mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

葬儀にも影落とす過疎化の現実

 叔父が急に亡くなって、田舎通いをした。

 私の生地は北上川北上山地に挟まれ、川上に目をやると岩手県との境が見える。私は車をもたないので、田舎への行き来はたいへんだ。東京に行くよりもたいへんだ。

 9日が葬儀だった。葬儀は10時からだが、その前に、出棺前の読経があり、8時30分からになっているので、それに間に合わなければならない。

 前日に2か所のタクシーを予約しておく。

 5時20分、タクシーに自宅に来てもらい、仙台駅に向かう。

 6時ちょうど発、東北本線普通一関行きに乗る。石越駅7時12分下車。ここにも前日頼んでいたタクシーが待っていてくれる。タクシーは、登米市石越駅から走り出し、途中岩手県に入る。岩手県北上川にかけた橋を通って川沿いを走って宮城県に南下、8時ごろ叔父の家に着く。自宅を出てから3時間弱。石越からのタクシー代は4700円。ともかく、なんとか時間前に着いてホッとする。

 ところが、ところが、家にはほとんど人影が見えず、ひっそりとしている。聞くと「出葬念誦」(私は初めて聞く言葉)は、別の場所にある葬儀屋で行うとのことで皆出発していたのだ。最後の出発になった親戚の車に乗せてもらい、寺と反対方向になるその場所に向かう。出葬の読経後、今度は菩提寺にもどって葬儀、と行ったり来たり。

 出棺前の読経が他所でもたれるというのは、田舎の葬儀では私は初めて。わけを聞いてみると、自宅で行うには、まかないなどの人手が足りないので、このようになっているとのこと。確かに、2日目の納棺のために行ったときも、台所の手伝いは家人の他に親戚2人だけだった。

 物語「ごんぎつね」で、「ごん」は、兵十の家の人の集まりの様子を目にして「村に何かあるな」と考えたが、私の田舎もごく最近まで「ごんぎつね」と同様だったのだ。叔母が亡くなって7年になるが、その時は昔の様子だった。

 辺地も変わらないではおれないのだ。そして、事があるたびに、確実にカネが出ていく。このような変化の中で、どのように生きていけばいいのか、辺地の課題はふくらんでいくばかりのように思う。

 ふだんは、叔父と息子夫婦の3人暮らしだったが、そちこちに散らばっている兄弟・孫・子が集まったわけだが、なんと、その数は18人とのこと。その数に驚く。しかし、今のところ、誰ひとり、この地にもどる予定はないようだ。

 ここしばらく過疎地のことを考えることが多くなっているが、ますますわからなくなってきている。でも、考えなければいけないという思いをますます強くして帰ってきた。( 春 )

安田菜津紀さん講演会、河北新報の記事に!

 河北新報が、5月21日(日)の安田菜津紀さん講演会を記事として取り上げてくれました。新聞に掲載されたのは6日(土)。ゴールデンウィークが終わった今週月曜からは早速問い合わせの電話が研究センターに寄せられています。

 新聞を取らない家庭もずいぶん増えていると聞きますが、やはり新聞による宣伝効果はすごいですね。

 問い合わせで多いのは、事前予約にかかわってのものです。特に事前予約は取っておりませんので、当日会場においでください。電話くださるみなさんの声からは、講演を楽しみにしていることが伝わってきます。ぜひご参加ください、お待ちしています。 

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まさひろくんの「ばいばい」に想う ~『1年1組せんせいあのね』鹿島さんの実践から ~ 

 GW中にドラマ「ひよっこ」は、舞台を地元・茨城から集団就職でやってきた東京へと移した。昨日のドラマは、みね子が東京で迎える初の休日。父親が寝泊まりしていた飯場を訪ねて寮に戻ると、仲間たちから「おかえりなさい」と迎えられ、みね子は「ただいま」とあいさつを交わす。みね子に東京の居場所ができた、帰る場所ができたことを、あいさつは象徴していた。

 「あいさつ」は、ときに習慣やきまり以上の、ある状況や時代を象徴したり意味を帯びたりすることがある。
 そのことで思い出すのは『1年1組せんせいあのね』の著者であり、また小学校教師であった鹿島和夫さんだ。鹿島さんは、教師として子どもたちの豊かな人間性を培っていくにはどうしたらいいかを考え、表現力を培う仕事を学級の中心に据えてこられた。その具体的な仕事のかたちが、子どもたちに毎日考えたことや感じたことを書き続けさせてきた「あのねちょう」だ。

