mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより34 フシグロセンノウ

  鮮やかな朱色、群れずに咲き誇る  野の花

 夏から秋にかけて林道などを歩くと、下草の緑の中から鮮やかな朱色の花が目にとびこんでくることがあります。花の名はフシグロセンノウ。花の色は、他の野草に見られない色合いなので、いちど見たことがある人なら、花の名前は知らなくても強く印象づけられる花でしょう。
 「花の百名山」の著者、田中澄江さんは、この花が好きで、「雲取山」を代表する植物の一つとして紹介しています。

 好きな花をたった一つえらびなさいと言われれば、私はナデシコをあげる。
 ナデシコ科の花の中でもフシグロセンノウが好きである。 冴えた朱いろの花弁の厚味をおびているゆたかさ。 対生した葉の花の重さを支えてたくましい形。それでいて一つも野卑ではない。 カワラナデシコのように群がらず、日光の直射を避けた日かげの林間の下草の中に、点々としてひとりあざやかに咲き誇る。(田中澄江『花の百名山』・文春文庫) 

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  下草の中のフシグロセンノウの花。ユニークな色合いが、目に鮮やか。

 フシグロセンノウは、ナデシコ科センノウ属の多年草。本州・四国・九州の山地の林下などに古くから自生している日本の固有種です。
 学名は「Lychnis miqueliana」。属名の「Lychnis」(リクニス)は、「炎」を表し、種名の「miqueliana」(ミクエリアナ)は、「ミクェル博士の」という意味です。ミクェル博士(フリードリッヒ・アントン・ヴィルヘルム・ミクェル)は、シーボルトの日本滞在中の植物コレクションを集大成したオランダの植物学者です。

 フシグロセンノウは、漢字で書くと「節黒仙翁」。いかにもいかめしい天狗か仙人のような名前ですが、センノウというのは、中国長江流域原産のナデシコ科の花のことです。1300年頃、仙翁という中国からの渡来僧がこの花を日本にもたらし栽培されていたものが、京都の嵯峨の、今は廃寺となった仙翁寺という寺あたり一面に咲き乱れていたことから、その名をセンノウと名づけたもののようです。(内藤登喜夫「四季の山野草栽培」NHK出版)
 フシグロセンノウはそのセンノウの仲間で、花の茎の節の部分が黒紫色になっていて、それが黒く見えるので、「フシグロ」がついています。

 別名に逢坂草(おうさかそう)または逢坂花(おうさかばな)という古名があります。これは、山城国(京都)と近江国(滋賀)の国境で、古来から歌枕として和歌に詠まれた「逢坂の関」があった逢坂峠でこの花が見られたことから、そう呼ばれるようになったようです。京都から大津へと逢坂峠を越える多くの旅人がこの花を眺めながらほっと一息つくありさまが浮かんでくるようです。

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 つぼみを包むガクは長い筒のよう。先が5つに割けています。

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 つぼみをほぐすように、花びらが開いていきます。

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 開いた花は、おもに水平な状態で咲いています。

 フシグロセンノウの花の時期は長く、7月頃から咲き出し、10月初めころまで咲いています。茎は直立し、草丈は50~80cmくらい。枝分かれした茎の先に、直径約5cmほどの朱色の花を数個咲かせます。花びらは5枚、花びらの中央脈が目立ち、先端は丸く、センノウの花のような切れ込みが入りません。
 花びらの1枚をそっとぬいてみると、花びらの見えていない下の部分が白く直角に曲がっています。こどもたちは、この花びらを重ねあわせて、白い部分を軸にして、小さなお膳や炬燵を作り、ままごと遊びをしていました。
 山梨県小菅村の「漁協ブログ・お膳花」には、お膳の作り方が紹介されています。こどもたちがままごとでよく遊んでいた地方では、フシグロセンノウの花を、「オゼンバナ」(山梨県郡内地方・福島県会津地方など)や「コタツバナ」(長野県飯田地方)と呼ぶ方言が残っています。
 フシグロセンノウに限らず、「草花遊び」といわれる遊びは、こどもたちの知恵や工夫から生まれたもの。目の前にある草花を、その性質や特徴をうまく生かして遊びの小物に変えてしまう手仕事は、昔の大工や生垣、屋根葺き職人などの職人技に通じるものでしょう。

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  真上から見たフシグロセンノウの花の形。透過光に輝く花びら。

