mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより31 オカトラノオ

草原にゆれる銀河 夏を告げる白い花

 森や野原は、花の季節から緑の季節へと進んでいます。木々の緑は濃くなり、梅雨の時期は一層鮮やかです。梅雨あけの夏は、花を咲かせる野草の数が少なくなるのですが、その時期に咲き出すのが白い花穂のオカトラノオです。
 オカトラノオは、日当たりのいい山地や草地などでほぼ同じ方向を向いて咲いています。花穂には一つ一つの小さな星型の花が集まっていて、野原一面に咲く姿は、さながら夏の銀河といったところでしょうか。

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       夏を知らせる オカトラノオの花

  オカトラノオサクラソウ科の多年草。北海道から九州の、丘陵の日当たりの良い草地に生えています。サクラソウの仲間といっても、外見上はまったく似ていないのですが、花のつくりがサクラソウと共通しているのです。
 オカトラノオは、白いつぼみが根元の方から先端に向けて咲き上がるように開花します。つぼみの頃も美しく、そのつぼみが下からしだいに咲き続き、白い花穂がふくらんでいく様子は毎日見ていても飽きることがありません。

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   花穂の先端のつぼみ

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 花は、花穂の根元から上へと咲き続きます。

 オカトラノオは「丘虎の尾」と書きます。花穂の姿が「虎の尾」に似ているのがその名の由来といわれていますが、花穂は「猫の尾」ほどの大きさなのに、「虎の尾」とはどうしたことでしょう。湯浅浩史・文「花おりおり」(朝日新聞社)には、その「仰々しい名は江戸時代の遊び心から。橘保国の『画本野山草』(1755年)に白虎尾草の名で正確な図が載る。」とありました。
 先日の「ダーウィンが来た」(NHK総合)で、ビッグキャットと呼ばれる大型猫科の特集番組があって、そこに登場した野生の虎を見て驚きました。優美な曲線を描いて下がり、先端でちょっと立ち上がるオカトラノオの花穂は、虎の尾によく似ていたのです。花穂には気品や風格も感じられ、これは「猫の尾」ではなく、やはり「虎の尾」がふさわしいのではと思ったのです。トラノオ(虎の尾)と名づけた人も、あながち遊び心でないものを、この花に感じていたのではないでしょうか。

 オカトラノオのオカ(丘)は、同じサクラソウ科の仲間で湿地に生育するヌマトラノオと区別するためのものです。このトラノオという名は、そのまま受け入れられて、他の花の名前にもついています。身近に見られる花は、夏から秋にかけてピンクの花を咲かせるハナトラノオ(シソ科)です。他にもシソ科のミズトラノオ(シソ科)、ハルトラノオタデ科)、ヤマトラノオゴマノハグサ科)など、種類も多くあるので、名前を正しく呼ばないと区別がつかなくなります。

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   優しいピンクの花穂のハナトラノオ。夏から秋にかけて見られます。

 トラノオがついた野草の中で、美しい曲線の花穂を見せてくれるオカトラノオですが、花穂につく小さな花もよく整っていてきれいです。小さな花びらの直径は1cmくらい。花びらが5枚あるように見えますが、よく見ると根元でひとつになっている合弁花でした。
 深く5つに裂けた花びらには、それぞれ雄しべが1本ずつ向き合うようについています。多くの植物は、雄しべが花びらとが互い違いになって互生していることが多いのですが、オカトラノオは、花びらと雄しべが同じ位置に並んで対生しています。これがサクラソウ科の植物の特徴の1つなのです。

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  オカトラノオの星型の花     花びらと雄しべが対生しています。

 「虎」と言う動物は群れを形成しませんが、植物のオカトラノオは群生していることが多いようです。細長い地下茎が地下に多数あり、これを伸ばして増えます。明るい日かげを好み、やや湿り気のある開けた草原では見事な群生を見ることができます。 

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         草原で群落をつくるオカトラノオ

 オカトラノオが地上に芽を出し始めるのは5月頃。乾燥が続いた固い地面でも突き破って出てきます。まっすぐに茎を伸ばし、60cmから1mほどになると花穂をつけますが、他の春の花が咲き続く間はじっくり背丈を伸ばし、他の花の少ない時期を選んで花を咲かせます。小さな花をたくさんつけて花穂の根元から順番に咲かせることで花期を長くし、群れて咲くことで遠くからでも目立つようにして虫たちを誘うなど、オカトラノオならではの生き方をそこに見ることができます。実際に咲いている花穂のまわりには、いつも多くの虫たちが吸蜜に訪れていました。

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           オカトラノオの花に訪れるチョウたち

 花期が終わると、果実を成熟させる期間が続きます。果実は直径3mmほど、花柱が残ったままの姿でどれも上を向き、褐色に熟すと5裂して種子を散布して仲間を増やします。秋の深まりと共に、オカトラノオの葉は黄色や紅色に色づき、草紅葉となって、秋の湿原を彩ります。冬になると、地上部はすべて枯れて姿を消してしまいます。