 その仕事を取り上げ、「教師と子どもの関わりを通して表現の言葉が教室において創出されてゆく過程を検討した」本に、『言葉という絆』(東京大学出版会)がある。
 この本のなかに、たむらまさひろという子の作品が出てくる。

      1おくえん
          1年 たむらまさひろ

    せんせいが1おくえんもらったら
    なにをかいたいかと
    おとうさんにきいておいでといった
    いま ぼくのおとうさんは
    にゅういんしている
    さくぶんなんかかきたくない
    だって ぼくのおとうさんは
    しんでしまうかもしれない
       おにいちゃんが
    「おとうさんはあと2かげつか
    3かげつしかもたない」といっていた
    ぼくはおかねよりも
    おとうさんのいのちのほうがだいじ
    1おくえんあっても
    おとうさんのいのちはかえない

 まさひろくんは、お母さんが家を出て、お父さんとお兄ちゃんの3人暮らし。しかもお父さんはガンで3回手術をしたが治る見込みはない。時々用もないのに教室に来ては鹿島さんに自分の病状を話し、もしものときは「正博をよろしくおねがいします」と言っていく。

 上のまさひろくんの作品は、鹿島さんが親子の会話を促し、親の思いの一端を知ってほしいと、子どもたちに「先生が、みんなのお父さんやお母さんに1億円あげたら、何に使いたいか聞いて、聞いたことを書いてきてください」と出した課題に応えたものだ。母親にまだまだ甘えたいはずなのにその母はなく、しかも生活を一手に支える父親もいつ何時どうなるかわからない。そういう厳しい日常をまさひろくんは生きている。

 鹿島さんは、「厳しい生活とたたかっている子どもは、そのことを動機として、自分のおかれている状況を深く吟味しなければならなくなり、そのことで、自分の人生を凝視した内容のある作品を必然的に書くようになってくる」という。病状が悪化して、とうとう最後の入院となる朝、まさひろくんは「声にならない声」でお父さんを病院に送り出す。このときのことを、まさひろくんは「あのねちょう」に書いてくる。

      にゅういん
         1年 たむらまさひろ

    おとうさんが
    おなかがいたいといって
    びょういんへいきました
    「にゅういんするからいってきます」
    といった
    ぼくはさびしかってかなしかった
    「いってらっしゃい」といえなかった
    なみだがでてきて
    やっと「ばいばい」といった

 何度読んでも、心が震える。「いってきます」の対の言葉は、「いってらっしゃい」。それはまた、帰ってくることを前提にしたあいさつだ。帰ることはないだろう父に、まさひろくんは「いってらっしゃい」とは言えない。その言葉を言いたいだろうに言えない、言わない。言ったら父親は、帰りを待つまさひろくんたちのことを思い、悩み苦しむだろう。だから「いってらっしゃい」は選べない、選ばない。まさひろくんは、自分が生きるこの厳しい現実、その抜き差しならない状況の中で、やっと「ばいばい」という言葉を口にする。「ばいばい」という言葉は、「いってらっしゃい」と言えないまさひろくんの悲しさや寂しさと同時に、父親と決別するその決意が、意思が滲んでいる。彼は「ばいばい」ということで、《お父さんがいなくなっても、ぼくは大丈夫》と、別れのあいさつを語ってしまっている。もちろん、彼は実際に父親との別れの時に、そんなことを考量した上で「ばいばい」と言ったわけではないだろう。「あのねちょう」を書き始める時にでさえ、そのような自分を知るよしもなかったかもしれない。きっと、まさひろくんは「あのねちょう」を書くことを通じて、そこに新たな自分を発見する。「あのねちょう」の向こうにいる鹿島さんという人をめがけて書くことで、まさひろくんは新たな自分を生きる。

 その後のまさひろくんについて鹿島さんは、この日から「生活力や行動力」があり、「周りのものに目を向ける観察力の鋭い子ども」に変わっていったとして、次の作品を紹介している。

      あさがお
         1年 たむらまさひろ

    あさおきて
    「あさがお おはよう」とゆおうとしたら
    おおきなふくらみがしていた
    かおをあらってごはんをたべて
    がっこうにいこうとしたら
    ちいさいはなが
    「ポン」といってひらいた
    ぼくは「おはよう」と
    おおきなこえでいった

 この頃の学校は、日々の生活のなかでつぶやかれ発せられる子どもたちの切実な声や思いより、学力テストの数値やいじめアンケートの回答が重視され、先生方はそれらの集計や対応、その他各種会議や報告書づくりなどで大わらわのようである。放課後に子どもたちとゆっくり話す時間もなかなか持てないと聞く。残念ながら、この4月、仙台ではまた中学生が自殺した。

