mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより46 アオキ

 ヨーロッパでは憧れの赤い実、花と実が一緒の春

 いま、目の前にある赤い実が、とても珍しい植物のものだとしたら、たくさんの人がその実を見るために集まってくるでしょう。
 ちょっと外に出かければどこにでも見られるアオキの赤い実ですが、ヨーロッパでは一世紀半も幻の樹木の実だったのです。

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   アオキの赤い実は、長い間ヨーロッパの人々の憧れの実でした。

 アオキがはじめてヨーロッパに紹介されたのは、1690年に来日したドイツ人のケンペルが赤い実に感動し、帰国後に書いた著書の中ででした。その後、1783年、イギリスからやってきたジョン・グレファーは、やはり赤い実と緑の葉のアオキに魅せられ、本国へ持ち帰りました。美しい緑の葉はたちまち評判となりましたが、結実することはありませんでした。アオキは雌雄異株で、持ち帰った株は雌株だけだったのです。深紅の実は幻の実となり、イギリスで見事な赤い実が見られるようになったのはそれから80年余り後、1860年に王立園芸協会所属のプラント・ハンター、ロバート・フォーチュンにより雄株がもたらされてからでした。
 ロバート・フォーチュンは、幕末にやって来て、当時の日本社会を詳細に記録した「幕末日本探訪記」を残して有名ですが、そのいきさつをこう記しています。

 私の訪日の目的の一つは、イギリスの在来品種のアオキ雌木のために雄木の品種を手にいれることであった。(略)この植物は英国の厳冬にも寒害はなく、またロンドンのスモッグの中でも、他の植物よりもよく生育する。だから、公園や街の広場やロンドン市民の家の庭にも、どこにでも見られる非常に普遍的な植物の一つである。しかし英国では、私が日本で見たように、この木に深紅色の果実がいっぱい実っているのを見た者は、一人もいない。(ロバート・フォーチュン・三宅馨訳「幕末日本探訪記―江戸と北京―」講談社学術文庫

 彼は来日すると、すぐにアオキの雄木を探し出し本国に送ります。1864年にアオキはやっと深紅の実をつけ、一般にも公開されました。ヨーロッパで初めてアオキが結実を見ることができたのは、アオキが紹介されてから約170年余りの時を経ていました。長く厳しいヨーロッパの冬にも、アオキは美しい緑色を保ち赤い実をつけて、土地の人々に親しまれています。

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   雌株に実を結んだ赤い実。熟すとつややかな深紅の色になります。

 アオキは、ガリア科またはアオキ科アオキ属の常緑低木です。名前のとおり、葉だけでなく枝まで一年中緑色なので、“ 青木葉(アオキバ)” と呼ばれていました。その “ 青木葉 ” の “ 葉 ” がしだいに抜けて “ アオキ ” となったものです。
 アオキの “ アオ ” は、万葉集に出てくる「あをによし」の「あを」のように、緑色に見える物を「青」と呼ぶ習慣が万葉以前よりあったと思われます。
 アオキの学名は、「Aucuba japonica Thunb」ですが、属名の Aucuba(アウクバ)はアオキバのことで、japonica は日本の古来種であることを示しています。Thunbは、アオキを初めて学会に報告した出島のオランダ商館医ツンベルクの名前です。

 現在は庭木として見られるアオキですが、従来日本の山野のどこにでも生えていた樹木で、いまも山野の樹林下に自生している姿が普通に見られます。
 アオキは日かげでもよく育ち、普段は樹林下にあってあまり目立ちませんが、晩秋から冬の季節に、広葉樹が葉を落とすと、がぜん目立ってきます。からりと明るくなった雑木林を歩くと目に入るのは、常緑の葉ですが、その多くはアオキとヤツデです。アオキとヤツデでは葉の形や大きさから区別ができます。

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 冬の雑木林で、緑の葉が鮮やかなのは、アオキ(手前)とヤツデ(左上)です。

 2月のこの時期、アオキは緑の葉を広げたまま何も変化がないように見えますが、
もうすぐ、新芽が筆先のように伸びて若葉が柔らかに広がっていくようすが見られます。雄株には雄花のつぼみが膨らんでいるのが見えます。緑の実が数個、枝についているのが雌株です。雌株の枝の先には小さい雌花のつぼみも見られます。

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   アオキの若葉          雄花のつぼみ(雄株)       青い実と雌花のつぼみ(雌株) 