 ある夏の日のこと。丘陵地のオカトラノオの群落が続く草原を散策していたときでした。急に風向きが変わり、晴れていた空が暗くなり、激しい雷雨となりました。あわててモミの林に飛び込み大木の下でしばらく雨宿り。激しい雨で白い花穂は波打つようにゆれていました。

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         夕立や虎の尾怒る河の渦  幸田露伴

 しばらくして雨が上がると、草原は再び明るく輝き出しました。純白の花穂が雨の雫をまとって光り、頬をなでる涼風が青葉の香りを運んできます。刻々と変化する自然の中にいると、体中の細胞が目覚め、感覚も鋭敏になってくるようでした。自然界に満ちた生きるエネルギーのようなものも伝わってきます。
 樹木や草花のいのちと同じように、人間のいのちも自然と深くつながりあっているのでしょう。人間がどんなに快適な環境にいたとしても、自然という源泉から離れて生きることはできないように、そのとき感じたのでした。(千)

◆昨年7月「季節のたより」紹介の草花

mkbkc.hatenablog.com

名なしのごんべい

 先週、ある方から「仁さん、所長やめたの?」「体調とか悪いの?」と聞かれ、どういうことなのだろうと不思議に思ったので話を聞くと、今年度の『宮城県教育関係職員録』の研究センターの欄に、仁さんの名前がないので心配したとのこと。そんなことになっているとはついぞ知りませんでした。一緒に仕事をしているのにまったく知らないでいたとは、お恥ずかしいかぎりです。
 その後も同様の問い合わせがあったので、この場を借りてお知らせしますが、名簿には名前が記載されておりませんが、研究センターで変わらず所長としての仕事をしておりますので、ご安心ください。

ところで、谷川俊太郎さんの次の詩をご存知ですか。

 名を除いても
 人間は残る
 人間を除いても
 思想は残る
 思想を除いても
 盲目のいのちは残る
 いのちは死ぬのをいやがって
 いのちはわけの分からぬことをわめき
 いのちは決して除かれることはない
 いのちの名はただひとつ
 名なしのごんべえ

 この詩は、谷川俊太郎さんが1962年1月から翌63年12月までの2年間、『週刊朝日』の「焦点」欄に執筆したものの一つで、のちに詩集『落首九十九』に収められたものです。詩のタイトルは「除名」です。『現代の詩人9 谷川俊太郎』によると、この詩は1962年に日本共産党新日本文学所属の多数の文学者を除名処分にしたことに着想を得て、書かれたもののようです。

 谷川さんの詩は、タイトルが示すように組織の論理による排除の思想と言えるものをテーマにしたのでしょう。名を除くということは、組織の構成員としては認めないということを意味します。詩は、そういう組織の論理によって個人を切り捨てる思想や精神に対するある種の抵抗、批判を示しているように思います。名簿に名前が記載されてないということが、この詩を想起させたのでしょう。

 「名前」と聞いて、研究センター的にぴん!とすぐ頭に浮かんでくるのは、あまんきみこさんの『名前を見てちょうだい』です。東京書籍の小学2年生の国語教材で、研究センターでは「こくご講座」などで取り上げてきました。ちなみにまだ企画段階ですが、今年の夏の「こくご講座」でも改めて取り上げるつもりです。

 そんなこともあって、名前について書かれている本を探すなかで見つけた1冊に、山中康裕さんの『ハリーと千尋世代の子どもたち』があります。本の内容は、タイトルからもわかるように「ハリー・ポッター」と「千と千尋の神隠し」をもとにしながら、子どもたちの心を読み解くというものですが、そのなかで、主人公の千尋が湯婆婆に名前を奪われるという場面を中心に、次のようなことが書かれています。

 名前を奪われるというのは、どういうことかと言うと、自分が自分でなくなってしまうということ。名を奪う第一の意味は支配の道具であるということ。自分でありえない、そこで自分を主張してはいけない、自分を主張することを許されていない、ということになるわけですよ。自分であってはいけないぞということ。名前を奪うぞということは、「お前はお前であってはあかんのや」という人格の否定です。そして第二に「こっちの言うことを聞け」という、明らかに支配ですよ。徹底的に支配という事態が遂行される時に名を奪う。
 日本の歴史の中で、非常に恥ずべき歴史であると同時に、忘れてはならないことの一つに、朝鮮半島から連行された人や、もともと日本に住んでいた半島の方々の名前を奪って、日本名を付けさせるという事態がありました。あれなんか、まったくその通りでしょう。~( 中略 )~
 第二に、実はその支配そのものよりも、前に来るんだけれど、さっき、すでに触れていますが、「自分が自分であること」というのをなくせということ。「お前はお前じゃいかんのだ」と、それは支配より前なのです。支配は、そのあとから来る関係性の問題ですから。「お前はお前であってはいかんのだ。お前がお前を主張した途端に、お前はここで消えてなくなるようにするぞ」と。

