mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

同志会 " 陸上運動指導法講座 " のご案内

 夏の全国大会の準備を着々と進めながら、しっかり授業づくりの取り組みも行っている同志会のみなさんが、新年度のスタートダッシュにむけて陸上運動の実技講座を行います(内容の詳細などは、チラシをご覧ください)。
 ちなみに講師は、研究センター研究部長の久保先生です!

 みなさん、春です。ケルルンクック冬眠している生き物たちも目を覚まします。寒さで縮こまった心と身体を解きほぐしませんか。リフレッシュもかねて、ぜひご参加ください。

 と き:3月30日(土)13:30~16:30
 ところ:宮城教育大学グランド、または体育館
 講 師:久保健さん(みやぎ教育文化研究センター研究部長)
 準備物:運動のできる服装、体育館シューズ、飲み物
 参加費:500円(学生100円 ※同志会会員、全国大会実行委員は無料)

   申し込みは、ココ  から

  

季節のたより143 トサミズキ

  限られた山地に自生、園芸樹となって種を存続

 朝の光が芽吹いたばかりのトサミズキのつぼみを照らしていました。                 
 トサミズキはトサ(土佐)の地名がつくとおり、四国土佐(高知県)の限られた山地で発見された在来種です。庭木として育つことから、東北の地でも庭木や公園樹として植えられてきました。ミズキの名がありますが、ミズキ科ではなく早春にいち早く花を咲かせるマンサク(季節のたより21)と同じ仲間です。
 マンサクはまだ色彩の見られない山林で、トサミズキは里の近くの民家や公園で淡黄色の花を咲かせて春の息吹を伝えてくれます。

 土佐水木(トサミズキ)山茱萸サンシュユ)も咲きて 黄を競う 
                          水原秋桜子


              トサミズキの花の芽吹き

 トサミズキはマンサク科トサミズキ属の落葉低木です。高知市周辺の蛇紋岩地帯のかなり限られた地域にしか自生していないので、高知市を代表する市の花として選ばれています
 トサミズキの樹高は1m~4mほどで、幹が地ぎわから四方に力強く伸び上がり株立ち状になります。枝はやや太くまばらに分岐し、若い枝は分岐点でジグザグに稲妻のような伸び方をしています。
 枝についた冬芽は2枚の褐色の芽鱗に包まれています。よく見ると2種類の冬芽があって、細長いのは葉芽で、ふっくらと丸いのが花芽です。

 
ひこばえを出し株立ちになります。   稲妻の枝(上)   花芽(下左)と葉芽(下右)

 トサミズキの開花は3月~4月です。花芽は立春を過ぎた頃から膨らみ始めます。花全体を包んでいた芽鱗が押し開かれると、その下でレモン色のベールのような苞葉に包まれていたつぼみが姿をあらわします。


  苞葉に包まれたつぼみ    寄せ集まる小花が見える。  小花の先端は赤い。

 トサミズキの花は淡黄色の小花が穂状に集まったものです。小さな鐘のような小花が6個から8個、最初は寄せ集まっていますが、しだいに連なって垂れてきます。
 雄しべは5本、葯は暗赤色で、花粉が成熟すると裂けて黄色い花粉を出します。雄しべの間に雌しべが隠れていて、2つに分かれた柱頭だけがピョンと白く突き出るのでよく目立ちます。


   暗赤色の雄しべの葯   突き出る雌しべの柱頭       葯の色が黄色に

 3月上旬、トサミズキの茶色の冬芽が芽鱗をぬいで、黄色い花が咲き出すと、辺りがほんのり明るくなります。


  刻々と開く花。満開になるとあたりは灯をともしたように明るくなります。

 トサミズキの花は蜜も多く、香りもほのかに漂います。この香りに引き寄せられ訪花している昆虫は、ビロウドツリアブ、ミツバチ、コマルハナバチなどです。樹木の花の蜜が大好きなメジロもやってきて、花粉を運びます。
 花を見ると、まだ開き切らないうちに雌しべの柱頭が飛び出していました。(写真下左)。これは、先に雌しべが他の花の花粉で受粉をすませ、後から雄しべを成熟させて他の花の雌しべに花粉を運んでもらっているのでしょう。トサミズキの花は雌性先熟で、自家受粉を避けているようです。                         