 アオキの花が見られるのは、3月頃からです。雄花の方が先に咲いて、あとから雌花が咲きます。雄花と雌花のどちらの花も濃い紅紫色で、4枚の花びらが十字形に並んで大きさもほぼ同じ、どちらが雄花か雌花かわからないほどよく似ています。それでも、よく見ると、雄花には4本の短い雄しべがあって黄色い花粉が金色に光って見えます。雌花には平たい柱頭を持つ太い雌しべがあるだけなので、雄花と雌花の区別はすぐつくでしょう。地味な花ですが、どこか趣のある花です。

    アオキの雄花             アオキの雌花
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 雄花の花序は、大きく花数も多い。   雄花の花序は、小さく花数も少ない。

 アオキの雄花と雌花の花の形が似ているのは、雄花の花粉を食べに来たアブやハエなどが、同じように雌花にも来てもらう仕掛けではないか、といわれています。そういえば、アケビの仲間やキュウリの花も雄花と雌花がよく似ています。アケビの雌花は蜜がなく、キュウリの雌花は甘い香りがありません。雌花は一度受粉すればいいので、蜜や香りをつくる余分なエネルギーを実のために残しているのでしょうか。雌花が、雄花と同じように見せかけ、虫たちをよびよせ花粉をうまく運んでもらっているのだとしたら、これも植物たちの命をつなぐ知恵といっていいでしょう。

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   キュウリの雄花(左)と雌花(右)。花の形は同じ。   

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   ミツバアケビ。房の小さい花が雄花。手前の大きい花が雌花。
   大きさは違っても花の形は似ています。

 アオキの雌株についた緑の実は、雌花が咲き出す頃に赤くなります。図鑑では、「果実は秋に赤くなり、翌年の4月頃までついている。」(「樹木・秋冬編」山と渓谷社)とありますが、地域差があるのかどうか、これまで見てきたアオキの実は、秋は小さく緑のままでした。冬の間に大きくふくらみ、春にやっと赤くなるようです。    
 アオキの雌株は前年にできた実をほぼ一年かけて育てているので、春のアオキの雌株には、昨年できて赤くなった実と今年咲き出した雌花が一緒についているという、他の樹木には見られない珍しい光景を見ることができます。

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 実が熟する頃、雌花が咲きだします。  熟した深紅の実と、雌花の花序

 よく熟れたアオキの実は、冬の野鳥たちの餌となります。よくヒヨドリがやってきて飲み込んで飛び去っていきます。ヒヨドリに運ばれる実の中には、大きな卵型の種がひとつ。固い殻はなく弾力性ある胚乳には栄養分が蓄えられています。
 9月半ば、林床を歩くとアオキの種が芽生えていました。双葉を大きく広げているのもありました。アオキは、少々の光不足でも大丈夫です。寒さにも強いので、大きな樹木の下であっても、ゆっくり時間をかけて育っていきます。

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アオキの芽生え    双葉を広げるアオキ   冬の陽ざしは 大きく育つチャンス

 先にふれたロバート・フォーチュンの「幕末日本探訪記」には、幕末の日本の庶民の生活や日本の植生、農業、気候など詳しく書かれています。そのなかに、江戸時代の庶民の草花や樹木に対する姿勢がわかる興味深い一文がありました。

 (江戸)郊外の小ぢんまりした住居や農家や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭をつくっている。日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優って見える。(同・講談社学術文庫

 ロバート・フォーチュンは、当時の人々が庭をつくり好きな草花を育てていることに驚いているのです。野生のアオキが庭木として育てられるようになったのも、このころのこと。江戸の庶民にとって、気にいった草花や樹木を庭で育てることは普段の暮らしの中ではあたりまえのことだったようです。植物を身近において、芽を出し、花開き、実を結び、枯れ行く一生を愛おしみ、姿形のきれいな花だけが美しいのではなく、草花の命の変化を美しさとして感じとっていたようにも思います。その感性は、江戸時代以前から私たちの祖先が自然とのつきあいかたから学んできたもの。ロバート・フォーチュンは、花の愛で方の違いをとおして、日本と母国人たちとの自然観の違いを感じとっているようです。

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  冬の緑の実がしだいに色づきます。雌花の準備もするアオキの雌株は、
  一番エネルギーを必要とする時期です。