 名前を奪う・消すということにこんな歴史的なことも含む大きな意味があるとは・・・深いですね。

 ところで一つ疑問が! こんなに大切な名前なのに、その名前は自分でつけるわけではありませんよね。通常は、親や近親者などがつけるわけですよね。そう言えば、ずいぶん前になるでしょうか、親が子どもの名前に「悪魔」と付ける付けないで、テレビのワイドショーなどでずいぶん取り上げられたことがありましたよね。すでに私の妄想竹(妄想だけ)がにょきにょきと伸び出しているのですが。
 そんなことも含めて名前を考えると・・・、人間はこの世に誕生するとともに、この世に生きることを認めるという意味での親からのある種の「支配」「暴力」、あるいは「傷」「痕跡」としての名前を与えられるということになるでしょうか。そしてほとんどの人間は、その与えられた名前をある段階で自ら引き受けなおすことによって、その名前を生きるということになるのかも・・・。

 さてさて、ずいぶんと話が暴走してきましたが、名前を奪う・消去するということが、その人の存在の否定を意味するということと関わって、同様のもう一つの現象があることに気づかされます。それが、いじめです。いじめの行為の一つに「無視」がありますが、それはまさに仲間がそこに存在しているにもかかわらず、いないものとして扱う(無視する)ことで、その存在を否定する行為です。無視された人は、肉体的な暴力を受けると同等の、いや時にはそれ以上の痛みを心に感じるものです。そこに居るのに居ない扱いをする、これほど卑劣で破廉恥なことはありません。
(清さんの「西からの風13 ~私の遊歩手帖5~」のなかでも、沖縄の「平和の礎」に名前をどう明記するかということのなかに深い思想と道徳性が宿っていることが言及されています。ぜひお読みください。)

 名前から始まった話が、どんどんと思わぬ方向に展開していってしまいました。ここらで今日は終わりにしますが、名前の扱い一つに、その人の知性と良識が見えてくるとは・・・、怖いですね。みなさん自分の名前、そして周りの人の名前を大切にしましょうね。(キヨ)

西からの風13 ~私の遊歩手帖5~

 沖縄を歩く 1 

 6月23日、沖縄は「慰霊の日」を迎える。この日、日本国内で日米両軍が相まみえた唯一の地上戦であった沖縄戦、その3ヵ月を超える組織的戦闘が遂に終結した。僕はこの日糸満市のかの摩文仁の丘にある県立平和祈念公園で開催された慰霊式への参加を挟み、二人の友人と連れ立って20日から25日まで沖縄戦の中部及び南部戦跡――特に「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞の石窟をにわか仕立てのトーチカにして日本軍が戦った――を訪ね歩き、また広大な普天間米軍基地を「青丘の塔」のある嘉数高台に立って一望し、24日には本部港に近い塩川漁港にて、辺野古の新基地建設予定地のゲート前でほとんど毎日のように繰り返されている埋め立て土砂運搬トラックの入構阻止の40人前後のピケに参加した(そのほとんどが70歳前後の老人男女である)。前半は「沖縄平和ネットワーク」の担い手である事務局長川満昭広さんが、後半は「沖縄平和市民連絡会」の共同代表の一人である真喜志好一さんが僕たちを案内してくれた。

 この2年間、僕は高橋和巳の文学について考え続けている。今回の旅の往復の飛行機のなかで初めて中編『堕落』を読んだ。その第1章の2に次のくだりが出て来る。「不意に足もとからすべてが崩れる恐怖」、そこへの「墜落」の恐怖、実はそれを隠し持ち、常にその恐怖を生きているのが自分という人間なのだ、という主人公の告白が。同書の「あとがき」で高橋はこう書く。「たとえ意識の表層からその姿を消しても、より深い奥底から絶えず怨念の呟きを投げかけるのが、体験であり認識であって…〔略〕…そうした呟きのあることが、その個人がなお人間であり、人間的でありうることの証左である」と。僕はガマを訪ね、すぐこのくだりを思い出した。

 彼の小説を読むと、その各々の主人公は必ずといってよいほど、このような己の無意識の底に疼く「怨念の呟き」への墜落を恐怖し、そこから次の自己分裂へと突き進む人物であることがわかる。一方において彼は、その「怨念」が世界破壊と自己破壊が串刺しとなった暗き二重化した破壊衝動へと突き進まんとする溶岩的自分(今風にいえば「拡大自殺」的自己)を認め恐怖する。しかし他方、その「体験」・「認識」のなかにも――ここで『憂鬱なる党派』での表現を借りれば――「泥沼の中に咲くただひとつの蓮の花」と形容すべき或る幾人かの人間との奇跡のような「交情」と「共苦」の経験があることにも気づき、それを固守しそこへと自分を必死に繋留することで、彼は辛くもくだんの破壊衝動の激流から身を守る。そのときくだんの「蓮の花」たる経験は彼のなかで「思想の花」へと変じ成長しだすのだ。あるいは逆に彼はそれを仕損ね自壊するのだ。