 
  飛び出す雌しべ     香りに誘われてきたミツバチ      花粉団子もつけて

 花が終わると花の根元から新葉が出て来ます。トサミズキの葉は、丸いフォルムがポップな印象、1度折りたたんでから広げたようなシワが特徴的です。
 秋に気温が下がると、緑色の葉は黄緑色からオレンジへと色づき紅葉も楽しむことができます。

 
  花の根元から新芽が芽吹きます。       葉のフォルムが印象的

 花後に小さな緑の実が集まって房になり、花と同じように垂れ下がります。10月~11月、実が熟して茶色になります。実のなかには黒く楕円形の種子が2個入っていて、乾燥すると二つにわれて遠くへ散らばります。実の殻は空洞になって春先まで残っていました。
 この種子の発芽率は50%前後、種子を発芽させ観察した人の記録によると、秋に採取した種をまき、冬越し後に発芽できたものは、そのまま成長して翌年の春に花を咲かせていました(GreenSnap トサミズキ 実生に挑戦!)。
 前年枝を1月下旬から2月に採取し貯蔵しておき春に挿したり、当年枝を夏に挿したりすると、挿し木でも育てられるそうです。


      花の終わり      緑の実ができます。   種子(円内)と殻

 早春、同じマンサク科の花でトサミズキと間違えられるのがヒュウガミズキです。トサミズキと同じく、庭園や公園に植えられていて、葉の出る前に穂状の黄色い花を多数ぶら下げます。樹高が1m~2mとトサミズキよりさほど大きくならず、花も葉も小さいのが特徴です。庭木としてはツツジなどの灌木のような扱いで植えられています。

 
     ヒュウガミズキの花           樹高は低く株立ち状です

 枝につく小花の数を比べてみると、トサミズキは6個から8個ほどですが、ヒュウガミズキは1個から3個。雄しべの葯を見ると、トサミズキは暗赤色をしていますが、ヒュウガミズキは黄色です。小花の数が少なかったり、咲いている花の雄しべの葯が全部黄色だったりしたら、ヒュウガミズキと考えていいでしょう。
 公園などでは一緒に植えられていることが多いので、実際に見比べてみるといいと思います。

 
     トサミズキの小花は8個前後     ヒュウガミズキの小花は1~3個ほど

 トサミズキは土佐(高知県)に自生しますが、ヒュウガミズキは日向(宮崎県)に自生していないことから、その名の由来について研究者を悩ませてきました。                             
 明治以降の園芸書には、ヒュウガミズキは別名イヨミズキの名でも出ています。トサミズキ属の分類と分布を詳しく調べた山中二男氏(1966年)によると、ヒュウガミズキの確かな生育地は石川県、福井県京都府兵庫県の4県内に限られていて、日向(宮崎県)や伊予(愛媛県)などの自生は見られないといいます。
 牧野富太郎博士は、花も葉も実も小さいことから、「ヒメミズキ」と名づけられ、それが訛ってヒュウガミズキと呼ばれるようになったのだろうと述べていますが、根拠があるわけではありません。京都府北部の丹波地方に見られることから戦国時代にこの地を所領していた「明智日向守光秀」に由来するとの説もあるようです。これに対して森林植物研究家の峠田宏さんはおもしろい説を述べています。

 江戸時代から園芸植物としての地位を得ていたトサミズキに対して、小ぶりな方の品種を何と売り込んだのか。土佐と区別するために、産地でもない「伊予」や「日向」を適当につけたところ、伊予の方は受けが悪かったようです。
 やはり、何らかの理由付けが必要なのです。旧国名の日向ではなく、「日向守」のヒュウガミズキといえば、人気のあった明智日向守が連想され、その領地と産地が重なっていることも理由になります(子ども樹木博士ニュースNO78 樹木名の話16 峠田宏)。