 いま学校に求められているのは、鹿島さんと子どもたちとの間に育まれているような時間や関係ではないだろうか。そんなことを思った。( キヨ )

人間とは・・・ 科学とは・・・  心に響く対談

こまめに投稿という年度当初の決意はどこへやら。もう月末になってしまった。

 さて、先週4月22日に放映されたNHK番組switchインタビュー 達人達(たち)「福島智×柳澤桂子」の対談は心を強く打たれた。全盲でありながら世界で初めて大学教授となった東大教授の福島智さんと、こちらもまた難病と闘いながら思索と執筆を続ける生命科学者の柳澤桂子さんが、それぞれ自らの体験を交えながら「生きるとは何か」を語り合う内容だった。

 9歳で視力を、18歳で聴力を失った福島さんは指点字という方法で周りとコミュニケーションをとりながらバリアフリー研究者となった。一方、柳澤さんは女性の大学進学がまだ珍しかった時代に米国に留学し、最先端の遺伝子研究に取り組むが、31歳で突然、原因不明の難病に襲われ、以来、病と闘いながら生命科学について思索をめぐらせている。
 10年程前だったと思いますが、NHKのある番組で、少し元気になった柳澤さんが、有名な禅僧の方と対談された番組が放送されたことがありました。
 番組の中での柳澤さんは「この世は、分子の濃淡が違うだけである」と語り、いかにも生命科学者らしい言葉だなあとという印象をもったものでした。
 
 さて今回の対談では、番組の最後に、フランクルが名著『夜と霧』で書いたアウシュビッツの囚人が『何てきれいな夕焼け』と祈るように手をあわせたことを、「人間の脳の中には祈りの回路=DNAがある」「何に対してかといえば、私は神ではないと思っているから、それは宇宙です」と語り、「DNAの処理などはやってはいけない。畏敬の念をもつことは科学者の責任である」と結んだのでした。

 翌朝、書棚から『夜と霧』を取り出し、改めて読み直ししました。手元には1961年発行のものと、2002年新訳で発行の2冊があるが、ここでは後者の池田香代子さんの訳の方から抜きます。こちらには『壕の中の瞑想』と中見出しがついています。

 

 収容所で、作業中にだれかが、そばで苦役にあえいでいる仲間に、たまたま目にしたすばらしい情景に注意をうながすことがあった。…中略…今まさに沈んでいく夕日の光が、そびえる木立のあいだから射しこむさまが、まるでデューラーの有名な水彩画のようだったりしたときだ。あるいはまた、ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀を手に、居住棟のむき出し土の床にへたれこんでいたときに、突然、仲間が飛びこんで、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃させまいという、ただそれだけのために。
 そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的に形を変えていく雲をながめた。<中略>わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」

 

 一方、対談相手の福島さんは、「科学は人間に幸福を提供するはずだった」と結びました。                                                                                                                      <仁>

フォト・ジャーナリストの安田菜津紀さん講演会を開催します!

 安田さんは、フォト・ジャーナリストとして、カンボジアを中心に東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を行い、また東日本大震災震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けています。
 また、TBSサンデーモーニングのコメンテーターとしても活躍されており、ご存じの方も多いことと思います。知り合いからは《安田さんが来るんだね。講演会、楽しみにしてるよ》と声をかけられたりします。

 安田さんは、『3.11を心に刻んで 2013』(岩波ブックレット)で、被災地での撮影について語りながら、「写真に出来ることはとても微力だ。けれども今シャッターを切るということは、失われた命に日々想いを馳せることであり、そして次の世代に残すことなのだ。自分が残している写真が次の世代の命を救う可能性が1%でもある限り、写真を撮り続けようと思う」と結んでいます。
 このような想いは、被災地のみならず中東をはじめ、世界各地での写真から読みとることができます。ぜひ、みなさんご参加ください。お待ちしています。

フォト・ジャーナリスト 安田菜津紀さん講演会
  私の出会った子どもたち
 ~アジアや中東、日本の被災地取材から見えてきたこと~

  • と き: 5月21日(日) 14:30~16:00
  • ところ: フォレスト仙台ビル  2Fホール
  • 参加費: 500円(高校生以下、無料)

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忠良さんの「緑の風」は、いま・・・

 年明けのdiaryに、台原森林公園にある佐藤忠良さんの彫像「緑の風」について書いて写真も載せましたが、あっという間にもうすぐ4か月が経とうとしています。早いなあ。台原森林公園の桜も咲いて、ここ数日の強風で散ってしまっただろうか。( キヨ )