 『堕落』はこの葛藤の経緯を、主人公青木がかつて青年時代に生きた最後は地獄図と成り果てる満州経験に即して描く。それを、『憂鬱なる党派』は主人公西村の広島被爆経験に、『捨子物語』は主人公国雄の大阪大空襲経験に即して描く。かかる物語の舞台に次は沖縄を選び出す機会、それは39歳で癌死した高橋にはもはやなかった。
 しかし、今回の沖縄の旅を通して僕は確信した。もし彼がもっと生きることができたならば、被差別の苦痛と怨念をいやというほど見聞した大阪西成釜ヶ崎育ちの彼ならば、また大阪は、在日・部落・釜ヶ崎と並んで沖縄・奄美出身者のそれをよく知る稀有な都市なのだから(大阪生野区の区民の4分の1は沖縄出身者)、彼は沖縄を物語の或る決定的な重要場面に引き入れる小説を書いたに違いない、と。

 川満さんは僕に教えてくれた。「ひめゆり平和祈念資料館」は1989年に開設されたが、2004年4月に「全面的な展示改装」をおこない「平和への広場」を増築するに至る。この改装には決定的な切っ掛けがあった、と。それは、あの「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんたちが意を決して、口を固く結んで墓場まで持っていくはずの「ひめゆり学徒隊」を襲った惨劇のありのままの真実、それを公表することに踏み切ったことである。その「真実」は彼女たちの心的外傷=罪意識に直に関わるそれであった。しかし彼女たちは、今それを自分たちが打ち明けなかったなら、それは永遠に闇に葬られることになることを強く想い、公表し後世に伝えることこそ死せる仲間が自分に託した唯一の願いであり、かつまた彼らへの自分たちの最大の責務であると思い立ち、まず互いに打ち明けあうことを始める。その互いの行為によって、彼女たちはこれまでついぞ手にできなかった癒しと罪意識からの救済に到達する。心底に隠し持つ孤独からの救済を互いの手によって果たす。この経験、これが前述の「決定的な切っ掛け」だというのだ。そして、祈念資料館の第4展示室「鎮魂」にはその生々しい眼を覆いたくなるありのままの証言が大型の頁仕様のパネルに印刷されて展示され、閲覧者はそれをめくりながら読める工夫がなされるに至った。

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             沖縄平和祈念資料館の展示写真

 この展示方式は145編もの証言を展示する「沖縄県平和祈念資料館」でも採用されたそれであった。同資料館の出版する『体験者が語る 平和への証言』の「発刊にあたって」にこうある。「多くの体験者の方々は『戦争のことは話したくない』『戦争のことはいくら話しても尽きることがない』などと話していることからしても、その悲惨さは筆舌に尽くせないものだと思われます。戦後60年を過ぎた現在、戦争の悲惨さや教訓を後世へ伝えるためには、体験者の証言は大変貴重であり、私たちは、この体験談をより多く記録して後世へ継承していくことが大切であると考えます」と。川満さんによれば沖縄でのかかる資料館や祈念館の運営方法の最大の特徴は、その展示方法なり内容なり、運営方法と企画決定に関して関係者・当事者間の共同討議=共同決定の原則が徹底しており、上からの一存によって事が決まるという運営方法は強く排除されている点にあるという。
 ちなみに沖縄戦についての解説を同書から抜粋しておこう。

――沖縄戦における日米の戦力は、…〔略〕…米軍の総数は、当時の沖縄の人口(約45万人)を上回り、…〔略〕…戦闘部隊の兵員は日本軍の倍に近いものであった…〔略〕…総兵力(兵器性能、補給力、等々も含む、清)において約10倍以上の差があった…〔略〕…激戦地となった南部の喜屋武半島一帯では一ヶ月間に680万発もの砲弾・銃弾が撃ち込まれた。これは住民一人辺り約50発にあたる数である。沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人よりも一般住民の犠牲者がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い…〔略〕…日本軍による住民の殺害が各地で発生した。…〔略〕…餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。沖縄戦では、20万人以上の人々が犠牲になった。米軍の1万2520人に対し、日本軍は…〔略〕…約9万4000人と七倍以上のもの大きな差がある。沖縄県民の被害状況は、一般住民が9万4000人以上…〔略〕…軍人・軍属を含めると12万人以上(4人に1人)となっている。

 ここで同祈念資料館での証言展示の「むすびの言葉」をそのまま引用しておきたい。

沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で/これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。
この なまなましい体験の前では/いかなる人でも/戦争を肯定し美化することは/できないはずです。
戦争をおこすのは/たしかに 人間です。/しかし それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち 人間 ではないでしょうか
戦後このかた 私たちは/あらゆる戦争を憎み/平和な島を建設せねば と思いつづけてきました。
これが/あまりにも大きすぎた代償を払って得た/ゆずることのできない/私たちの信条なのです