 峠田さんによれば、土佐の名で地位を得たトサミズキに対抗して、園芸業者がヒュウガミズキを広めるため、産地と関わりなく、日向や伊予の名をつけて売り込みをはかり、日向の名が残ったのではないかという話なのです。                 
 トサミズキとヒュウガミズキは19世紀にシーボルトの『日本植物誌』(1835~1870)によって海外に紹介されています。この本は初めて日本の植物を本格的な彩色図譜で紹介したもので、図版は驚くほど精緻で美しいものです。このときのトサミズキは和名が「Tosa-midsuki」と表記されていますが、ヒュウガミズキは「―」となっています。当時の和名はまだはっきりしていなかったのでしょう。
 植物学者や研究者が悩んでいる間にも、名の決まらない樹木をどう名づけて広めていくかは園芸業者の取り組みとして当然ありうることです。峠田さんの話が本当のところなのかもしれません。


     トサミズキは土壌を選ばず、人の手を借りて仲間を増やしています。

 トサミズキは土佐近辺の蛇紋岩地帯に自生、ヒュウガミズキも蛇紋岩・カンラン岩地帯などの限られた地域に分布していますが、蛇紋岩は硬くて風化しにくく、蛇紋岩から溶け出すマグネシウムイオンは、植物の根からの吸水を鈍らせるので、このような土壌には通常の草木は生育できないといわれています。
 トサミズキやヒュウガミズキはおそらく他の場所では他の樹木との競争に負けてしまい、蛇紋岩地帯の特殊な環境に適応することで生き延びてきたのでしょう。

 蛇紋岩の山といえば、尾瀬至仏山笠ヶ岳、岩手の早池峰山が知られています。花の山で知られる早池峰山に登ったときに、山名を冠したハヤチネウスユキソウやナンブトウウチソウ、ナンブトラノオなどの世界でも稀な高山植物に出会うことができました。これらの植物は普通の植物が育たない蛇紋岩の地に生存の場を求めて適応し独自の進化をとげてきたもので蛇紋岩残存種と呼ばれています。他の蛇紋岩の山でも一般の山で見られない高山植物が蛇紋岩残存種として残っています。
 蛇紋岩残存種は、その地に適応して生き延びていますが、逆にその地を離れると生きることのできない希少種です。ところが、蛇紋岩残存種でもあるトサミズキやヒュウガミズキは、幸運にも土壌を選ばないという性質を持っていました。自然界では限られた土地でしか自生できなくても、早春の花を求める人の手によって、これからも庭や公園で植え続けられていくでしょう。
 トサミズキやヒュウガミズキは人の手を借りてか、あるいは巧みに利用してか、園芸樹として生きることで生存の道を見出しているのです。(千)

◇昨年3月の「季節のたより」紹介の草花

見ているだけで見えていなかった

 ニラの種を蒔いて1週間、発芽はまだかとプランターに眼を凝らす。「まだ早いのかな?」とあきらめかけたその時、一本のか細い芽を見つけた。「こんな弱弱しい芽ではなかなか見つからない」と改めて表面を見直すと、たくさんの芽が見つかった。見つける「眼」を持っていなかっただけなのだ。既にニラは、たくさんの芽を出していた。そういえば教員1年目にもそんな体験をした。

  中学校での「荒れ」が広がっていた頃の話。斜に構えるクラスの生徒たちと、何とか秩序とメンツを保とうとする新米担任の連日のバトルが続いた。私は生徒たちを叱っては大きな反発を食らう繰り返しで精根ともに尽き果てていた。神経性胃炎と診断され、学校にしばらく通えないこともあった。見かねたあるベテラン教員が「子どもは認められ、褒められて初めて成長するものだよ」と助言してくれた。実際、その先生の授業では、同じ生徒たちが目を輝かせて生き生きと学習する姿が見られた。

