mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

7月31日

 第61回東北民教研の集会が8月10日~12日まで作並温泉で開かれる。第1回は1952年、仙台市連坊小路小学校会場。長い歴史だ。この開催に尽力した宮崎典男さん・芳賀直義さんはもういない。

 今回の日程が金・土・日の曜日優先で決められているのも歴史の動きといえそうだ。かつて東北の運営委員会で、山形の代表・田中新治さんが、「8月7・8・9は東北民教研のケンポーだ。どんな理由があるにしても動かしてはいかん」と大声で力説したことがあったが、今は、田中さんの言った「ケンポー」以上のものがあるらしく夏休み中たりとも土日を入れないと参加に難しい人が増えているらしい。世の中はつねに動いているにしても、教師の夏休みもずいぶん厳しくなっていると思う。身銭を切っての研究会出席もままならないのだ。

 私が初めて地元集会の事務局の手伝いをしたのは1970年の第19回の鳴子集会。教育科学研究会の全国集会との合同集会で参加者数は2500人。鳴子の町は参加者であふれていた。私の出た国語分科会は約400人で大広間は熱気のさめることのない3日間だった。

 1970年と言えば、集会の直前の7月16日、東京地裁が、第2次教科書訴訟第1審で、国家の教育権を否定し、国民の教育権(教育の自由)を裁判史上はじめて認めた。世に言う杉本判決である。鳴子集会はその直後。会の盛り上がりは参加者の数を超えるものだった。これも「今は昔のものがたり」ということになるのだろう。

 私自身は、年をかさねるにつれて参加に消極的になってきている。自分の話をどう聞かれるかを考えて臆病になってきているのだ。若い人たちに水をさすようなことをしてはならないと・・・。

 「今度の戦争でたくさんの青年たちを死なせたのも、一つには自分たち年輩の者が臆病で、言わねばならぬことを言うべきときに言わずにいたせいだ」と岩波茂雄が終戦直後、よく言っていたと吉野源三郎が書いていた。

 臆病にならず自分も作並に足を運ぼうと思っている。