 平和祈念公園には黒大理石の「平和の礎」と呼ばれる墓碑銘群が並んでいる。そこには戦没者の名前だけが、その肩書抜きに、刻印されている。例えば、沖縄戦総司令官であり自決した牛島満陸軍大将はただ牛島満とだけ刻印されている。そこには日本人戦没者のみならず、かつては敵味方に分かれ死闘をくりかえした米英軍将兵の名前を同様に名前だけ刻印した墓碑銘群も含まれる。また対米軍要塞やトーチカ建設あるいはガマのトーチカ化に動員された朝鮮人徴用工の名前や軍慰安所慰安婦を務めさせられた女性の名を刻印したものもある。朝鮮人民共和国の墓碑と大韓民国の墓碑との2つに分かれる。日本人戦没者名の刻印にあたっても、軍人か民間人かの区別は一切表記されず、したがって前述のように将兵にあっては軍隊内の位階も一切表記されず、ただ都道府県名だけで区分けされている。現時点で、刻印総数は24万1566名である。資料が発掘され新たに発見された戦没者用にまだ無刻印の黒大理石の墓碑が数台用意されてもいる。

 6月23日の同公園での「戦没者追悼式」で玉城デニー知事は、その演説の結びにこう述べた。――「本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します」と。

 この視点はそのまま「平和の礎」に体現されてきた視点にほかならない。「生命(いのち)どう宝」(いのちこそ宝)の根源的視点の前にはかつての敵味方の区別も、民族・性別・社会的身分の区別もない。高橋和巳的にいえば、「国家」の視点を「個の生命の尊厳」に優位する権威として己の視点に採用する「政治的人間」と、逆に「個の生命の尊厳」こそを最高の視点に据え、その視点こそが互いのあいだに生みだす「共苦 compassion」の倫理だけを己の倫理的原理とする「道徳的人間」との対決にあって、「平和の礎」における刻印様式はひたすらに「道徳的人間」のヒューマニティーに賭ける精神を呼吸するのだ。

 「平和の礎」は、本土決戦を一日でも遅らせるべく沖縄の総体を「捨て石」とみなし米軍への「特攻」(自決攻撃)を命じた大本営の「国家」主義を無言のうちに告発しているが、この「国家」主義と一つとなった「捨て石」主義は、あろうことか「日本国憲法」を掲げたはずの「戦後」日本において、まさに今日まで、当の沖縄に関してはなんら撤回されることはなかった。沖縄はいまでも「捨て石」である。真志喜さんはこう強調した。本土ではマスコミも含めて辺野古普天間基地の返還のための「代替基地」としての位置づけにおいて議論されているが、これは欺瞞である。辺野古は、おそらく何よりも中国を睨んだ新たなる21世紀における日米「国家」にとっての最大の「捨て石」的「新軍事基地」として沖縄に再び背負わされようとしているのであり、本土ではこの問題文脈は隠されたままなのだ、と。

 玉城デニー県知事は先の追悼演説でこう述べている。――「沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易をうたう『万国津梁』の精神に基づき、洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。平和を愛する『守禮の邦』として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました」と。

 沖縄を旅すると、言語学的には沖縄語(ウチナーグチ)は日本語の「姉妹言語」と位置づけられるように、沖縄は日本の「姉妹民族」としてまずその独自のアイデンティティーにおいて承認されるべきであり、その承認に立ってこそ、両民族の真の友愛に満ちた統合が未来の最も適切な選択として両民族によって改めて自覚されるべきであり、この自覚は《沖縄姉妹民族》に対する過去の日本国家の一貫せる蔑視と「捨て石」的=植民地主義的態度の根本的反省と謝罪と一つとなるべきだと痛感させられる。

 今回の沖縄の旅で教えられ学び、あらためて本土の人々に紹介したくなったこと、提案したくなったことはまだ幾つもある。あと数回、そのことについて書くつもりである。(清眞人)

林業になう若者にエール ~自然と人間について思う~

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 先日の河北新報(6月24日)に、「宮城県南三陸町の小野寺翔さん(23)が林業の担い手を目指し奮闘している。~~」という記事が社会面で目立った。「~~小野寺さんは4月、地元の戸倉地区で自伐型林業に取り組む『波伝の森山学校合同会社』に就職した」「~~自伐型林業は、山主や住民が一つのヤマを長期的に見守るため、『山守型』と呼ばれ、~持続的な森林経営を促す手法として、東北でも関心が高まっている~~」などとあった。

 この小野寺青年の記事が私に特に光って目にはいったのは、6月15日の「民主教育をすすめる宮城の会」通信に載った「『水』の次は『森』! そこまで民間に売りますか!?」を読んでいたからだろう。それは 簡単にまとめると、次のような内容だ。

 民間業者に国有林の伐採などを認める「改正国有林野理経営法」が参院本会議で可決、成立。国有林は、全国の森林面積の3割を占める日本の財産だが、法律の成立で、これまで国が管理、伐採してきた国有林の一部について、10年から50年の間、伐採できる「樹木採取権」が民間業者に与えられることになった。しかも、伐採後に再び木を植えて森林を育てる義務はなく、木は切りたい放題ということになりそうだ。せめて採取権を森林と共に生きる地元の林業業者に限定すれば、森を大切にするだろうから、荒廃も防げるかもしれないが、実態は、中小業者よりも大手業者が有利な仕組みになっている。~~