 アオキの葉や枝はシカの好物です。ニホンジカの生息地ではよく食べられていて、他の植物より先に消えていく植物になっています。あまりにも身近な植物は、消えてからその存在に気づくものかもしれません。一年中、艶やかな緑であり続けるにはどれだけ持続的なエネルギーが必要なことでしょう。一年かけて実を育て、花も同時につける雌株はさらに今が一番エネルギーが必要なときです。それなのに、アオキは淡々といまを生きて、葉は鮮やかさを増しています。アオキはこれから一番美しいときを迎えようとしています。(千)

“ お帰り寅さん ” 暴走・妄想考

 先日、『男はつらいよ』の助監督をし、また『しあわせ家族計画』の監督もされた阿部勉さんを囲んでの大新年会があった。翌日、その勢いをかりて『男はつらいよ お帰り寅さん』を改めて見に映画館に足を運んだ。

 “ 改めて ” と言うように今回が2回目。1回目は、あの『福島は語る』を見た後に続けて行ったのだ。『福島は語る』の内容に圧倒されたまま行ってしまったのがよくなかった。じっくり映画に入り込むことができなかった。それでも十分楽しんだのだが、冒頭に記した阿部勉監督を囲んでのみなさんの話を改めて聞いて、もう一度見に行ってみようという気になったのだった。

 映画の時代設定は現代。サラリーマンを辞めて小説家の道を歩み出した寅の甥っ子(妹さくらの息子)である満男(吉岡秀隆)と、彼の初恋の女性イズミ(後藤久美子)の思わぬ再会と、その再会で生じる出来事とそれぞれの想いを織り込みながら映画は展開していく。寅さんは、それぞれの人生をすでに歩み出している2人に伴走する形で登場する。

 この作品について開口一番に言わなければならないのは、まさにこれまでの寅さんシリーズ49作がなければできない稀有な、そして不思議な作品だということ。
 寅さんシリーズについてはマンネリズムの、娯楽・喜劇映画に過ぎないという見方もあるようだ。そうかもしれない。しかし、だから何なのだと言いたくもなる。それでは駄目なのだろうか。大事なのは、寅さんシリーズが観る人の多くを魅了し、また飽きもせず愛され続けてきたという事実ではないだろうか。寅さんのマンネリズム、その喜劇のなかに観客は何を求め、何を感じ、何を観てきたのか。そのことの方がとても大切なことのように思う。

 映画では、寅さんシリーズ49作でマドンナを演じた日本映画界・芸能界を代表する女優たちと寅さんとのワンシーン、ワンシーンが走馬灯のように出てくる。まるで戦後日本映画の歴史絵巻を寅さんシリーズを通じて見ているような気分になった。

 またこの場面が、映画『ニューシネマ・パラダイス』でキスシーンだけを集めた画が次々にスクリーンに登場するシーンともオーバーラップして見えてくる。山田監督の『ニューシネマ・パラダイス』へのオマージュとも、あるいは映画愛とも取れる場面だと思った。そんなこんなを妄想しているうちに、こちらも次第に胸が熱くなるのだった。

 一方で、どうしてこうしたのだろう? と思う場面も。それは満男とイズミの飛行場での別れの一場だ。満男は、7年前に妻を亡くし娘のユリと二人暮らし。そのことを両親に、イズミには知らせないでくれと口止めをする。嫌いで別れたわけではない二人の、それぞれの淡く切ない思いも含めた複雑な思いがあってのことだろう。しかし最後の最後、飛行場での別れの場面で、満男はそのことを自ら打ち明けてしまう。しかも満男とイズミはかたく抱擁するのだ。正確を記すならば、満男の告白を受けてイズミの方が歩み寄る形ではあるものの・・・、満男は明らかに一線を越えてしまうのであった・・・。

 寅さんだったら、そういう満男を見てどう言うだろう?「満男!それを言っちゃおしまいよ。男というのは身の引き際が肝心だぞ。お前はイズミちゃんのことをどれだけ考えたんだ。」と、そう叱りつけるのではないだろうか。しかし2回見て、そうではないかもしれない、とも思った。というのは映画の中で、過去の作品に描かれている、例えば浪人中の身にもかかわらずバイクを飛ばしイズミに会い来た満男を快く思わないイズミの叔父に、寅さんが「満男をほめてやりたい」(第42作)と意見する場面や、《想っているだけでは駄目で、その気持ちを伝えなくちゃ》とけしかけるような場面がさりげなく挿入されているからだ。いつも肝心のところで身を引いてしまう自分の弱さ、ダメさ加減をよく知っている寅だからこそ「よくやった満男!」《フレ~、フレ~、み~つ~お~》と応援するかもしれない。それでいいのだろうか? どっちなの寅さん?、いや山田監督?