 フシグロセンノウの花の雄しべは10本ですが、変わっているのはその10本が2段階に出てくるところです。先に5本の雄しべが出てきます。その雄しべの花糸が伸びて、先端の葯(花粉の入った袋)が熟して花粉を出します。その花粉がなくなり、花糸が外側にたおれて後退したあとに、次の5本の雄しべが現れ、花粉を出し始めます。下の写真はそのようすです。

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 咲いたばかりの花。中央にあるのは、5本の雄しべの葯。
 花粉は出ていません。

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 雄しべの花糸が伸びて、葯が開き、花粉を出します。

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 最初の5本の雄しべが役割を終えると、さらに
 5本の雄しべが出てきます。

 雌しべは、後に出る5本の雄しべが出揃い、花粉をすっかり出し終えたあとから、おもむろに現れます。雌しべには、花柱(子房と先端の柱頭をつなぐ)が5本あって、その先端の柱頭がゆっくり熟して、他の花からの花粉を待つのです。

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 2度目の雄しべが出揃った後に、おもむろに雌しべが現れます。

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 雌しべの花柱は5本、先端の曲がっているところが柱頭です。

 花の雄しべが2段階に分かれて花粉を出すのは、受粉率をより高めようとしているためでしょう。雌しべの成熟を遅らせ、自家受粉できないようにし、他の花からの花粉を待つしくみも万全です。あとは花粉を運んでくれる虫を待つばかり。ところが、野山を歩くと、受粉できずに終わっている花をかなり目にします。単独では目立っても、群れずに咲く花なので、虫が訪れるチャンスが少ないのでしょうか。

 受粉できた花の後には、長い棒のような実ができます。この実は蒴果(さくか)といって、熟すと果皮が裂けて開きます。枯れるとガクと同じ色で見分けにくいのですが、この蒴果が熟すと、ガクの開いた先のところでクルンと5つに裂けます。熟した蒴果を逆さにして振ると黒い種がたくさん出てきます。小さな種はその場にこぼれて仲間をふやします。

 秋の終わりにはフシグロセンノウの地上部は枯れてしまいます。根は地下に残っているので、翌年再び花を咲かせることができます。野草とは思えない鮮やかな朱色の花は人目を引き、手折られることも多いのですが、根が残っている限り大丈夫です。
 種の分布のしかたは、ただこぼれ落ちるだけなので、仲間をふやすには、極めて控え目な感じがします。フシグロセンノウの群落があまり見られず、単独か数本で咲いていることが多いのも、そのためでしょう。
 フシグロセンノウの好む場所は、比較的涼しく湿った半日陰の環境です。一気に増えるということはなく、森や林のひっそりとした場所で、息長く命をつないできた花のようです。

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   咲き終えた花とこれからのつぼみ

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   細長い実(蒴果)と種子のようす

 このフシグロセンノウの花が好きだった人がもう一人いました。孤高の仙人のような画家とも言われた熊谷守一画伯です。 
 文化勲章を辞退、76歳で軽い脳卒中で倒れてからは、そのほとんどを豊島区の自宅で過ごし、昼間は15坪ほどの庭で飽きることなく虫や草花を観察をしていたといいます。

「地面に頬杖をつきながら幾年も見ていて分かったのですが、蟻は左の2番目の足から歩き出すんです」(画文集「ひとりたのしむ」・求龍堂

これは、画伯の有名なことば。

 亡くなる2年ほど前に描いた油絵で絶筆となったのが、「あげは蝶」(1976年)という作品。真ん中に黒々としたアゲハチョウが描かれ、そのチョウがとまる草花には、上に二輪、下には一輪の鮮やかな朱色の五弁花が咲いています。それが、フシグロセンノウの花。

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 田中澄江さんは、熊谷守一画伯と親交があって、よく自宅を訪れ庭にいろんな草花を植えてあげていたようです。

 鴨沢にむかう途中の杉林のかげにフシグロセンノウがたくさん芽をだしていた。山へきて花をとってはいけないことはよく知っているけれど、その特徴のある若芽を幾つか見ているうちに2本とりたい、野の花ではフシグロセンノウが一番好きだと言われた熊谷守一さんの庭にもっていってあげたいと思った。
               (田中澄江『花の百名山』・文春文庫)

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   ふたりが、フシグロセンノウの花に見ていたものは・・・

