mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風13 ~私の遊歩手帖5~

 沖縄を歩く 1 

 6月23日、沖縄は「慰霊の日」を迎える。この日、日本国内で日米両軍が相まみえた唯一の地上戦であった沖縄戦、その3ヵ月を超える組織的戦闘が遂に終結した。僕はこの日糸満市のかの摩文仁の丘にある県立平和祈念公園で開催された慰霊式への参加を挟み、二人の友人と連れ立って20日から25日まで沖縄戦の中部及び南部戦跡――特に「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞の石窟をにわか仕立てのトーチカにして日本軍が戦った――を訪ね歩き、また広大な普天間米軍基地を「青丘の塔」のある嘉数高台に立って一望し、24日には本部港に近い塩川漁港にて、辺野古の新基地建設予定地のゲート前でほとんど毎日のように繰り返されている埋め立て土砂運搬トラックの入構阻止の40人前後のピケに参加した(そのほとんどが70歳前後の老人男女である)。前半は「沖縄平和ネットワーク」の担い手である事務局長川満昭広さんが、後半は「沖縄平和市民連絡会」の共同代表の一人である真喜志好一さんが僕たちを案内してくれた。

 この2年間、僕は高橋和巳の文学について考え続けている。今回の旅の往復の飛行機のなかで初めて中編『堕落』を読んだ。その第1章の2に次のくだりが出て来る。「不意に足もとからすべてが崩れる恐怖」、そこへの「墜落」の恐怖、実はそれを隠し持ち、常にその恐怖を生きているのが自分という人間なのだ、という主人公の告白が。同書の「あとがき」で高橋はこう書く。「たとえ意識の表層からその姿を消しても、より深い奥底から絶えず怨念の呟きを投げかけるのが、体験であり認識であって…〔略〕…そうした呟きのあることが、その個人がなお人間であり、人間的でありうることの証左である」と。僕はガマを訪ね、すぐこのくだりを思い出した。

 彼の小説を読むと、その各々の主人公は必ずといってよいほど、このような己の無意識の底に疼く「怨念の呟き」への墜落を恐怖し、そこから次の自己分裂へと突き進む人物であることがわかる。一方において彼は、その「怨念」が世界破壊と自己破壊が串刺しとなった暗き二重化した破壊衝動へと突き進まんとする溶岩的自分(今風にいえば「拡大自殺」的自己)を認め恐怖する。しかし他方、その「体験」・「認識」のなかにも――ここで『憂鬱なる党派』での表現を借りれば――「泥沼の中に咲くただひとつの蓮の花」と形容すべき或る幾人かの人間との奇跡のような「交情」と「共苦」の経験があることにも気づき、それを固守しそこへと自分を必死に繋留することで、彼は辛くもくだんの破壊衝動の激流から身を守る。そのときくだんの「蓮の花」たる経験は彼のなかで「思想の花」へと変じ成長しだすのだ。あるいは逆に彼はそれを仕損ね自壊するのだ。

 『堕落』はこの葛藤の経緯を、主人公青木がかつて青年時代に生きた最後は地獄図と成り果てる満州経験に即して描く。それを、『憂鬱なる党派』は主人公西村の広島被爆経験に、『捨子物語』は主人公国雄の大阪大空襲経験に即して描く。かかる物語の舞台に次は沖縄を選び出す機会、それは39歳で癌死した高橋にはもはやなかった。
 しかし、今回の沖縄の旅を通して僕は確信した。もし彼がもっと生きることができたならば、被差別の苦痛と怨念をいやというほど見聞した大阪西成釜ヶ崎育ちの彼ならば、また大阪は、在日・部落・釜ヶ崎と並んで沖縄・奄美出身者のそれをよく知る稀有な都市なのだから(大阪生野区の区民の4分の1は沖縄出身者)、彼は沖縄を物語の或る決定的な重要場面に引き入れる小説を書いたに違いない、と。