 山田監督は、寅を敬愛しつつも自立した(寅を越えた)、成長した一人の男として満男を描き出したかったのだろうか。もしかすると、男女関係については控えめな山田監督の新境地?として、夫もあり子どももいるイズミと満男の新たな物語を考えているのかもしれない。さりとて、それは恐ろしいことだ。そのような展開を山田監督が本気で考えているとするなら、どんな話になって行ってしまうのだろう。怖いけれど、わくわくする。寅を超える満男、新たなミツオが生まれるのかもしれない。

 今や暴走族なみに、私のなかの妄想族の勢いはとどまるところを知らない状況へと陥りつつあるが、きっと山田監督は、私のような馬鹿なことは考えていないとも思われる。映画の最後で、満男の娘ユリは《パパ、お帰りなさい。ここ数日のパパはどこか遠くに行っているようだったわ》と言わせるからだ。つまり満男は旅に行っていた、夢を見ていたと言うのだ。

 寅さんファンの一人としては、この旅(夢)は、今後も続いてほしいと思うのだが。それはかなわぬ夢なのだろうか。
 今後益々の山田監督の活躍を期待して、ここらへんで勝手気ままな寅さん妄想考を終わります。( キヨ )

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『ダンス・身体表現の世界の相談室』開催のご案内

【延期のお知らせ】
 新型コロナウイルス感染が広がりつつあり不安な状況が続いています。このこと
 から誠に残念ではありますが、本企画の延期を決めました。
 今後の日程については、またお知らせいたします。
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 宮城教育大学を退官して、今は京都と仙台を行ったり来たりしながら活動している里見まり子さんが、今回パントマイム歴53年の清水きよしさんと一緒にワークショップを行います。
 参加者のみなさんからダンスや身体表現の疑問や悩みを出してもらい、それに応えるかたちで、その課題の解決の糸口を実技を交えながら共に探ります。
 悩みや疑問がない方でも興味のある方は参加できます。ぜひお問い合わせ下さい。

日 時:2月22日(土)

   13時半〜15時(1コマ目)
   15時半〜17時(2コマ目)
   17時〜19時 (茶  話  会)

会 場:仙台市
  ※ 詳しい会場の案内は、問合せ・申込みされた方に改めて連絡します。

 

   参加費は1コマ  1,000円、2コマ  2,000円 /  定員は15名です。
 動きやすい服装をご用意くたさい。


【申込み・問合せ先】m-sato(アット)staff.miyakyo-u.ac.jp
 
迷惑メール防止のため、お手数をおかけしますが、(アット)の部分を@に
 変えて送信ください。

                     《主 催》d.p.eばくばく

人々を魅了し照らす、ファラデーのロウソクの炎

 「図書」(岩波書店発行)2月号のあとがきは、ノーベル賞にまつわる話をとりあげていた。と言っても、PR誌なので、そのねらいは、ファラデーの『ローソクの科学』へのお誘いがねらいなのだが、私は、そのためにひいていた2人のノーベル賞受賞者についての短い話にひかれた。

 ひとりは、昨年受賞の吉野彰さん。「吉野さんを化学の道に導いたのは、小学生のころにであった一冊の本。当時の担任の先生から薦めてもらったのが、ロウソクが燃える仕組みを科学的に解説したファラデーの『ロウソクの科学』。ここからノーベル賞への第一歩が踏み出された・・・」と。
 もうひとりは、「2016年にノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典さん。「ご自身の原点として挙げていたのが『ロウソクの科学』~~」と。

 まず私が驚いたのは小学生の吉野さんに担任が『ロウソクの科学』を薦めたということ。吉野さんがどんな小学生だったのか私にはとても想像できないが、この担任の教師は子どもたちのためのたくさんの持ち物があって、そのなかから『ロウソクの科学』を選んで吉野さんに薦めたのだろうと考えると、元教師に私は脱帽である。大隅さんにしても同様で、この書を「ご自身の原点」にしたのも教師の影響が大きかったろうと想像し、教師の力を考えさせられる。