 山の自然と草花を愛した田中澄江さん、自然を友とし小さな生きものへの愛情を注ぎ、描き続けた熊谷守一画伯。おふたりがフシグロセンノウの花に見ていたものは、群れず、野卑でなく、ひとり鮮やかに咲き誇る、野の花の生き方のような気がします。(千) 

◆昨年8月「季節のたより」紹介の草花

正さんのお遍路紀行(四国・愛媛編)その6

 菩提の道場 ~8日間で愛媛を歩く~

【6日目】3月20日(火)   ~ のんびりと野道を歩く ~

今治H(8:00)⇒ 4㎞  56泰山寺 ⇒ 4km  57栄福寺 ⇒ 4㎞  58仙遊寺
    ⇒ 8km  59国分寺 ⇒ 2km  JR伊予桜井(14:28)⇒ JR今治(14:39)

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                    仙遊寺への登り

スウェーデン青年とばったり!》
 仙遊寺の山門をくぐると、急坂が待ち受け、最後の階段前で息を整えていたら、昨日会ったスウェーデン君とばったり!「よお!足は大丈夫か?」と声をかけると「昨日はやっとここまで歩いてきて、お寺に泊まりました。今日はこれから出発です。」とのこと。なかなかまっすぐなやつだなあと思い、「プレゼントやるから。日本で一番おいしいみかん。せとか。1個しかないけど仙台の後輩だから食べてくれ。とにかく足大事にな。」と見送る。今に思えば、名前ぐらい聞いておけばよかったかな?

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     再度、スウェーデン君とばったり!

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                       次に目指すは下に広がる町中の「国分寺!」

《59番 国分寺
 握手修行大師様が立っていたので、思わず手を握ってしまう。温かい手(?)だった。像近くの掲示板に「弘法大師様はとても忙しいお方です。お願い事は一つだけにしましょう。」と書いてあった。ちょっと笑いそうになった。初めは、うまいジョークだなあと思ったが、いやそうじゃないと思い直す。“欲深さを持つなよ”ということなんだな。

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   よろしくお願いします!     桜と菜の花みっけ!

 この日は、何とも中途半端な時間で予定を終えてしまった。やっぱり一筆書きの計画にすればよかったと思った。残りの時間は、サイクリストが日本で一番集まるという今治の温泉で汗を流した。当初の予定では、今治で1日休憩を取り、自転車で“しまなみ海道”の偵察をすることにしていたのだが、歩くことを優先にしたのだった。この中途半端はそのせいでもある。
 明日で愛媛を終えるので、のんびりする時間もありがたいと思わねば。

西からの風17(葦のそよぎ・そうしき)

 奄美大島でおこなわれた親戚の葬式にぼくはこのあいだ出かけた。父の従兄弟にあたる老人の葬式だから、実のところわざわざぼくが出向く理由はなきに等しい。しかし、ぼくは父の名代という口実のもと奄美に出かけたのだ。
 奄美の葬式を見たかったのである。
 そこに集まる人々の顔や物腰を、葬列がとおる家並みの様子や樹木、空と道の風情を。
 あらゆる装飾的なものを空しくさせる死の厳粛さのなかに奄美の風景を見出してみたくなったのである。

 奄美はぼくの家族の本籍地であった。だが、ぼくがそこで生まれたわけではない。父が生まれたのだ。しかし、その父ですら物心つくかつかぬかの頃朝鮮に一家で渡っていったのだから、このぼくの本籍地はぼくにとってはまるで夢の記憶のような土地なのだった。祖母、そして父の兄弟のなかではただひとり奄美と今も深い交渉をもっている父の弟である叔父が、ごく稀な出会いのなかでぼくに語ってくれた話だけが、ぼくと奄美とをつなぐものであった。

 とはいえ、ぼくは昔から秘かに自分の本籍地が奄美であることを自慢してもいたのだ。子供じみた自慢から、あの南の果てからぼくの父たちはやってきたのだと考えることは、もうそれだけでぼくに特別な血を、気性を、約束してくれるようであった。ぼくはこの日本に自分が決して折れ合ってしまわないことを願い、それを保証するものとして自分の血に異人の血が混じっていることを望んだが、ちょうどそれに代わるものを与えてくれるものとしてぼくの書類のうえだけのこの本籍地を空想した。