 恥ずかしいことに、私は 「改正国有林野理経営法」の成立を知らずにいたので、大いに驚いた。『水』の次は『森』まで民間にと国は動いているのだ。

 私は、在職中に、「土・水・森林・海・人間」の授業を1年間かけて4年生と取り組んだ。(それは、「土・水・森林・海そして人間の授業」という名でまとめている。)
3つめのテーマ「森林の授業」が終わったとき、N子は次のような感想文を書いた。

 「土」「水」「森林」、これらには、すべてに「命の水の流れ」がある。それぞれの仲間と助けあい、おたがいが生きている。
 命の水の中に人間はいるか。どの流れの中にも人はいない。むしろ、流れをたち切る石のようなもの。
 私たち人間はなぜ自然のあたえてくれた生きる道を、自分たちで壊すのだろう。生きるのは、それにたよって生きていくしかないのに。それをこわせば生きていけなくなるのは、わかるようなものなのに。
 なぜ自分で死ぬような道をえらぶのだろう。
 自然をこわしていく人間は、こわくないのだろうか。
 自分たちで死へせまっていくという事実がわかっているならば、なんとしなければいけないと思う。
 こわすことができるのなら、もどすことも人にできないのだろうか。
 木をうえたり、まちがった考えで自然をこわしている人人に、自然がどれだけ自分たちにひつようかということを伝えることはできないだろうか。
 「土」「水」「森林」は、みんなで、自然のものたちで手をつなぎ、自分たちで生きている。
 人も、その「わ」の中に入れないだろうか、自然を大切にするものとして。

 私のこの授業の目的は、「土」「水」「森林」「海」をつないで自然の循環を考えることだったが、子どもたちは、授業がすすむにしたがって、そのつながりのなかで、自分たち「人間」の役割がどんどん気になり、N子は「人間は命の水の流れをたち切っているのではないか」と不安をふくらませている。N子だけではない。多くの子が書いていた。それで、授業の計画の中に、あわてて初め考えていなかった「人間」を最後に入れたのだった。このままでは、N子たちに「人間」として生きている自分と自然との関係を考えることができずに終わることになるのではないかと思ったのだ。

 そのような過ぎ去った教室がうかぶからなおさら、私は、「森林」を生きる場とした小野寺青年に拍手なのだ。その一方で、経済の論理でのみ森林を民間業者に売りにでるというこの法には、N子たちを悲しませないためにも授業をした責任もある自分にできることはないものかという思いが頭から離れなくなっているのだ。他人頼みになるが、小野寺青年が就職した自伐型林業に取り組む『波伝の森山学校』のようなグループが全国に数多くつくられてほしいと願って新聞を閉じた。(春)

テストは何のため、授業は誰のため?

  本人は何も言ってくれないので見逃してしまいそうになりましたが、昨年から事務局メンバーとしてセンターの活動を担ってくれている佐藤正夫さんの投稿が6月19日付の河北新報「持論時論」に掲載されました。すでに読まれた方もいると思いますが、改めて紹介いたします。

   学力テスト 指導方法の画一化 懸念

 「北欧のある国では、16歳まで他人と比べるテストがない」と聞いて驚いてしまいました。それは、毎年4月に実施されている国と仙台市、2つの「学力テスト」に強い違和感を抱いていたからです。数値化してその子の学力を見る。絶対的指標のようになってはいないでしょうか。とは言っても、日本ではどの教室においても「テスト」は日常的に行われています。漢字や計算テストなど。それは子どもの順位付けのために行うわけではなく、それぞれの子が、今どの程度理解しているのかをつかむ一つの方法として行い、自分の教え方を修正するためです。
    ◇    ◇    ◇
 もう少し詳しく言うと、できたかどうかだけを確認しているわけではなく、学んだことがうまく使えているか、つまずきの原因はどこかを知るためなのです。時には消しゴムの跡や筆跡から、何度も悩んだ姿や苦労の様子が見えたりもします。10問中1個しかできていなくても、その子の獲得の様子が見えたとき、「頑張ったね」と声が出てしまいます。そうして、この子に応えるためにはどんな方法があるのかを考え始めます。教師はリアルタイムで、子どもの思考や内面をつかむために、このような小さなテストだけでなくノートや感想、小さなつぶやきやちょっとした表情の変化も見逃さない努力をし、次の日の授業の作戦を練るのです。これはいわゆる主要5教科だけでなく、美術や音楽などの表現分野についても子どもが育つ上で重要な教科として行っています。多様な教材(文化)と出合うことによって、その子の中に眠っていた感覚や興味の芽が膨らみ自分から動きだすことを教師は願っています。
    ◇    ◇    ◇
 文部科学省は「全国学力テスト」を始めるとき、「このテストが分かるのは学力のほんの一部であり、この結果を授業に生かしてほしい」という趣旨のことを言いました。その当時は、調査の一つとして受け止めていましたが、今はどうでしょう。『公表』によって各自治体が少しでも上の順位を求めて教育委員会にその施策を問い、教育委員会は各学校に点数を上げるための授業改善を求めています。そして、そこから派生したと思われる学習指導法の規格化(授業スタンダード)や生活指導の規格化(生活スタンダード)などが市内の学校にも広がっていることを耳にします。これは極端な言い方をすれば、どの学級・学年も一つの授業スタイルに統一し、そこに子どもを当てはめていくというものです。はみ出す子どもを何とかしてそのスタイルに入れるのが教師の仕事になりかねません。教師が創り出すべき授業のやり方にまで規制がかかるなど、首をかしげるばかりです。
 今学校は「学力テスト対策」だけでなく、たくさんの課題と過度な要求で渦巻いています。それを解きほぐすためには、現場教職員が何を願って日々奮闘しているのか、誰もが真摯に耳を傾けるときではないでしょうか。
 「学校楽しいよ!」という声があふれますように。