 前記「図書」には、「現行の岩波文庫は2010年9月に改版の新訳、・・・新旧あわせ累計73万部を越えて読み継がれ・・・」と書いてある。
 私の手元にあるのは講談社文庫版の『ロウソクの科学』(吉田充邦訳1972年1刷)。ファラデーはどんなことを書いているのか、最初の段落と結びを書きぬいてみる。

  第一講
       炎のみなもととしてのロウソク

 これからロウソクを主題として科学の講義をはじめたいと思います。
 皆さんが自然科学の勉強をはじめるにあたって、まずロウソクの物理的な現象を考えてみるのが、最もよいことと思われます。入門としてはこれにまさるものはありません。すべての自然界を支配する法則のうちで、ロウソクの現象に現れてきたり、ふれあったりしないものはないでしょう。だから私は新しいトピックよりも、私の選んだこの主題は、皆さんを失望させないだろうと信じています。新しいトピックにもいいものはありますが、やはりロウソクよりよいとは思いません。

とファラデーは講義を始め、最後を、

 ある場合には、物質は熱によってそのもの自身が活動的になるまでいつまでも待ち、ほかの物質は呼吸の過程のように、少しも待ちません。肺の中では、空気が入るとすぐにそれは炭素と結合してしまいます。
 この反応は身体が凍らずに耐えられる最低の温度でもすぐにはじまり、呼吸によって炭酸ガスを放出します。すべての物事は、それに対応し適切に進行します。こうして皆さんは呼吸と燃焼がきわめてみごとに、驚くほど似ていることを知るでしょう。
 この講演を終わるにあたり(私どもにとってはどんな時でも、終わりはきっと来るのです)、私がいうことができるすべては、皆さんの時代には、ロウソクに比されるのにふさわしい人間になってほしいということです。
 皆さんはロウソクのように、まわりの人びとのための光として輝き、すべての活動によって隣人に対する義務をなしとげ、それによって行為を名誉あり成果のあるものとし、それによって、ロウソクの美しさを義とされるように、私は望むのです。

と結んでいる(後段のみを抜こうと思ったのだが、前段の部分をもぬきがたく長くなった)。

 ファラデーは1791年に生まれ、この『ロウソクの科学』は、69歳の時の少年少女のための講義録という。邦訳は戦後になるようだが、宮城では、1956年から『ロウソクの科学』を使っての「ファラデーゼミ」を始めたグループがあった。

 1975年11月、「教育実践検討サークルーー創造する東北の教師たち」(中村敏弘著 国土社)が出版された。この書のもともとは、『教育文化』(宮城県職員組合発行機関誌)第56号から107号まで「あるサークルとゼミの歴史」というタイトルで中村が連載したものをまとめたのである。

 ここでの「あるサークル」とは、「刈田サークル」である。白石での少人数の教師による輪読会が、教育科学研究会機関誌「教育」を読む会にふくれて、「教科研刈田のつどい」という名で定期的に集まるようになり、機関誌「刈田」が発行されるようになった。
 その「刈田のつどい」のなかから「少人数でじっくり話す場もあるといい」という声が出てきて「刈田のつどい」のなかに「理数グループ」ができた。そのグループが最初に取り上げたテキストが『ローソクの科学』だったという。その呼びかけが「刈田」9号に載る。
 こうして、理数グループの第1回「ファラデーゼミ」が56年2月10日にもたれた。「これが、中村が参加した86回のゼミの最初の会で、このときの喜びやおもしろかったことはいまだに忘れないし、そのときの光景さえも思い出すことができる」と、中村は上記の書のなかで書いている。

 50年代後半から、こんなサークルが宮城県各地に生まれた。私は遅れて参加するようになったひとりになるが、それでも、中村が「そのときの光景さえも思い出すことができる」と言っていると同様に、その頃が今も体に張り付いている。
                                 ( 春 )

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 今はなき「刈田サークル」は、その名を知るにすぎない。しかし当時、刈田サークルに限らず、さまざまな地域に燎原を焼く野火のごとくサークルが誕生し、多くの教師が集い、学びあう場が生まれたのだろう。私たちの世代はその最後尾、まさに消え入ろうとする残り火を知る世代かもしれない。
 それでもまだ大学には自主ゼミがあり、正規の講義や演習よりも夕方から夜中にかけて行われる自主ゼミが私たちにとっての学びの場だった。その残り火も今や風前の灯火ということだろうか? しかし風が吹く限り残り火は消えない。(キヨ)