 葬儀には町内のみならず全島からたくさんの人々が参加した。この71歳で死んだ老人は青年時代からさまざまな意味で勇名をとどろかせ、40代からは奄美一の土建業者として有名であった人物であった。葬儀には実に千人をこえる人々が集まった。
 ぼくは親戚一同が並ぶ焼香壇わきのテントのなかから焼香する人々の横顔を見詰めていた。ぼくが感銘を受けたのはまさしく人々の顔つきであり、その身体であった。たんに土建業者の参列が多かったという理由からだけではあるまい。葬儀に参列した奄美の人々、陽に焼かれ褐色の肌をした人々、とりわけ老人たちの顔とその身ごなしには自然との格闘のあとがそのまま刻みつけられていた。

 彼らは重々しく足を葬儀場の砂地に引きずった。彼らの足はぼくよりも大きく重いのだ、とぼくは思った。肩は黒い喪服のなかで少し吊り上げられた風にもりあがって、かしいでいた。重荷が肩をこぶのように発達させ、そして身体を一方にかしがせてしまったのだ。手は重そうにポケットわきにたれていた。きっとその指はごつごつと固く節くれだってぼくの二倍はあるにちがいない。
 土を掘り、運び、盛り上げ、砂糖きびを刈り、束ね、運ぶ、そうした肉体労働が彼らの身体を変形させたのだ、とぼくは思った。
 労働とは人間にとって根源的にまず自然に自己の身体を立ち向かわせる肉体労働なのだ。しかしそのことをぼくは忘れていた。肉体もまた一個の自然である。自然を変形する肉体はそのことでみずからも変形させる。人々の身体は自然の暴力の刻印を帯び、顔は厳しく重い。その不格好、その表情の厳しさや重さは、自然にいわば徒手空拳で立ち向かわねばならなかった原始の人間の重荷をそのまま伝えるもののように思えた。そのような厳粛さというものをついぞぼくは忘れていた。

 ぼくの祖母の郷土は奄美本島のなかでも、その南の端であった。本島南部の古仁屋という港からさらにフェリーにのって対岸の島にわたり、山を越えてその島の向こう側に出ると、そこに打ち寄せているのは東シナ海の外海であり、さらにその海上をゆけば徳之島を挟んでもうじきに台湾なのだ。その東シナ海にむかう入り江の村が祖母の里であった。ぼくは葬儀の翌日母や叔父たちと連れ立ってこの祖母の里にまで足をのばした。
 そこにあったのは戸数約70戸、住民200数十名の小集落であった。ご多分にもれずここも過疎の波にあらわれている。この集落にある小学校に通う子供は今年わずか11名、毎年のように廃校が取り沙汰されるという。

 そこには人間の集落の原型があった。
 なんとまあ人々は肩寄せあって暮らしていることよ、思わずぼくは胸の中で声をあげた。
 確かにその入り江は小さい。海に眼を転ずれば、そこには眼の高さいっぱいに広がるように茫々たる東シナ海の外洋が押し寄せているし、ふりかえればただちに山裾が海岸線まで迫っている。とはいえ、そんなにまで軒を連ねなくともと、思わずいいたくなるような具合に家々は垣を接し、軒を連ねて、集落を組んでいるのだ。

 そのときぼくは前日の葬儀での印象を思い出していた。人間の労働は根源的に肉体労働であったことについて、焼香する奄美の老人たちの姿を見ていてぼくはあらためて感じるところがあったのだが、肩寄せあう集落の切なげなたたずまいに、ぼくはそれと似た或る原型的なものの存在を感じた。人間はそれ以外の仕方では決して自然の脅威のなかで自己の生存を可能にすることはできない。それは、それ自身一個の自然である人間の生命が命じる絶対的な必然性なのだ。必死の様で寄り添っているその集落の切なさは、しかし、厳粛であった。
 奄美の葬式は厳粛であった。ぼくはあれほど厳粛な葬儀にはこれまであったことがなかった。千人に及ぶ参列者は真実一個の人間の死に敬意を払っていた。それは弔われるぼくの親戚の老人の威光のなせるわざであるとは思えなかった。端的に死を敬意をもって厳粛に迎え送る、人間の根源的な共同体がまだそこには生きているからだと、そうぼくには思えた。(清眞人)

※ 書かれたのは90年代前半。すでに四半世紀前になりますが、清さんにとって
 この奄美大島との出会いが、その後の新たな人生遍歴と思索の出発点と
なってい
 きます。そして、それらは『根の国へ  秀三の奄美語り』『唄者  武下和平のシマ
 唄語り』『奄美八月踊り唄の宇宙』などの出版へと結実していきます。(キヨ)

