司馬遼太郎の20回目の菜の花忌が終わったと新聞の隅に小さくあった。少し前になるが、確か司馬が亡くなる直前に「無感動体質が増えていくのが怖い」と言ったというのがテレビから流れてくるのを耳にしたことがある。
そのことばの前後がどのようなことだったのかわからないから、自分の勝手な聞き方になるが、同じ思いをしている自分を確認したのだった。
それが、ある箇所に限られているのではなく、国中のあらゆる場所でそのような傾向が強くなっているように思い、なんとも気になるどころか、司馬の言うように怖くなる。
なぜ「無感動体質」が増えていくのか。子どもたちはどんな時代も変わらないと思っているのだが、これもどうやら相当怪しくなっている感じがする。
テレビはチャンネルをどこにまわしてもお笑い番組にぶつかる。ここでは、みんなが笑いつづける。笑いは独占物でないはずなのに、心の底からの笑いは少ない。自分の小さい頃は叱る声も耳にすることが多かったが笑い声も絶えなかった。
本気のけんかも多かったが、それで終わりで、涙を手でこすりながら一緒にあそびつづけるのだった。
「いじめ」問題についても頻繁にテレビ・新聞で扱われる。「いじめる」という言葉はわたしの子ども時代からあった。もちろん、もっともっと前からあったはずだ。ちなみに、広辞苑も3版までは「いじめる」は入っているが「いじめ」という名詞は入っていない。「いじめ」が見出し語として「いじめる」とは別に入ったのは4版から。4版発行は1991年。「いじめ」は無感動と無縁ではないと思う。
6年生の算数の時間、円錐の表面積を求める問題に教室はにぎわった。オレがワタシがと出てきて解こうとするが次々と落馬。しばらく後に出て来たエイジが見事解いてみせる。間髪をいれず「エイジソンだ!」とツヨシが叫んだ。その時からエイジは、自分でもすっかり「エイジソン」になってしまった。
無感動では人がつながらない。人がつながらないと無感動が増える。そう思う。( 春 )