“ 学がある人は違うな ” ~山極さん高校生公開授業~

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 1月25日(土)開催の山極寿一さん高校生公開授業は、無事終わりました。どんな授業だったのだろうと、関心を持っているみなさんもいるかと思います。公開授業については、次号『 センターつうしん98号』で報告する予定です。もうしばらくお待ちください。

 高校生たちの感想にざっと目を通して読むかぎり、生徒のみなさんは山極さんから多くの刺激を受け、いろいろなことを自分自身や今の社会のあり方に引き付けて考えてくれたようです。また参観いただいたみなさんも、授業の内容に満足いただけたことが感想の文面や、あるいは帰りの表情からも感じました。主催者として、ほっとしております。以下は、正さんとの公開授業を終えての一コマです。

 少し前のことですが正さんと昼飯を食べながら、今回の高校生公開授業について話になりました。そこで話題に上がったのは、ある生徒の感想でした。その生徒は、感想で山極さんを評し「学がある人は違うなと思いました」と書いたのです。

 正さんは、《学があるかあ、この生徒はどんなことを感じて「学がある」という言葉を使ったんだろう?》というのです。考えてみると、“ 学がある ” という言い方そのものが、最近ではほとんど使うことも、聞くこともなくなりました。またその言葉の響きは、ある種の懐かしさと趣を感じさせもします。今の子たちが山極さんのような研究者を評するなら “ 偉い人 ” とか、 “ 頭のいい人 ”とか、そんなところが一般的ではないでしょうか。

 正さんは《きっと、山極さんはこの生徒の近くにいる大人たちとは違ったんだな。親や先生や周りにいるこれまでに接してきた大人とはきっと違うんだよ。別格だったんじゃないかなあ。それだから「学がある」だったんだと、俺は思うな》と言います。
 なるほど生徒は、山極さんから頭がいいとか、偉いとかそういうこととはまったく違う、もっと人間としての深さのような何かを感じたのかもしれません。言い方を変えると、この生徒は、山極さんを通じて、これまでとはまったく異なる学びの経験をしたということかもしれません。本当のところは生徒本人に聞いて見なくてはわからないことですが・・・。

 そんなことを生徒の感想から感じながら、次回も(この)高校生たちが参加してくれるようなものをつくりたいと思うのでした。( キヨ )

春のつどい講演会『教育・子育ての危機の中で』

 ~ 大田堯の仕事から学びなおしを ~

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     設立総会で、会場いっぱいの参加者と講師の大田堯さん

 1994年2月に行われた「みやぎ教育文化研究センター」の設立記念講演が大田堯さんでした。当時、日本教育学会会長や日本子どもを守る会会長であった大田さんの講演は、会場を埋め尽くす参加者とその笑顔があふれ、私たちの船出にはとてもよいものとなりました。
 その大田さんが他界されて丸1年が経ちます。設立時の教育・学校をとりまく状況も決してよいものではありませんでしたが、今はそれ以上に厳しいものになっていると言わざるを得ません。そのような中で、大田さんはつねに教育とは何かを問い続けてきました。

 今回の講演では、大田さんと長く研究交流されてきた田中孝彦さんに、『大田堯の仕事に学ぶ』をテーマに、今、私たちが大田さんから引き継いでいかなければならないこと、そして現在の教育・子育ての課題などについて語っていただきます。

  教育・子育ての危機の中で
  ~大田堯の仕事から学びなおしを~

  講師   田中孝彦さん(日本臨床教育学会 会長)

  日 時:2月22日(土) 13時30分~16時
  会 場:フォレスト仙台ビル2F 第5・6会議室
            (参加費は、無料)

【田中孝彦さん プロフィール】
 1945年、北京生まれ。1968年、東京大学法学部卒。1975年、東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。東京大学、東京経済学大学、北海道大学都留文科大学を経て、2016年3月に武庫川女子大学教授を退職。専攻は教育思想・臨床教育学。現在は、日本臨床教育学会会長、教育科学研究会常任委員、地域民主教育全国交流研究会代表、教育子育て九条の会呼びかけ人。

