mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

12月18日

 16日、投票を終えて、知人2人と在仙のAさんに会った。目的はお父さんのHさんについての話を伺うことだった。

 Hさんについてはお名前を耳にした以上のことは何も知らなかった。

 この日のきっかけは、埼玉の知人Nさん編による「ある教師の戦後史―戦後派教師の実践に学ぶ」が民主教育研究所の企画で出版、そのなかの北海道深川西高の取材に登場している30代の校長がHさんなのだ。NさんはもっとHさんを知りたいので、Aさんに連絡をとってほしいということから、16日の話し合いが実現した。

 前記の本、Nさんの聞き取りのなかでH校長について次のようなことが話されている。ある教師の戦後史表紙.tif

「H校長が学寮に訪ねて来られ、『これからの高校教育は学生時代にいろいろな活動をした人が必要だ』と熱心に説得され、この校長の下でなら、とその熱意に応えて教師になりました」

 「H校長は戦前の軍国主義教育の反省が強かったのだろうと思います。だから、一般には敬遠されるような学生運動の経験者や進歩的な考えを持っている人たちを積極的に求めていたのだろうと思います」

 「僕が3年生の時、日米安保条約が発効され、緊急の生徒集会でH校長は涙ながらにこれからの日本は大変なことになると全生徒に訴えた。僕自身の生き方を決定的に変えたのはその時のH校長だったと今でも思っています」

 「民主的なH校長が郷里である仙台の中学校に転任されてしまって大きなショックをうけました」

 Aさんは、いろいろな関係資料を持ってきて見せてくれた。そのなかの1枚は「三島校長先生を送る歌」だった。(つまり、H校長は三島校長ということになる)。

       天塩の川辺 北方の 学徒導く 長として

       来任したる 白皙の 青年校長 名は三島

       熱と若さの 体あたり あばれあばれて 忽ちに

       四隣の愛を 一身の 青年校長 名は三島

       真理の外は 何事も つゆ恐れざる 熱血は

       ユネスコ会の 長として 断乎平和を 強調す

       五百の健児に あばれろと 激励やまぬ 人格や

       スイートホームを 学び舎と 呼びて愛する 情の人

       四年の月日 夢の如 いま南に 去る人を

まさきくあれと ひたすらに 送る夕べの 涙かな

と惜しまれつつ、北海道から着任したのが白石中学校だったという。なぜ、深川西高を去ることになったか。その後、白石中学校長から仙台二高の教諭に転任。それも、なぜ。これから三島校長の歩みをどれだけ掘り込めるか、思ってもいなかった高揚する仕事が降ってわいた。