mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

長田弘さんは、どんな思いで『子どもたちの日本』を・・・

 詩人・長田弘の遺した著書の中に「子どもたちの日本」(エッセー集)がある。ご存知の方も少なくないだろう。
 映像がはっきり見えないと言えばそう言える書名だが、反復して読んでいると、(なんかいいなあ)と思えてくる。子どもの世界の様々を思い浮かべながら繰り返し読んでいると、「子どもたちの日本」なんて、今の日本の子どもたちの実情とあまりにもかけ離れ、夢の国みたいな様子が浮かんでくる。   
 詩人が生涯、もちつづけたのが「子どもたちの日本」ではなかったか。子どもたちの今・日本の今を憂いながら、詩人はいろいろと思いながらペンをすすめたのだろうか。

 詩人は今から3年前の2015年に亡くなっているが、このエッセー集は2000年に出版されている。そのあとがきによれば、構想を立て、書き始めたのは1996年という。
 96年と言えば、私が学校を去った年になる。
 当時は、まだまだ子どもたちは伸びやかに動きまわっていて、学校は子どもたちの城だったと言ってもまちがいではなかったと思うが・・・。
 その1990年代を書名に重ねると、詩人は、(「子どもたちの日本」なのに・・)と、決して悲観的な思いでつけたものではなかったのかもしれない。しかし、現在の私たちの国の様子を思うと、この書名といつの間にかあまりにかけ離れてきていることにやりきれなくなる。子どもたちの変化の因は子どもたちにあるのではなくて大人にあることことはまちがいなかろう。
 書名「子どもたちの日本」は、すべての人々が心豊かに住める日本と同意であり、そう言える日本への願いと受け止めるべきととらえたい。

 さて、このエッセー集は、「ひとは子どもから大人になるのではありません。子どもとしてのじぶんをそこにおいて、ひとは大人というもう一人のじぶんになってゆきます。そこにというのは、じぶんのなかにです。子どもというじぶんを見つめながら、ひとは大人というもう一人のじぶんになる。ですから、大人のじぶんのなかには、じぶんがずっと見つめてきた子どものじぶんがいます。あるいは、大人のじぶんをずっと見つめている子どものじぶんがいます。~~」と始まる。
 (そうか、そうなんだ・・・)とドキッとする。そして、素直に納得しながら、子どもの自分との同居を容易に認めがたく(まるっきり意識せずに)生きている自分にもハッとさせられる。

 もし、日常の生活の中で、「大人のじぶんをずっと見つめている子どものじぶんがいる」ことを認めて生きることができたら、他を見る目が違い生き方も違ってきて、身のまわりがこんなにギスギスしないだろうと思う。
 それはもちろん、自分の周りだけではなく、世の中全体の在り方が今とガラリと変わるのではないかとも思う。学校生活の問題に限られているように議論されている「いじめ」問題なども、詩人の言っていることを反芻してみることの意味は小さくないのではないか。
 そのためにも、詩人の言う「大人のじぶんをずっと見つめている子どものじぶんがいる」とはどんなことなのだろうかみんなで考えてみたいものだ。( 春 )