 春の台原森林公園と、「緑の風」です。

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   春の風
               
 わたしの頬に きてさわる       わたしの窓を きてみがく
 やさしい風の ゆびさきに       やさしい風の ハンカチに
 花のにおいが しみている       きんのひかりが はねている
  ああ おかあさん もうきている    ああ おとうさん もうきてる
  いつかの丘に あの道に        いつかの山に あの空に
  春 春 春が もうきてる       春 春 春が もうきてる

 わたしの耳に きてならす
 やさしい風の おんがくに
 小鳥のうたが ながれてる
  ああ おねえさん もうきてる
  いつかの川に あの岸に  
  春 春 春が もうきてる

 

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      アリ

     アリは
     あんまり 小さいので
     からだは ないように見える

     いのちだけが はだかで
     きらきらと
     はたらいているように見える

     ほんの そっとでも
     さわったら
     火花が とびちりそうに・・・

            (どちらも、まどみちおさんの詩 です)

平和、友好に必要なのは ?

 4月19日の新聞(朝日)に、「内閣府のホームページから災害教訓の報告書を、関東大震災時の「朝鮮人虐殺」記述への批判の声が多く削除した」という記事が載っていた。こういう記事を見たり、話をきいたりするたびに憂鬱になる。なぜもっと仲良く生きていけないのか。

 テレビは連日、北朝鮮とアメリカとのきな臭い話がつづいている。そのさなかアメリカの副大統領が来日。「平和は力によってつくられる」と言ったとか。『平和』について私のもっているイメージとのあまりの違いにあきれてしまう。

 これらのことが私に、以前読んだ心地よい話を思い出させた。

 辰濃和男さんのエッセー(2000年出版)の中にあった「ドイツ兵捕虜の遺産」で、四国遍路一番霊場霊山寺の近くにある「ドイツ館」にまつわる話である。
 著者は、その初めに次のように書いている。 

 「国際交流」とか「民際交流」とかいう言葉がはやらなかった80 年ほど前の話だ。このドイツ館のあたりで、捕虜だったドイツ人と土地の人の間に通い合う友愛があった。

 当時のドイツ兵捕虜のひとりがのちに土地の人に手紙を書いている。 

「私たちは捕虜でした。皆さんは戦勝国の国民でした。にもかかわらず私たちは心を通わせ、強く結ばれていました。友愛という一つの心に」

この話は、どういうことなのか、簡単に説明する。

 第一次大戦において、中国での5,000名近いドイツ兵の捕虜を国内に送り、この霊山寺近くの収容所には約200名、やがて1,000名にまでなり、約3年間暮らすことになる。

 収容所の所長は松江陸軍大佐。松江は捕虜にかなりの自由を与えた。小さな別荘を建てることも許した。遠足もあった。途中での水浴び、水泳も黙認した。水泳大会を開くこともあった。所内にはボーリング場もあった。オーケストラも編成された。土地の青年たちで楽器を習いたいという希望が出て、「音楽教室」ができた。菓子職人だったドイツ兵が土地の人に菓子つくりを教えた。その他いろいろの交流があるが略す。
 土地っ子たちは、親しみをこめて捕虜たちを「ドイツさん」と呼び、ドイツさんとよく遊んだ。
 捕虜のひとりは、「松江所長が私たちに示した寛容と博愛と仁慈の精神を私たちはみな決して忘れない」と言ったという。

 第2次大戦後、引揚者のひとりが雑草に覆われたドイツ兵の墓を見つけ、十数年、花を供えつづけた。それを新聞で知ったドイツ大使が墓参りに来た。それがドイツの新聞に載り交流が再開、「ドイツ館」が建つまでになったという。

 いい話だ。私にこの話を教えた人はいない。辰濃さんの本を読まなければ知らずに終わったことになる。

 えっ? 松江大佐はどうなったって? そこには触れずに終わりにしたかったのに。
 仕方ない。辰濃さんが書いている文をそのまま書き写す。 

 松江大佐のような人は、軍隊では異端者だったのかもしれない。大佐はまもなく少将になるが、49歳で予備役になる。この人事に不満を抱く多くの部下が陸軍省に抗議しようとしたのを松江少将は制止したとも伝えられている。

*「大佐」の定年は55歳、「少将」は60歳ではないかと思う。「予備役」とは退役者をさすので、昇進させながら退役させられたということになるように思う。残念なことだが、それでも、その措置に「不満をもつ多くの部下がいた」ことは救いになる。( 春 )