 私の知っている正夫さんはいつも控え目で謙虚、でもね授業や教育にかける思いは熱いんだよね。静かにめらめら燃えているんだよね。文章からも、そんな正夫さんの思いが伝わってくる気がしました。記事のなかに「時には消しゴムの跡や筆跡から、何度も悩んだ姿や苦労の様子が見えたりもします」とあるけど、震災後の聞き取り調査で、ある小学生の書いた文章を見た春さんが、同じことを言う場面に遭遇しました。つまりね〈この子はこの文章を一気に書いたな。消しゴムで消した跡がない〉と。同じだなあ正夫さんと。正夫さんもきっとどこかで、そういう教師やそういう場面に遭遇していたんだろうなあ。最近は少々疲れ気味の正夫さんだけど、これからもよろしくお願いします。( キヨ )

季節のたより30 ホタルブクロ

 ホタルの季節に咲く花、つりがね型の花のひみつ

 自然公園の土手の草むらにホタルブクロがゆれていました。6月の梅雨入りの前後、ホタルが飛び交う季節になると、まるで申し合わせたかのように咲き出すのがホタルブクロです。

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   ホタルの飛び交う季節に咲き出すホタルブクロの花 

 4歳くらいの男の子が、ホタルブクロを見つけてお母さんに話しかけていました。「おかあさん、この花は、にっくんがかぶったおぼうしだね」
 にっくんとは、絵本作家いわむらかずおさんの「14ひきあさごはん」(童心社)に出てくるこねずみの次男坊です。10人のこねずみたちが、朝ごはんの準備で森に野いちごつみに出かけたとき、ホタルブクロを見つけて帽子にしたのがにっくんです。にっくんは、お家に帰ってからもホタルブクロをかぶったまま。男の子はその姿がすっかり気に入っているのでしょう。

 いわむらさんの「14ひきシリーズ」といわれる12冊の絵本は、14ひきのねずみの大家族が、四季の自然の中で、それぞれ役割をもって協力しながら暮らす日々の出来事を描いています。小さなこどもたちはこの絵本をとおして、豊かな自然との出会いを楽しんでいるようです。

 古田足日さんの童話「大きい1年生と小さな2年生」(中山正美・え.偕成社)にもホタルブクロが登場します。体は大きいのに泣き虫の1年生のまさとと、体が小さいけれどしっかりものの2年生のあきよ。ホタルブクロをめぐって2人の心の交流と成長を描いた物語。この本について、ある研究会で、ひとりのお母さんが話してくれたことがありました。
 小学1年生のとき、「大きい1年生と小さな2年生」を読んで、ホタルブクロを見たくなり探しても見つからず、憧れの花となったとのこと。大人になってから偶然ホタルブクロに見つけたそのときに、ホタルブクロの野原に大きな虹がかかる最後の場面が浮かんできて胸がいっぱいになったというのです。わが子が1年生なので、今一緒に読んでいるとも話してくれました。
 図書館でこの本の奥付を見たら、初版が1970年で、2014年には213刷になっていました。今も低学年のこどもたちに読みつがれて、ホタルブクロへの憧れを育てているのでしょうか。

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  地下茎を伸ばして増え、草むらで群落をつくって咲いているのも見られます。

 ホタルブクロの名前の由来について、「こどもたちがホタルを花の中に入れて遊んだので蛍袋という」と多くの図鑑で説明されています。
 こどもの頃、田舎で育った私は、ホタルをつかまえると、ホタルには災難だったと思うのですが、ホタルブクロではなく長ネギの葉の筒の中にいれて遊んでいました。ホタルブクロは日当りのよい山の斜面に自生する花で、ホタルの飛び交うような水辺には咲いていなかったからです。何人かに聞いてみたのですが、ホタルブクロで遊んだという人はいませんでした。花とホタルと結び付けた名前の由来には幻想的な美しさへの願望を感じるのです。
 ホタルブクロは花の形から釣鐘草、風鈴草、そして提灯花とも言われています。提灯のことを、昔は「火を垂れ提げる」袋、つまり「火垂袋」といっていたようです。その「火垂袋」が「蛍袋」になったという説もあり、由来としては、こちらの方がいいのではと私は思っています。