夏休み明けは、『1年生めんこいゼミ』から

 まだまだ暑い日が続きますが、そろそろ夏休みも終わりですね。お盆の時期にかけて研究センターもお休みしてましたが、また活動開始です。
 夏休み明け最初の学習会は「1年生めんこいゼミ」となります。是非ご参加ください。

日 時 8月28日(水)18:30~20:30
会 場 みやぎ教育文化研究センター
内 容 ① 子どもをカタルシス(18:30~19:30)
     子どもたちの関係を深めるために、お互いの経験や知恵を交した
     と思います。

    ② さんすう「10より大きいかず」(19:30~)
     1年生が「じゅうに」を「102」と誤記することがあります。そ
     れは位取りの仕組みと表記の関係の理解不足が原因です。
     今回は、加減法のくり上がり、くり下がりの大切なステップとなる
     位取りについて取り上げます。

  ※ ほかに子どもたちと短時間で楽しめる歌やゲーム、手遊びなども取り
    上げたいと思っています。

【前回の様子】
 「子どもをカタルシス」では、ひらがなの授業が進むなか、なかなか文字を覚えられない子や、同様にさんすうで数が覚えられない子のことが話題に上がりました。
 参加者からは、「音とひらがなの『文字記号』が結びついていないのだろうから音声化される50音表を使うなど、遊び感覚で補えないだろうか」、「50音表を使ってでも読もうとしているなら、まずはその意欲を認めてあげることが大切」、「具体物の持つ性質から、数だけを取り出して理解するのは高度なこと。その子が何なら数を認識できるか、絵や具体物を使って探してみたら」などのやり取りがされました。

 後半の「『ひらがな』から『文』へ」では、ひらがなを覚えた子どもたちに、これからどんな学びの経験や体験をさせていくことが大事なのかを、夏休みの「絵日記指導」を切り口にしながら交流しました。
 そこでは、①誰にむかって書くか?書く相手をはっきりさせる ②子どもの書いたものをどう受け止めるか ③文を自由に作れない時期は、絵などで補うとよい ④お話ポストで、遊び感覚で書くことを楽しむなど、参加者それぞれの経験を交えながら楽しく話し合いました。 

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第1回 仙台市いじめ防止等対策検証会議を傍聴して

 仙台市は、今年の3月12日に制定した「仙台市いじめ防止等に関する条例」にもとづき、行政の新たな取り組みの一つとして「仙台市いじめ防止等対策検証会議」(以下、検証会議)を設置し、今月8月1日に第1回の会議が持たれました。第2回会議は、なんと明日8月21日です。ぎりぎりの報告となりますが、傍聴しての雑感を述べたいと思います。

 冒頭に記したように、検証会議は「仙台市いじめ防止等に関する条例」にもとづき新たに設置された機関です。その設置目的は「市長および教育委員会が講ずるいじめの防止等のための対策について検証し、及び検討を加え」、その結果を市長に毎年度報告するものとされています。要するに、現在取り組まれているいじめ対策が効果的に機能しているのか否か、機能していないとすればどのような改善や新たな取り組みが必要なのかなどを検証・検討するということです。また市長はその報告を受け必要に応じて、いじめ対策の見直しを行うことにもなっています。

 検証会議は新たに設置された機関であることに間違いありませんが、実はこれまでも「仙台市いじめ対策等検証専門家会議」(以下、専門家会議)という、非常に似た名称の会議が行われていました。設置目的もほぼ同じですし、また今回の会議で選出された会長の氏家靖浩さん(仙台白百合女子大学)、副会長の庄司智弥さん(弁護士)は、二人とも専門家会議の委員でもありました。ですから検証会議はまったく新しい組織というより専門家会議を継承するものとして、その運営や審議の進行をみていく必要があるだろうと感じました。同時に、そうは言っても新たな組織なのですから、構成メンバーを含め、そこでの新たな議論の内容とゆくえついてみていく必要もあるでしょう。

