にいるので迎えに来るようにと連絡が入ったのは4月になってから。父はトラック島にいてアメーバ赤痢にかかっていた。一時復職するも私が中学2年の時再発し亡くなった。

 10年ぐらい前に、「教育文化」誌に、「戦争って何なんだろう -『父の手紙』をめぐって考える」を短期間書いたことがあった。それをまとめて主に教え子たちに送ったとき、できれば目を通していただきたくHさんにも届けた。するとHさんから「窪田精の『トラック島日誌』を読んでみたら」との薦めがあり、古本屋を探して読むことができた。

 この本を読んでいれば、私の書いたものもずいぶん変わっていたろうし、病気の父が帰ってきたのは奇跡かもしれない、もしかすると病気になったことで奇跡が起きたのかもしれないと思った。窪田は「あとがき」のなかで次のようなことを書いている。

   私は戦争中、反戦的な活動に参加したということで逮捕され、1940年9月から1945年10月まで、満19歳から24歳までの5年間を、獄中で過ごした。そのうち1942年3月以後の3年8カ月を、南洋トラック島の囚人部隊―外役作業隊に送られ、一種の流刑囚としてすごしている。<中略>トラック島に送られた囚人部隊の数は、一時は1500名をこえていた。1945年のはじめごろには500名ほど残っていたが、敗戦前の数カ月のあいだに、その多くは無惨な死にかたをした。生還できたものは、わずか数十名だった。このほかトラック島では、約8000名の陸海軍兵が死んでいる。そのほとんどが餓死だった。

   私はトラック島で、生きながら人間の地獄をみた。戦争というものの実態を、まざまざとみた。私はもしも生きて日本に帰ることができたならば、この島でみたものを、なんとかして書き残したい。それが死んでいったものたちにたいしての、生き残った自分の義務である。そのために文章を書くことを初歩から勉強し、これからの一生をそのためについやしても悔いはない。私は島にいたときに、そう思った。私が文学への志向に情熱をもやすようになったのは、そのころからである・・・

私は、この本を読むことで、トラック島での父たちの餓死との闘い・病気との闘いを想像し、血迷った日本がいたるところで繰り広げたあまりに愚かな戦争に想いを広げ、いたたまれない気持ちになったのだった。