 川満さんは僕に教えてくれた。「ひめゆり平和祈念資料館」は1989年に開設されたが、2004年4月に「全面的な展示改装」をおこない「平和への広場」を増築するに至る。この改装には決定的な切っ掛けがあった、と。それは、あの「ひめゆり学徒隊」の生き残りのおばあさんたちが意を決して、口を固く結んで墓場まで持っていくはずの「ひめゆり学徒隊」を襲った惨劇のありのままの真実、それを公表することに踏み切ったことである。その「真実」は彼女たちの心的外傷=罪意識に直に関わるそれであった。しかし彼女たちは、今それを自分たちが打ち明けなかったなら、それは永遠に闇に葬られることになることを強く想い、公表し後世に伝えることこそ死せる仲間が自分に託した唯一の願いであり、かつまた彼らへの自分たちの最大の責務であると思い立ち、まず互いに打ち明けあうことを始める。その互いの行為によって、彼女たちはこれまでついぞ手にできなかった癒しと罪意識からの救済に到達する。心底に隠し持つ孤独からの救済を互いの手によって果たす。この経験、これが前述の「決定的な切っ掛け」だというのだ。そして、祈念資料館の第4展示室「鎮魂」にはその生々しい眼を覆いたくなるありのままの証言が大型の頁仕様のパネルに印刷されて展示され、閲覧者はそれをめくりながら読める工夫がなされるに至った。

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             沖縄平和祈念資料館の展示写真

 この展示方式は145編もの証言を展示する「沖縄県平和祈念資料館」でも採用されたそれであった。同資料館の出版する『体験者が語る 平和への証言』の「発刊にあたって」にこうある。「多くの体験者の方々は『戦争のことは話したくない』『戦争のことはいくら話しても尽きることがない』などと話していることからしても、その悲惨さは筆舌に尽くせないものだと思われます。戦後60年を過ぎた現在、戦争の悲惨さや教訓を後世へ伝えるためには、体験者の証言は大変貴重であり、私たちは、この体験談をより多く記録して後世へ継承していくことが大切であると考えます」と。川満さんによれば沖縄でのかかる資料館や祈念館の運営方法の最大の特徴は、その展示方法なり内容なり、運営方法と企画決定に関して関係者・当事者間の共同討議=共同決定の原則が徹底しており、上からの一存によって事が決まるという運営方法は強く排除されている点にあるという。
 ちなみに沖縄戦についての解説を同書から抜粋しておこう。

――沖縄戦における日米の戦力は、…〔略〕…米軍の総数は、当時の沖縄の人口(約45万人)を上回り、…〔略〕…戦闘部隊の兵員は日本軍の倍に近いものであった…〔略〕…総兵力(兵器性能、補給力、等々も含む、清)において約10倍以上の差があった…〔略〕…激戦地となった南部の喜屋武半島一帯では一ヶ月間に680万発もの砲弾・銃弾が撃ち込まれた。これは住民一人辺り約50発にあたる数である。沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人よりも一般住民の犠牲者がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い…〔略〕…日本軍による住民の殺害が各地で発生した。…〔略〕…餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。沖縄戦では、20万人以上の人々が犠牲になった。米軍の1万2520人に対し、日本軍は…〔略〕…約9万4000人と七倍以上のもの大きな差がある。沖縄県民の被害状況は、一般住民が9万4000人以上…〔略〕…軍人・軍属を含めると12万人以上(4人に1人)となっている。

 ここで同祈念資料館での証言展示の「むすびの言葉」をそのまま引用しておきたい。

沖縄戦の実相にふれるたびに/戦争というものは/これほど残忍で/これほど汚辱にまみれたものはないと思うのです。
この なまなましい体験の前では/いかなる人でも/戦争を肯定し美化することは/できないはずです。
戦争をおこすのは/たしかに 人間です。/しかし それ以上に/戦争を許さない努力のできるのも/私たち 人間 ではないでしょうか
戦後このかた 私たちは/あらゆる戦争を憎み/平和な島を建設せねば と思いつづけてきました。
これが/あまりにも大きすぎた代償を払って得た/ゆずることのできない/私たちの信条なのです

