mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風 2 ~教室にて1~

「見下せる相手探し」の欲望の発見者——ニーチェ

 私がいま非常勤講師を務めている或る大学の講義をとおして発見したことや考えたこと、その点描を重ねてみたい。その重なり、連続線がいったいどんな風景を浮かび上がらすか、あらためてそれを観たくなったのだ。私自身が。
 ここ三回ばかり、私はマルティン・ブーバーR・D・レインの議論を紹介しながら、学生に次の問題提起を受けとめさせようと悪戦苦闘している。ブーバーの議論を借りて一言でいうなら、こうだ。

 ――君が誰かと関係を結ぶとき、その関係を「私―君」の関係で結ぶか、それとも「私―それ」の関係で結ぶか、どっちのタイプが多いか、そして、その違いはどんな違いをさらに産みだしたか、この問題を考えてみようじゃないか? と。
 こう問題を投げかけ、そしてこの問題がそのミクロの次元においても、マクロの次元でも、あらためて今日われわれに直にかかわる深刻な問題となっていることをわかってもらおうと、この問題が浮上する場として、二つの場を挙げてみた。

 一つは学校での「イジメ」という問題の場である。(実は、おいおいこの「教室にて」で取り上げるつもりだが、いま私の手元には379名の学生の書いた「私のイジメ経験」――イジメられた経験にせよ、イジメた経験にせよ、傍観者となった経験にせよ、ごくごく身近で見聞したそれにせよ――レポートが集まっている。それを丁寧に読み、そこに出現する問題の様相を克明に分析する仕事、それはこれから三ヵ月の私の大きな仕事となる。)
 もう一つは、戦争・テロリズム・民族差別という問題の場である。

 私は学生にブーバーの次の言葉をまず紹介し、さらにそれに大いに関係する言葉としてニーチェの言葉を紹介した。
 ブーバーいわく。「宗教ほど神の顔をわれわれからさえぎってしまうことのできるものは他に例がない」のと同様「道徳ほど共に在る人間の顔をわれわれからさえぎってしまうことのできるものはない」(『対話的原理』)。
 ついでに、そのさいこうつけくわえた。この皮肉で逆説に満ちたブーバーの言葉は、そのまま現代のさまざまな戦争・民族紛争・宗教戦争テロリズム、人種差別の問題を鋭く突く言葉だ、と。「我こそは正義なり」とばかり正義の旗を振りかざし、他人を裁くことに熱中する独善主義は、彼によれば、「神の顔」(慈悲の愛、平和、真実の直視を説く)を見えなくさせ、「共に在る人間の顔」つまり「君」としての隣人の顔、その本当の心を映しだしたリアルな表情も見えなくさせる作用を発揮する。(「共に在る人間の顔」が君に見えるようになるためには、君はその隣人に精一杯身を寄せ、彼・彼女の身になって、彼らの人生の経験に寄り添って、彼らの顔を見ようとしなければならない。そうしなければ、見えないのだ。この関係の取り方が相手と「私―君」の関係に入ることなのだ。そして、ブーバーにとっては「真実の宗教と道徳」と呼び得るものがあるとすれば、それは、人間のあいだにこの「私―君」関係を植え込み繁殖させようとする永続的な努力にほかならないのだ。そう私はすぐさまつけくわえる)。

 そして次にこの「独善主義」に関連づけてニーチェについてこういう紹介をおこなった。
 ――ニーチェは、妬み心・嫉妬心の強い人間・怨恨人間は、自分の敗北感・劣等意識(競争に負けた、いつも成功しない、叱られてばかりいて悔しくてしようがない、等々)を自分の意識のなかから拭い去ろうとして、見下せる相手を欲しがるものだと、鋭く指摘した。見下せる相手がないと自分の駄目さ加減ばかりが意識に登ってきて、やりきれない。そこで見下せる相手探しにやっきとなり、それが見つかると、その相手を蔑視し罵倒しているあいだだけ、自分が優位に立った人間と思えて、心が楽になる。それで、自分を劣等感の苦しさから解放するために見下せる相手探しに躍起となる。彼いわく、

ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい、──そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として<善人>なるものを考えだす、──これこそが彼自身というわけだ!」(『道徳の系譜』)

 私はこう解説した。――必要は発明の母である。ニーチェによれば、《怨恨人》とは《敵》を自分のために必要とするがゆえにそれを創りだす人間である。では、何故に《怨恨人》は《敵》を創造=捏造しなければならないか? 
 それは、彼は自分の意識の前に自分を《敵》に圧倒的に道徳的に優越した存在である<善人>として登場せしめる必要があるからだ。彼の自己意識の核は劣等感にある。だからこそ、完璧なる劣等性・道徳的劣性と一つに撚り合わされた〈悪〉としての《敵》という存在が必要となる。自己の圧倒的道徳的優越の意識が自分に貼りついた劣等感を拭い去り、この《敵》なる相手を道徳的に見下せるという意識の優位がいまだ自分が果たせぬ様々な《敵》への復讐を耐え忍ぶことを可能にさせる。そういう代表的な《敵》が必要となる。つまり逆にいえば、自分に<善人>という自己像を与えることが絶対に必要となる。その場合この自己像の案出は或る代表的な〈悪〉としての《敵》という他人像の創造と背中合わせになっている。
 つまり、こうだ。まず彼は《頭の先からつま先まで自分とは異なった存在》、言い換えれば、《彼のなかに我を見、我のなかに彼を見る》いかなる相互性も発見し得ない相手、完璧異種族の存在、《敵代表》というレッテルを気に入らない、しかも自分が優位に立てそうな奴に貼る。このレッテルを貼った相手を「基本概念」とし、そこから出発して自分をその「対照像」として捉え返す。つまり、「善人」として、しかも「摸像」として。つまり、奴は100%悪ないし劣等の塊=代表なら、こちらは100%善と優越の塊=代表だ、と。ニーチェは、この純度の意識において彼と我とは「摸像」関係にあるというのだ。

 そして、私はこうつけくわえる。――かつてあの太平洋戦争の最中、政府を筆頭に誰も彼もが「鬼畜米英打倒」と呼号しあったことを思い出そう。ついでに、イジメが始まり確立するのは、或る誰かを「キショイ・キモイ」と言い出す奴が生まれ、遂にはクラス中がそのレッテル貼りに参加し、貼り終える時だということも思い出そう。「キショイ・キモイ」は相手への生理的拒絶、つまりいかなる相互性もこの相手とのあいだには成り立たないという全面拒否宣言、異種族認定を意味する言葉だ。

 はじめ、私はいきなりブーバーやニーチェの哲学的言い回しを学生にぶつけることには躊躇があった。難解しやすぎないか、と。
 しかし、「キショイ・キモイ」を糸口に、人間にはそもそも「見下せる相手探し」の欲望があり、しかも最近それがいっそう強まっているのではないか、それが「イジメ」の根っ子に疼いているのではないかという問題提起、これをしたとき、思いのほか多くの学生から強い納得を得た。
 「実は私もそういう怨恨人です」という反応を。「世界中がそうなりだしている」という反応を。
 「私をそれ扱いするな! 物扱いするな! キショイ扱いするな! 異種族扱いするな! 君と同じく人間だぞ! だから『君』扱いしろ! してくれ!」
 この前線の風景を如何に浮かび上がらせ繫げるか?
 教室における前線と世界における前線とを。
 That's the question!           ( 清眞人 )