mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

新年に母を想う

 新しい年を迎えた。
 大晦日と元旦と、なにも変わらないと言えば変わらないのに、新年と思うだけで少し気分が引き締まる。そうやって一年一年を心新たに迎えるのも悪くないと思うのは齢のせいだろうか。

 一昨年3月には同居していた義母を、昨年2月に母を見送って、今年、初めて親のいないお正月を迎えた。義母95歳、母105歳の長寿だったので充分長生きしてくれたし、この年になるまで(?)親がいてくれただけでも凄いのに、もう会えないのだと思うとやはり寂しい。とりわけ、お正月のようにみんなが揃う機会には一層いない人が思われるのかも知れない。

 おせち料理を喜んでくれた二人はもういないけれど、今年もひととおりの準備をした。少しずつ省略しながら、これからもつくり続ける気がする。どんどん、くらしの中の「歳時記」がなくなっているような気がするから。

 話し好きの義母は折に触れて農家の日常のあれこれを娘時代の思い出話として語ってくれた。苦労話というでもなく、大地主の農家の育ちなのだが、それをひけらかすと言うわけでもなく、ただありのままの日常を。
 断片的に語られたそれらをつなぎ合わせると、春浅い時期から晩秋、そして雪に囲まれた長い冬ごもりの日々。季節の移ろいに合わせた暮らしぶりが一枚の「歳時記」のように見事だ。

 人間の営みがどんなに自然とともにあるのかも良く分かった。自然の恵みの何一つ無駄にしないくらしの潔さも。農業もまだまだ機械化されていない戦前の農家の日常。そこに感じるのは「豊かだなあ」ということだった。今の感覚で言う「贅沢」とは対極にあるような「豊かさ」だ。
 時には天候の異変で収穫もままならない年もあったようだし、閉塞的な村の暮らしにはきれいごとばかりではない側面もあったに違いないが、共同体としての、人と人の営みのぬくもりが確かに感じられる。

 仙台駅にほど近い街中に育った私だが、季節の変化に心を研ぎすまし、ささやかに野菜を育て、庭先の草花を楽しむ時間を大切に思う日常は、そうした義母とのつきあいの中で培われたように思う。( 道 )