mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより34 フシグロセンノウ

  鮮やかな朱色、群れずに咲き誇る  野の花

 夏から秋にかけて林道などを歩くと、下草の緑の中から鮮やかな朱色の花が目にとびこんでくることがあります。花の名はフシグロセンノウ。花の色は、他の野草に見られない色合いなので、いちど見たことがある人なら、花の名前は知らなくても強く印象づけられる花でしょう。
 「花の百名山」の著者、田中澄江さんは、この花が好きで、「雲取山」を代表する植物の一つとして紹介しています。

 好きな花をたった一つえらびなさいと言われれば、私はナデシコをあげる。
 ナデシコ科の花の中でもフシグロセンノウが好きである。 冴えた朱いろの花弁の厚味をおびているゆたかさ。 対生した葉の花の重さを支えてたくましい形。それでいて一つも野卑ではない。 カワラナデシコのように群がらず、日光の直射を避けた日かげの林間の下草の中に、点々としてひとりあざやかに咲き誇る。(田中澄江『花の百名山』・文春文庫) 

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  下草の中のフシグロセンノウの花。ユニークな色合いが、目に鮮やか。

 フシグロセンノウは、ナデシコ科センノウ属の多年草。本州・四国・九州の山地の林下などに古くから自生している日本の固有種です。
 学名は「Lychnis miqueliana」。属名の「Lychnis」(リクニス)は、「炎」を表し、種名の「miqueliana」(ミクエリアナ)は、「ミクェル博士の」という意味です。ミクェル博士(フリードリッヒ・アントン・ヴィルヘルム・ミクェル)は、シーボルトの日本滞在中の植物コレクションを集大成したオランダの植物学者です。

 フシグロセンノウは、漢字で書くと「節黒仙翁」。いかにもいかめしい天狗か仙人のような名前ですが、センノウというのは、中国長江流域原産のナデシコ科の花のことです。1300年頃、仙翁という中国からの渡来僧がこの花を日本にもたらし栽培されていたものが、京都の嵯峨の、今は廃寺となった仙翁寺という寺あたり一面に咲き乱れていたことから、その名をセンノウと名づけたもののようです。(内藤登喜夫「四季の山野草栽培」NHK出版)
 フシグロセンノウはそのセンノウの仲間で、花の茎の節の部分が黒紫色になっていて、それが黒く見えるので、「フシグロ」がついています。

 別名に逢坂草(おうさかそう)または逢坂花(おうさかばな)という古名があります。これは、山城国(京都)と近江国(滋賀)の国境で、古来から歌枕として和歌に詠まれた「逢坂の関」があった逢坂峠でこの花が見られたことから、そう呼ばれるようになったようです。京都から大津へと逢坂峠を越える多くの旅人がこの花を眺めながらほっと一息つくありさまが浮かんでくるようです。

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 つぼみを包むガクは長い筒のよう。先が5つに割けています。

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 つぼみをほぐすように、花びらが開いていきます。

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 開いた花は、おもに水平な状態で咲いています。

 フシグロセンノウの花の時期は長く、7月頃から咲き出し、10月初めころまで咲いています。茎は直立し、草丈は50~80cmくらい。枝分かれした茎の先に、直径約5cmほどの朱色の花を数個咲かせます。花びらは5枚、花びらの中央脈が目立ち、先端は丸く、センノウの花のような切れ込みが入りません。
 花びらの1枚をそっとぬいてみると、花びらの見えていない下の部分が白く直角に曲がっています。こどもたちは、この花びらを重ねあわせて、白い部分を軸にして、小さなお膳や炬燵を作り、ままごと遊びをしていました。
 山梨県小菅村の「漁協ブログ・お膳花」には、お膳の作り方が紹介されています。こどもたちがままごとでよく遊んでいた地方では、フシグロセンノウの花を、「オゼンバナ」(山梨県郡内地方・福島県会津地方など)や「コタツバナ」(長野県飯田地方)と呼ぶ方言が残っています。
 フシグロセンノウに限らず、「草花遊び」といわれる遊びは、こどもたちの知恵や工夫から生まれたもの。目の前にある草花を、その性質や特徴をうまく生かして遊びの小物に変えてしまう手仕事は、昔の大工や生垣、屋根葺き職人などの職人技に通じるものでしょう。

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  真上から見たフシグロセンノウの花の形。透過光に輝く花びら。