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季節のたより45 モミ

 日かげで成長できる葉や樹形 年月を重ねて森林に

 堅雪のなかにすっくと立つのは、芽生えたばかりと思われるモミの幼木でした。
 太古から、自然のままに森林更新を繰り返してきたモミの原生林。高さ40mにも達すると思われる巨木のモミが、冬空を突いて立ち、広げた枝葉からこぼれる木もれ日が、暗い森の林床をてらします。冬の日差しがとどくのは、わずかの時間。幼木は、その光をたよりに大きくなろうとしています。

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  芽生えたばかりのモミの幼木。まだ、雪の下に閉ざされているものも。

 ここは、仙台市街地の西部の青葉山。緑濃い丘陵地は、古くから杜の都の象徴として親しまれ、モミの原生林が残る青葉山一帯は、学術上も貴重な生態系の宝庫として、1972年、全国で初めて天然記念物に指定されました。

 街の中心部なのに、どうしてこの地にモミの原生林が残っているのでしょうか。
 1600年(慶長5年)に伊達政宗仙台城を築いて以来、城の背後の青葉山は御裏林とよばれ、防備上重要な地だけでなく、城の水源地でもあったため、仙台藩の厳重な監視下に置かれていました。明治維新後は陸軍に引き継がれ、さらに第二次世界大戦後は駐留軍の管理下に置かれて、一般の立ち入れが制限され、ほとんど人手が加えられることがありませんでした。
 そのため、大都市ではまれにみるモミの原生林が残されることになったのです。

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  モミの木は、幹はまっすぐ、高木に育ちます。

 青葉山のモミは、マツ科モミ属の常緑の針葉樹です。針葉樹は、乾燥地や,寒冷な地に耐えられるように、葉は細く厚みを持った形に進化しています。多くは寒冷地に分布していますが、青葉山のモミは、その中でも最も温暖な地に分布する種で日本の固有種ということです。

 モミは一年中変わらない姿に見えます。風媒花(ふうばいか)なので、虫たちを誘導するための鮮やかな色の花を持つ必要がないからでしょう。
 花の季節は5月から6月。枝先に黄色い房状の雄花が咲いて、大量の花粉を風にのせて飛ばします。雌花は樹の上の方に咲いていて、花粉が届くと受粉します。
 受粉のあとに松ぽっくりのような球果ができます。モミぽっくりと名づけたいところですが、球果は、中の種子が放出されるときに、中軸を残して全部バラバラになってしまうので、地面に落ちたモミぽっくりは見られません。

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 雄花。大量の花粉が風で運ばれます。 モミの球果(雌花)と全部バラバラにな
                   って残った中軸

 モミの種子にはうすい翼がついていて、風にのって滑空するように散布されます。どこへ飛ぶかは風まかせ、落ちたところが終の棲家で、そこで生涯生きていくことになります。

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 モミの球果の破片。手前の3個が翼の      モミの種子の芽生え
 ついた種子です。

 5~6月に、森を歩くと、落ち葉の少ない裸地やがけ崩れの地で、昨年落ちた種子が、たくさん芽生えていました。芽生えたばかりの種子は、20~30mmほどの大きさで、殻のぼうしをかぶっています。幼い葉は、その殻をおしのけるように脱ぐと、勢いよく、上へ四方へと広がり伸びていきます。

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 種子の殻をぬいで、のびのびと葉を   モミの若木。枝を横にのばしながら
 広げています。            大きくなります。

 せっかく芽を出した幼木が、どれも成木まで生き延びられるわけではありません。虫や動物に食べられ、風雨、倒木、土砂くずれで消えて残るのはほんのわずかです。

 日当たりのよい場所に芽を出したモミは早く成長できますが、それはまれで、多くの幼木は、コナラ、クヌギ、ヌルデなどの幼木や成木にすでにとりかこまれています。これらの広葉樹は光を独占して、どんどん成長するので、モミの育つ環境はあっという間に日かげになってしまいます。

 でも、モミにとって、その日かげの環境は、想定内のようです。
 幼木は、葉を薄くしつつ表面積を広げて、互いに葉が重ならないように水平に並べています。上に伸びるより、横に成長することを優先し、傘のような樹形をつくります。そうすることで、上から下まで少ない光を無駄なく利用します。上に伸びるときは、まっすぐな主幹から枝を4本以上輪生させて、1年に1段ずつじっくりと成長していきます。

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 モミの葉。互いに重ならないように    モミの若木は、だんだん傘のような
 水平に広げています。                             樹形をつくっていきます。 