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 赤紫色の花のホタルブクロ。最近は、園芸種や交配種の種類も多く見られます。

 ホタルブクロはキキョウ科の多年草です。花の色は白色から濃い赤紫色まで変化に富んでいます。ホタルブクロの変種にヤマホタルブクロというのがあって、互いによく似ていますが、下の写真のように花を吊り下げているガクを見ると、区別できるようです。ホタルブクロは人家周辺に多く、ヤマホタルブクロは山よりに分布していますが、ふつうは、広い意味でどちらもホタルブクロとよんでいるようです。

    ホタルブクロ             ヤマホタルブクロ 
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 ガクとガクの間に小さなガク片があり、 ガクとガクの間に小さなガク片がなく、
 そり返っています。          怒り肩のようにふくらんでいます。

 ホタルブクロの花の中はどうなっているのでしょう。のぞいてみると、中心に長い綿棒のように伸びているのが雌しべです。雌しべの奥のまわりにくるまったリボンのように見えるものが雄しべです。
 最初に雄しべが成熟して花粉を出します。その雄しべが枯れてから、雌しべが成熟して花粉を受けます。ホタルブクロは、一つの花の中で雄しべと雌しべの成熟をずらすことによって、自家受粉を避けて、他の花の遺伝子を取り込もうとしています。環境が多様に変化しても、生き延びられる子孫を残そうとするホタルブクロの周到な知恵といっていいでしょう。

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 中心にあるのが雌しべ、成熟すると先が3つに分かれます。 

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 下向きのつりがね型の花は、風雨に耐える強さがあります。

 ホタルブクロの花はつりがね型で下向きに咲いています。これだと梅雨時の風雨にさらされても大丈夫です。でも、花が逆さまでは虫たちが蜜を探すのに困らないのでしょうか。
 ホタルブクロを訪れる虫は、主にハナバチの仲間です。ハナバチは下向きの花にもぐりこみ、強い脚で花につかまり、逆さになって花の奥にある蜜を長い舌でなめることができます。同時に花粉を運んでくれます。他の虫たちがやってきてもハナバチのようにはできません。
 いろんな虫が他の花の花粉をどんなに運んできても、ホタルブクロの受粉には役に立ちません。ホタルブクロはホタルブクロの花粉だけを確実に運んでくれるほうがいいのです。それでハナバチだけを選んでいるのです。
 ホタルブクロは、進化の過程で、花粉を運んでくれる虫たちを選び、それにあわせて花の形を変えてきたと考えられます。自然界で長くいのちをつないでいくためのホタルブクロの知恵がここにも見られます。

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   朝夕の光を浴びると、幻想的な雰囲気を漂わせます。

 ホタルブクロの花期は、6月から7月です。ヤマホタルブクロは、6月から8月頃まで見られます。梅雨のさなかに咲いていることが多く、雨のしずくにぬれた花の色は、鮮やかで美しく見えます。花を支える細い茎が、しなやかにゆれる姿にも心魅かれます。傍らの草むらをのぞくと、ツユクサ、ミズヒキ、野菊などの草花たちがひそかに次の準備をしていました。
 季節がめぐると花開き実をむすぶ草花たちが、それぞれがの進化の歴史の中でたくわえてきた生きる力は、はかりしれないものがあります。あらためて命の不思議さについて思うのです。(千)

◆昨年6月「季節のたより」紹介の草花

国語なやんでるた~る特別編・『大造じいさんとがん』授業報告&交流会

3人の先生が、それぞれに工夫した3通りの授業を報告! 
一つの作品について3つの授業報告を聞けるなんてまたとない機会です。
ぜひみなさんご参加下さい。待ってます!

 昨年は、「こくご講座」や「国語なやんでるた~る」を通じて、5年生の国語教材『大造じいさんとがん』の魅力や授業づくりについて話し合いをもってきました。
 学習会に参加してくれていた長町南小の小野寺浩之先生は『大造じいさんとがん』の授業を公開し、多くの先生方が参観と検討の機会を持つことができました。
(授業前の学習会はできても、実際に授業をみて、みんなで授業について話し合う機会はなかなか持つことができないので、大変うれしいことでした。)
 また学習会に参加していた他の5年生担任の先生たちからも授業に取り組んでの報告や連絡がありました。

 学習会で検討した一つの教材を、複数の先生がそれぞれに工夫を凝らし授業するというのはあるようで、なかなかないことです。そこで、いっその事、これまでに学習会に参加した人もそうでない人も、みんなで集まって授業の報告と交流の機会をもったらよいのではとの話になりました。

 授業を実際にしてみてわかるおもしろさ難しさ、子どもたちの様子などをみんなで交流したいと思います。そして、これからの授業づくりのヒントにしていけたらと思っています。ぜひご参加ください。お待ちしています。

◆日 時:6月29日(土) 13:30~16:00
◆内 容:授業の中の子どもたちと作品
◆場 所:みやぎ教育文化研究センター

【話題提供】
  小野寺 浩之さん (長町南小)
  佐藤 弘文さん (東仙台小)ほか

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