 フシグロセンノウの花の雄しべは10本ですが、変わっているのはその10本が2段階に出てくるところです。先に5本の雄しべが出てきます。その雄しべの花糸が伸びて、先端の葯(花粉の入った袋)が熟して花粉を出します。その花粉がなくなり、花糸が外側にたおれて後退したあとに、次の5本の雄しべが現れ、花粉を出し始めます。下の写真はそのようすです。

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 咲いたばかりの花。中央にあるのは、5本の雄しべの葯。
 花粉は出ていません。

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 雄しべの花糸が伸びて、葯が開き、花粉を出します。

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 最初の5本の雄しべが役割を終えると、さらに
 5本の雄しべが出てきます。

 雌しべは、後に出る5本の雄しべが出揃い、花粉をすっかり出し終えたあとから、おもむろに現れます。雌しべには、花柱(子房と先端の柱頭をつなぐ)が5本あって、その先端の柱頭がゆっくり熟して、他の花からの花粉を待つのです。

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 2度目の雄しべが出揃った後に、おもむろに雌しべが現れます。

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 雌しべの花柱は5本、先端の曲がっているところが柱頭です。

 花の雄しべが2段階に分かれて花粉を出すのは、受粉率をより高めようとしているためでしょう。雌しべの成熟を遅らせ、自家受粉できないようにし、他の花からの花粉を待つしくみも万全です。あとは花粉を運んでくれる虫を待つばかり。ところが、野山を歩くと、受粉できずに終わっている花をかなり目にします。単独では目立っても、群れずに咲く花なので、虫が訪れるチャンスが少ないのでしょうか。

 受粉できた花の後には、長い棒のような実ができます。この実は蒴果(さくか)といって、熟すと果皮が裂けて開きます。枯れるとガクと同じ色で見分けにくいのですが、この蒴果が熟すと、ガクの開いた先のところでクルンと5つに裂けます。熟した蒴果を逆さにして振ると黒い種がたくさん出てきます。小さな種はその場にこぼれて仲間をふやします。

 秋の終わりにはフシグロセンノウの地上部は枯れてしまいます。根は地下に残っているので、翌年再び花を咲かせることができます。野草とは思えない鮮やかな朱色の花は人目を引き、手折られることも多いのですが、根が残っている限り大丈夫です。
 種の分布のしかたは、ただこぼれ落ちるだけなので、仲間をふやすには、極めて控え目な感じがします。フシグロセンノウの群落があまり見られず、単独か数本で咲いていることが多いのも、そのためでしょう。
 フシグロセンノウの好む場所は、比較的涼しく湿った半日陰の環境です。一気に増えるということはなく、森や林のひっそりとした場所で、息長く命をつないできた花のようです。

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   咲き終えた花とこれからのつぼみ

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   細長い実(蒴果)と種子のようす

 このフシグロセンノウの花が好きだった人がもう一人いました。孤高の仙人のような画家とも言われた熊谷守一画伯です。 
 文化勲章を辞退、76歳で軽い脳卒中で倒れてからは、そのほとんどを豊島区の自宅で過ごし、昼間は15坪ほどの庭で飽きることなく虫や草花を観察をしていたといいます。

「地面に頬杖をつきながら幾年も見ていて分かったのですが、蟻は左の2番目の足から歩き出すんです」(画文集「ひとりたのしむ」・求龍堂

これは、画伯の有名なことば。

 亡くなる2年ほど前に描いた油絵で絶筆となったのが、「あげは蝶」(1976年)という作品。真ん中に黒々としたアゲハチョウが描かれ、そのチョウがとまる草花には、上に二輪、下には一輪の鮮やかな朱色の五弁花が咲いています。それが、フシグロセンノウの花。

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 田中澄江さんは、熊谷守一画伯と親交があって、よく自宅を訪れ庭にいろんな草花を植えてあげていたようです。

 鴨沢にむかう途中の杉林のかげにフシグロセンノウがたくさん芽をだしていた。山へきて花をとってはいけないことはよく知っているけれど、その特徴のある若芽を幾つか見ているうちに2本とりたい、野の花ではフシグロセンノウが一番好きだと言われた熊谷守一さんの庭にもっていってあげたいと思った。
               (田中澄江『花の百名山』・文春文庫)

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   ふたりが、フシグロセンノウの花に見ていたものは・・・

 山の自然と草花を愛した田中澄江さん、自然を友とし小さな生きものへの愛情を注ぎ、描き続けた熊谷守一画伯。おふたりがフシグロセンノウの花に見ていたものは、群れず、野卑でなく、ひとり鮮やかに咲き誇る、野の花の生き方のような気がします。(千) 

◆昨年8月「季節のたより」紹介の草花