 モミは日かげでも成長できて寿命も長いのです。成長の早い樹木が先に森林を形成していても、やがてこれらを追い越して森の中心の樹木となるときがくるのです。
 モミの寿命は200年から300年ほどといわれています。青葉山のモミは何度も更新をくりかえし、森の最も優勢な樹木になっています。

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 森でモミが優勢になると、林床で光を多く必要とする樹木の成長が抑えられます。

 モミの木が国を救った話をご存じでしょうか。

 100年ほど前、明治のキリスト教思想家である内村鑑三は、東京で行なった講演を自ら文章化し、「デンマルク国の話」という一文を発表しました。副題は「信仰と樹木によって国を救いし話」。

 1864年、ドイツ・オーストリア連合軍との戦いに敗れたデンマークは、南部の肥沃な土地をとり上げられ、不毛の原野だけが残されます。その原野を美しい森林によみがえらせたのは、工兵士官であり博物学者でもあったダルガスとその息子の2代にわたるモミの植林と、武器を鋤に変えて荒地を耕したデンマークの国民の取り組みでした。ダルガス親子が荒野にモミを根づかせるドラマは、富山和子さんが、講演をもとに「森は生きている」(講談社 青い鳥文庫)の中でとりあげていて、こどもたちも読めるようになっています。

 さて、不毛の原野が森林に変わることで、どんな変化がおきたでしょうか。
 気候が変わり、農業が変わりました。夏に昼は砂漠で夜が霜が降りるほどの、厳しい気候が穏やかになり、ジャガイモやライ麦しか育たなかった土地に、小麦や砂糖大根、各種の野菜が栽培されました。収穫量も増えました。モミ林が海から吹く砂あらしを防ぎ、水害をなくしました。国内で木材も利用できるようになりました。
 内村鑑三は、その話のあとに次のように言います。

しかし、木材よりも、野菜よりも、穀類よりも、そして畜類よりもさらに貴いものは、国民の精神です。デンマルク人の精神は、植林成功の結果として、ここに一変したのです。失望していた彼等は、ここに希望を回復しました。彼等は国を削られて、さらに新たに良い国を得たのです。しかも、他人の国を奪ったのではありません。自分の国を改造したのです。自由宗教から来る熱誠と忍耐と、これに加えて大モミ小モミの不思議な力によって、彼等の荒れた国を挽回したのです。 
内村鑑三「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫

 昨年9月に国連が発表した「世界幸福度レポート」では、デンマークは世界第2位。それ以前には、第1位を連続2度もランクされる世界で幸せな国です。国民の高い幸福度は、モミで国をよみがえらせた意識に支えられていないでしょうか。 
 ちなみに、同レポートの評価基準は、人口あたりGDP、社会的支援、健康寿命、人生の選択の自由度、社会的寛容さ、政府腐敗のクリーン度です。日本は、毎年順位を下げ、今年は54位に。

 内村鑑三は、講演のおわりに、次のようにも言っています。

富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかしてエネルギーは太陽の光線にもあります、海の波濤にもあります、吹く風にもあります、噴火する火山にもあります。もしこれを利用することができれば、これらはことごとく富の源であります。(同)

 驚くのは、100年も前に、太陽光発電や波力発電、風力発電地熱発電による自然エネルギーの利用をよびかけていることです。
 デンマークは、2015年に総電力消費の42.1%を風力でまかない、さらに2020年に50% 、2035年までには84%をめざす計画。世界のCO2ゼロの動きは、これから、内村鑑三のことばどおりに進んでいくでしょう。

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 大気汚染に弱いモミの木は、鉱山のカナリアのよう。空気の汚れの指標にも。

 モミは大気汚染に弱く、かつて大都市周辺に育っていたモミはほとんど枯れて姿を消しました。青葉山のモミ林は、市民による「青葉山の緑を守る会」の保護活動にもささえられ、大都市内にある稀に見る自然林として残り続けてきましたが、いまは、利便性と経済効果を求める開発の危機にさらされています。モミの大木も伐採され、生態系は破壊、多くの希少動植物が姿を消し始めました。

 古代文明の多くは森林破壊のあとに起こる悲劇を見通せず滅びていきました。私たちの便利な暮らしと身近にある森林との関係にもあてはまることです。
 人はいつも自然に生かされているという感覚が、日常の暮らしの中にあるのかどうか。それは、これからの私たちの生存に深くかかわっています。(千)

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