mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

宮城の教師たちがつくった『生活科教科書』誕生秘話

  ~『どうして そうなの』『ほんとうは どうなの』~

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 「季節のたより 51 ケヤキ」のなかで、ほとんどの学校から歯牙にもかけられなかった生活科の教科書『どうして そうなの』『ほんとうは どうなの』を取り上げている。30年も前のことだがうれしい。千葉さんは、この教科書の編集委員のひとりだった。この教科書についてこれまで何度も書いているので「いつまで・・・未練がましい」「シツコイ!」と思われることを承知で、とうに消えたこの教科書に関わることをまた書かせてもらう。今も変わらない、教科書・その採択の制度などを考えてほしいと今も願っているから。

 組合専従の3年間が終わって現場復帰したのは1977年4月。それから間もなくの夕方、私の教室に現れたのが現代美術社の太田弘さん。これが太田との付き合いの始まり。以後、会えば必ず長時間の教育論。どの学校でも、その枠に収まりきらず、同僚に迷惑をかけつづけていた私の生き方も、太田からみれば満足できず、繰り返しケンカをしかけてくる。
 太田は、「子どもの美術」を創ったときの思いを、「同時代に生きる人間として、私たちは、本当の意味で、思いやりのある、意志の堅い、そして、創造力のある子に、全国の子どもを育てたいのでこの教科書を・・・」と強調する。その子どもたちを育てることを生業としていながら、太田のような強固な思いがはるかにおよばない私は、いつもやられっぱなしであった。

 「子どもの美術」を創る前には、中学・高校の美術の教科書を創っていたが、それらの印刷に入ると、その絵の色に限りなく近づいたものに仕上げるために1週間ぐらいは印刷所に泊まり込むというのが太田の「実践」だった。
 太田の話の数々を思い出すと、かれの生き方のベースは、生活科教科書のタイトルにした「どうしてそうなの」「ほんとうはどうなの」にあり、それが教科書づくりのベースにもなり、美術の教科書創りに止まることができなかったのだろうと思う。

 80年代の中頃から、太田は、私たち宮城民教連の主催する冬の合宿研究会に参加するようになった。戦後初の新教科「生活科」誕生が言われ始めた頃だったように思う。
 88年1月、「冬の学習会」夜の部の終了後、例によって2人での話し合いの最中に突然、「新設される生活科の教科書を宮城の力で創りたいと思うので編集委員をあなたに任せるので頼んでくれ」と言ってきた。教科書を創るということなど考えたことはまったくなく、その作業を具体的に想像することができず内心大いに驚きながらも、これまでの太田との議論から言えば、思いつめた挑戦であることを感じ、引くことはできなかった。これまでの太田との話し合いから推しはかり、6人の仲間に声をかけ、引き受けてもらえた。

 編集会議は、さっそくその翌月の2月にスタート。ほぼ毎日曜日、ないしは土日の合宿というハードな作業がつづくことになった。
 出来上がった2年生の教科書は次のような文でしめくくられた(ことばを変えれば私たちの創った生活科教科書の願いのことばと言えるだろう)。

 うごきまわる 生きものも、うごきまわらない 生きものも、
 ちきゅうの 上で みんな いっしょに 生きて いる。
 人だけが とくべつな 生きものでは ない。
 人は うごきまわる 生きものの なかまだ。

 人は、人が かんがえた ことだけを 学ぶのでは なくて、
 うごきまわる 生きものの 生きかたや くらしかた、
 うごきまわらない 生きものの 生きかたや
 くらしかたからも 学ぶ。

 そして、人が どんなに しぜんに ささえられて いるかを おしえられて、
 みんなで どう 生きるかを かんがえながら、生きて いく。

 この文が編集会議で出てきたとき、太田はおそらく、この考えを前々から持ち、美術の教科書を創りながらも、この考えでの教科書を創りたかったのだろうと私はやっと気づいた。生活科が新設される、教科新設などはめったにない(小学1・2年生だけであろうとも、このチャンスを逃してはならない)と考えたのだ。
 当たり前のことだが、この最後にたどり着くために、その前の単元をどう組んでいくかが編集会議の仕事であったことは言うまでもない。
 以来この文を思い出すたびに、教科書編集では何ほどの役にたつことはなかったのに、しょっちゅう胸がつまるのだ。

 たとえば、今もなお世界中を揺るがしているコロナ禍では何度もこのページが浮かんできた。3・11直後、被災地で防潮堤工事やかさ上げ工事の土砂を運ぶダンプの隊列を目にしてもこのページが浮かんだ。クマやイノシシが里に下りてきて困っているというテレビニュースを見てもこのページが浮かんできた。原発汚染水を海に流すというニュース、3・11後もなお原発を再稼働するというときも、このページが浮かび悲しくなった。もちろん、その他いろんな場面で・・・。

 この教科書の検定結果を受けに、太田と2人で文部省(現在の文科省)に行った。まず初めに、教科書調査官から「検定審査不合格となるべき理由書」をもらった。「不合格」通知は覚悟の上だったが、この書面の「総評」欄には、

 本申請図書は、生活科の目標である具体的活動を促す内容構成をとっていない重大な欠陥があり、学習指導要領に適合せず、教材の選択に配慮不足や問題がある。全体として文章が多く且つ難解である。

 この「総評」につづいて「範囲」「程度」「表現」の欄があり、ほぼ同様のことが繰り返し記述されていた。
 そのうえで、ページを追って具体的な修正箇所が指摘され、1・2年合わせて100ヶ所を大きく超え、「もし、つづける気があるなら修正して75日以内に提出するよう」と言われて、その日は終わった。「13社からの提出があり、12社はほとんど問題なく、1社だけが大きく違っていました。その1社があなたたちのものです」と言われても、太田も私も驚くことはなかった。
 その後編集会議はつづき、再度提出。次の呼び出しでは、まだ30数か所の修正箇所が指摘され、以後は、太田と調査官の間で詰めつづける約束をし、かろうじて教科書になった。

 検定の山は越えても、採択の山はさらに厳しかった。教科書展示会場で「なんかいいように思うんだが、どう授業すればいいんだろうね」という話し合いを耳にした。加えて、採択制度の問題がある。これらを越えることはほとんどできず、なんと全国で2採択区と、学校採択になる私学だけでのみ子どもたちの机上に広げてもらうことはできなかった。

 最後に、1年生用の教科書の最後のページを紹介して、死んだ子の歳を数える繰り言を閉じる。

  いろいろな ひとが いる。
  いろいろな かんがえが ある。
  みんな いっしょに くらして いる。

  ほかの ひとの かんがえを
  わかろうと おもって かんがえてみると、
  じぶんの かんがえが ふかく なる。

  いろいろな かんがえを
  おたがいに かんがえあうと、
  みんな いっしょに たかく なる。
                               ( 春 )