 さて、そのような視点から第1回の検証会議を見た場合に、いくつか気がついたことがあります。
 一つは、仙台市教育委員会のいじめに関する第三者機関「いじめ問題専門委員会」の委員長を2017年春まで務め、辞意を表明し辞められた本図愛実さん(宮城教育大学)が改めて本会議の委員になられたということです。本図さんは、いじめ自死の遺族との間で、その報告書の内容をめぐって議論のあった際の委員長でもあります。その本図さんが、改めて委員になられたということの思いや決意がどのようなものなのか。
 自己紹介のなかでは《先生たちの心の余裕が必要》と述べ、本会議では、各学校におけるいじめアンケートが本当に意味あるものになっているのか、そのことを教師のアンケート処理とその後の対応への労力などの視点から発言・質問し、また事務局を含め若干の議論がなされました。議論のやり取りを聞いての印象ですが、本図さんのなかにはアンケート以外の、もっと違う形の取り組みや先生たちの時間の創出が必要だとの思いがあるのではないかと感じました。個人的には、その点をきちんと聞いてみたいと思いましたし、また大学内外で学校教職員との接点も多いだろうことを考えれば、先生方の働き方改革も叫ばれるなかで、そのような点からも先生方の声を生かすような発言・提案がなされることを期待したいとも思いました。

 二つに、専門家会議で目玉施策として打ち出された(新聞などでも報じられた)「コミュニティースクール」が、なぜか検証会議の検証・検討リストからは除外されていることです。専門家会議でコミュニティースクールが取り上げられたときは、《なぜ、いじめ対策としてコミュニティースクールが提案されるのか》、その唐突さに違和感を感じました。同会議ではコミュニティースクールがいじめに有効であることの実証的なデータや実践が示されることがほとんどないなかで、保護者や地域との連携や協力が必要との委員たちの印象論のなかで決まった感じでした。そのコミュニティースクールが、今回の検討会議では不問に付されることになります。地域や保護者も巻き込んで、学校の在り方そのものを大きく変える施策であるにもかかわらず、なぜ検証も検討も行わないのか。そもそもコミュニティースクールは、いじめ対策のために打ち出され提言されたものではありません。専門家会議は、そのようなコミュニティースクールを、いじめにかこつけて打ち出したという印象を強く感じます。そういう代物だからこそ、実は検証も検討もできないのかもしれませんが・・・。
 すでに「コミュニティースクール」については、その施策立案の舞台は仙台市教育委員会(以下、市教委)に移行しています。市教委のなかで、いじめに関わってどのような議論がなされるのか否か、そういうことを本検証会議との関わりでみていく必要もあるかと思います。
 また市長部局の教育総合会議にみられるように教育に関する首長の権限と発言力が大きくなってきている中で、教育施策を決定実施していく際に、首長および首長部局はどのような内容について、どこまで発言する権限があるのか。その点についても、この検証会議の動向なども踏まえながら考えていく必要があるでしょう。

 検証会議のメンバーは正副会長と本図さん以外には、仙台市校長会副会長の志賀琢さん(幸町中学校長)と公認会計士の古川直磨さんです。
 この日の会議では、いじめ防止対策のうち「いじめ対策専任教諭の配置」「児童支援教諭の配置」や、先のいじめアンケートなどを中心に話し合いがなされました。
 ちなみに志賀さんは学校長として自身の学校での実情や実態を中心に発言していました。学校現場の貴重な発言として受け止める必要がある一方で、必ずしも学校現場全体の意見ではないという点も踏まえておく必要があると思いました。また志賀さんは事務局の市教委メンバーにお伺いを立てるような姿がみられ、少し気になりました。検証会議は第三者機関なのですから、市教委に気兼ねすることなく現場からの発言をしてもらいたいと思います。
 公認会計士の古川さんは、自己紹介のなかで《公認会計士の自分が委嘱されたのは、様々な政策の目的設定に対しての効果がどうなのかということで期待されてのことだと思っている。そのような点から発言していきたい》と話されました。いじめ対策の効果を何をもって効果がある無しと判断し評価するのか。財政支出にともなう費用対効果的な視点だけでなく、教育の条理も踏まえながら検証を進めてもらいたいと思いました(例えば、今回の会議の中で話題となった学校アンケートは、財政支出としてはゼロです。費用対効果的な視点で言えば、その場合この施策の検証・評価はどのような視点・観点でなされることになるのか。本図さんは、その検証・検討の視点として教師のアンケートに関わる様々な労力と時間の視点を提起されていたように思いました)。

