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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月10日

 漢詩一日一首」(一海知義著)のなかに取り上げられている「春興」(武元衡さく)は、次のような書き出しになっている。

 過去の中国の政治家は、すべて詩人であることを強要された。詩人にはなれぬまでも、すべての政治家が詩を読み詩を作った。理由はいくつもあろうが、その一、二をあげれば、第一に、儒家の古典である五経の中に、『詩経』が選ばれてあったこと。五経は、過去の知識人必読の書である。理由の第二は、高等文官試験である科挙の試験に、詩文創作の才能をためす科目があったこと。かくて政治家は詩人であることを強制されたのである。科挙のなくなった現代にまで伝統は及び、現代政治家の中にも旧詩を作る人は少なくない。

  この本が書かれたのは1976年だから、“現代政治家”と言っているなかに、現在の中国の政治家が入るかどうかは知らない。

 よその国の政治家はともかくとして、この文を読みながら、日本の「政治家」といわれる人々の顔が走馬灯のようにぐるぐると浮かんできて、すっかり気が滅入ってしまった。

 今の日本は誰でも政治家になれる。これはいいことであろう。財力がなければなれないとか、地盤がなければとなれば2世3世で議会はあふれるわけだから、なりたいと思えば誰でもなれるのはいい。と言っても、今の議員を見ていると、(でもなあ・・)とつい思ってしまう。

 たとえば、「祖父のやりきれなかったことを自分の手で」という方も志が高いという類になるのかもしれないが、その志が問題になるから、志があればということも、簡単に肯定はできにくい。どんなことであってもテレビでおなじみになっているから党で推薦しよう、と言われるままに議員になっていく無責任な方がおいでになるのも大いに困る。

 だからと言って、一海さんの言う、かつての中国の政治家の資質を求める方法をとるわけにもいかないだろうし・・・。

 と考えていくと、結局は、選ぶ私たちの問題だということに突き当たってしまう。これがまた、常日頃、あきれることを見せつけられているせいもあるか、「自分たちの問題」という意識の高まりにならないのがこれまでだ。

 「自分たちが決めよう」と、なんとか一度踏ん張ってみたいものだ。そうすれば何かが動き何かが変わりそうな気がするが・・・。( 春 )