 平和祈念公園には黒大理石の「平和の礎」と呼ばれる墓碑銘群が並んでいる。そこには戦没者の名前だけが、その肩書抜きに、刻印されている。例えば、沖縄戦総司令官であり自決した牛島満陸軍大将はただ牛島満とだけ刻印されている。そこには日本人戦没者のみならず、かつては敵味方に分かれ死闘をくりかえした米英軍将兵の名前を同様に名前だけ刻印した墓碑銘群も含まれる。また対米軍要塞やトーチカ建設あるいはガマのトーチカ化に動員された朝鮮人徴用工の名前や軍慰安所慰安婦を務めさせられた女性の名を刻印したものもある。朝鮮人民共和国の墓碑と大韓民国の墓碑との2つに分かれる。日本人戦没者名の刻印にあたっても、軍人か民間人かの区別は一切表記されず、したがって前述のように将兵にあっては軍隊内の位階も一切表記されず、ただ都道府県名だけで区分けされている。現時点で、刻印総数は24万1566名である。資料が発掘され新たに発見された戦没者用にまだ無刻印の黒大理石の墓碑が数台用意されてもいる。

 6月23日の同公園での「戦没者追悼式」で玉城デニー知事は、その演説の結びにこう述べた。――「本日、慰霊の日に当たり、国籍や人種の別なく、犠牲になられた全てのみ霊に心から哀悼の誠をささげるとともに、全ての人の尊厳を守り誰一人取り残すことのない多様性と寛容性にあふれる平和な社会を実現するため、全身全霊で取り組んでいく決意をここに宣言します」と。

 この視点はそのまま「平和の礎」に体現されてきた視点にほかならない。「生命(いのち)どう宝」(いのちこそ宝)の根源的視点の前にはかつての敵味方の区別も、民族・性別・社会的身分の区別もない。高橋和巳的にいえば、「国家」の視点を「個の生命の尊厳」に優位する権威として己の視点に採用する「政治的人間」と、逆に「個の生命の尊厳」こそを最高の視点に据え、その視点こそが互いのあいだに生みだす「共苦 compassion」の倫理だけを己の倫理的原理とする「道徳的人間」との対決にあって、「平和の礎」における刻印様式はひたすらに「道徳的人間」のヒューマニティーに賭ける精神を呼吸するのだ。

 「平和の礎」は、本土決戦を一日でも遅らせるべく沖縄の総体を「捨て石」とみなし米軍への「特攻」(自決攻撃)を命じた大本営の「国家」主義を無言のうちに告発しているが、この「国家」主義と一つとなった「捨て石」主義は、あろうことか「日本国憲法」を掲げたはずの「戦後」日本において、まさに今日まで、当の沖縄に関してはなんら撤回されることはなかった。沖縄はいまでも「捨て石」である。真志喜さんはこう強調した。本土ではマスコミも含めて辺野古普天間基地の返還のための「代替基地」としての位置づけにおいて議論されているが、これは欺瞞である。辺野古は、おそらく何よりも中国を睨んだ新たなる21世紀における日米「国家」にとっての最大の「捨て石」的「新軍事基地」として沖縄に再び背負わされようとしているのであり、本土ではこの問題文脈は隠されたままなのだ、と。

 玉城デニー県知事は先の追悼演説でこう述べている。――「沖縄は、かつてアジアの国々との友好的な交流や交易をうたう『万国津梁』の精神に基づき、洗練された文化を築いた琉球王国時代の歴史を有しています。平和を愛する『守禮の邦』として、独特の文化とアイデンティティーを連綿と育んできました」と。

 沖縄を旅すると、言語学的には沖縄語(ウチナーグチ)は日本語の「姉妹言語」と位置づけられるように、沖縄は日本の「姉妹民族」としてまずその独自のアイデンティティーにおいて承認されるべきであり、その承認に立ってこそ、両民族の真の友愛に満ちた統合が未来の最も適切な選択として両民族によって改めて自覚されるべきであり、この自覚は《沖縄姉妹民族》に対する過去の日本国家の一貫せる蔑視と「捨て石」的=植民地主義的態度の根本的反省と謝罪と一つとなるべきだと痛感させられる。

 今回の沖縄の旅で教えられ学び、あらためて本土の人々に紹介したくなったこと、提案したくなったことはまだ幾つもある。あと数回、そのことについて書くつもりである。(清眞人)