 最後に、会議全体の進行に関わって気になったことを述べると、1回目の会議にも関わらず具体的な対策について話し合いが行われたことは、たいへん意欲的な運営・進行とみることができますが、議題となった個々のいじめ対策について具体的・実証的なデータが提示されない中での議論は、各委員の個人的体験や認識にもとづく印象論のレベルを超えるものではないと言わざるを得ません。ぜひ検証・検討に値する議論を望みたいと思います。(キヨ)

 明日の第2回検証会議は、13:30~、仙台市役所本庁舎2F 第4委員会室で行われます。ぜひ関心を持たれた方は、傍聴してみてはどうですか。傍聴ですから楽しい会議とはいえませんが、どのような議論や審議の中で様々な施策が決定され実施されるに至るのか。そういうことを市民として、この目で見ることに意味を見いだすのであれば、ぜひ行って見て下さい。

新たな授業づくりのヒントや作品のおもしろさを発見!

 仙台七夕ど真ん中の8月7日に行われた『夏のこくご講座』。当日は資料印刷などで、話をじっくり聞けなかったりということもありましたが、全体会そして分散会の報告や話し合いを通して、《えっちゃんにとって帽子と名前がどれだけ大事なのか》や《未知のビーバーの生態と暮らしを知ることの楽しさ、おもしろさ》など、教材についての新たな発見や授業づくりのヒントを掴んでくれたようです。

【参加者の感想から】
・学習会、大変ためになりました。2年生の国語教材、何回も教えているので
 すが、話し合うことにより新たな発見などがあって、教材観が深まったよう
 な気がします。このことを今後やくだてていきたいです。

・ずっと前から教科書で取り上げられているスイミーですが、小2より学年が
 下がり小1で学習するのには想像することが大切だと思いました。すぐに使
 える実践、どのようにしたら子どもたちに楽しくわかりやすい授業ができる
 のかがわかりました。参加してよかったです。

  また秋にも講座を開催しますので、ぜひみなさん参加してくださいね。

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正さんのお遍路紀行(四国・愛媛編)その5

 菩提の道場 ~8日間で愛媛を歩く~

【5日目】3月19日(火)   ~ 雨の中せっせと歩く(昼過ぎまで雨) ~

JR松山(8:20)⇒ JR三津浜(8:24)⇒ 4km 52大山寺 ⇒ 3km 53円明寺
 JR伊予和気(11:35)⇒ JR大西(12:17)⇒ 4km 54延命寺 ⇒ 4km 55南光坊
 ⇒ 2km ⇒ 今治着(16:00)

 今回のおへんろ日程を考えていた段階では、雨の日もあるだろうからと、予備日を1日作っていた。ところが、歩くことを続けてきたら、“ 雨。なんのその。じゃぶじゃぶ行こう!” になっていた。

 朝から本降りだったので、楽天ポンチョで出発。
 1時間ほど歩くと、首元から雨が内側に流れ込み、ザックのショルダーベルトまで濡れた。もちろん服も濡れて寒くなった。なんでなんでと原因を探ったら、ポンチョのフードをかぶらずに首のところで折っていたので、どうしても首回りに隙間ができて、そこから流れてきていた。頭には菅笠をかぶっているので、フードは使えない。しかし、最後は寒さに我慢できず、フードをかぶった上から菅笠をかぶった。妙な格好になっているに違いないが、知ってる人など誰もいない。気にする年でもないしな。

《同郷!スウェーデン青年》
 JR大西駅で下りたら、さわやかな外国青年おへんろがいたので話しかけてみた。そうしたら日本語ぺらぺらだったので、いくつか質問してみた。スウェーデンからの留学生で、今春休みなだから、それを利用して廻っているとのことだった。日本の有名処は去年行ったので、四国お遍路という普通ではできない日本を体験してみたかったようだ。
 「ほんで、大学はどこなの?」「T大学です。」「えー!仙台じゃないか!ほらほらこれ見て。」おいらの金剛杖に書いてある仙台の文字を見せたら、スウェーデン君も「リアリイ!!」とびっくりしていた。まさかこんなところで同郷人と会うとは思っていなかったので、なんだかうれしくなってしまった。彼は足首を痛めてしまって、ちょっと辛いと言っていたので、「おへんろはタイムレースじゃないんだから、ゆっくり来な」と声をかけて、延命寺に向かった。

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              月 と 今治城

  本日の目的地に思ったよりも早く着いたので、今治城まで歩いてみた。雨の上がった夕方にお城が映えていた。
 半日以上雨だったので歩く楽しさはなかったかな。それでも、平地は本当に楽だと感じた。