  「こんな子どもたちのどこを褒めればいいの?」悩める日々が続いた。ある昼休みのこと。教卓から教室の様子を眺めていると、田中さんが友達の落ちた筆箱をさりげなく拾って机に置く光景が眼に入った。「おっ」と思い、「優しいな!」と彼女に声を掛けると、にこっと微笑んだ。久しぶりに見るクラスの生徒の笑顔だった。

  「こういうことか?」そんな目線で改めて子どもたちの様子を見ていると、子どもたちの「おっ」という行動がどんどん眼に飛び込んできた。教室に落ちていた紙くずをゴミ箱に捨てる子、曲がっていた机の列を当たり前のように揃える子、教室の隅まで丁寧に雑巾で拭く子・・・褒めたいことがたくさん目の前にあふれていた。それまでは見ていただけで見えていなかったのだ。それを言葉にすると子どもたちはとても喜んだ。

  数十年後の中学校での教育相談(親子面談)でのこと。学年スタッフは子どもたちには楽しい学校生活を送ってほしいと語り合った。「せっかくの機会だから、子どもたちのいいところを親と担任とで共有できる機会にできたらいいね」ということで、担任が「当日、お子さんのよいところを2つ教えてください」と宿題を出した。親からは「悪いところならいくらでも出てくるが、よいところなど考えたこともなかった」「改めて我が子のことを考えてみると結構いいところがあった。うちの子すごい」という反応。担任からは「こんなに楽しい面談は初めて。親の子どもへの思いがビンビン伝わってきて聞く度にウルウルした」という感想が聞かれた。

 「我が子のいいところがわからない」と悩む親はこう考えたらいい。「ご飯をたくさん食べることも自分の体にとっていいこと」「ご飯をおいしそうに食べることも料理した人を喜ばせる才能」「朝、元気よく『おはよう』と家族に挨拶できることも」「弟の面倒をよく見ることも」「自分の考えをはっきり主張できることも」「自分の食べた茶碗を片付けることも」「動物に優しくすることも」「足が遅くても一生懸命走ることも」「アニメを見て涙を流すことも感受性の豊かな証拠」。こう考えてみれば、我が子のいいところがたくさん見つかり愛おしく感じるはずだ。多くの親と教師が、「あなたにはこんなにいいところがある」と声に出して伝えてほしい。子どもたちはとても幸せな気分になりますます自分を好きになること請け合いである。(エンドウ)

奈良教育大学附属小学校で起きていること(訂正版)

 前回の投稿の中で、学習指導要領の作成年度に誤記があったので、訂正し、改めて掲載します。   

  学習指導要領の法的拘束力について、改めて考える  

 今年の1月、耳を疑うようなニュースが飛び込んできました。奈良教育大学附属小学校において、教育課程の実施等に関し法令違反を含む不適切な事案がある。それは学習指導要領に示されている内容の実施不足(授業時数・履修年次・評価の実施不足等)、教科書の未使用等である。そこで学校の教員を大量に他の学校へ出向させるというものです。
 具体的には毛筆指導、道徳、外国語、君が代の指導などが不十分であることや、職員会議の決定権が強く校長の権限を制約していることなどに疑問を感じたと、校長は説明していました。
 我が身を振り返ってみれば、書写の時間数、道徳の内容、君が代の指導が6年生だけ、教科書の未使用、プリント教材の利用など、どれもが私の実践内容と重なるものばかり。
 もう少し具体的にみると、習字の時間で筆ペンでの指導が良くない。しかし、これは市内各地からバスで通学する子どもたちの負担を減らすための選択だったそうです。図工の教科書を使用してないことに対しては、保護者から「描く方向のデッサンから始まり、絵の具やパレットの基本的な使い方をしっかり教えてくれている。教科書にはどこにも書かれていない。不満をいうなら全校図工展の作品を見てから言って欲しい」などなど。
 そもそも教育大学附属小学校の校長は、ボクの知る限りでは、その大学の教授が着任するはずです。今年度やってきた校長は、教育委員会から派遣されてきたそうです。付属小の実践や教育課程が広まることを恐れた行政の対応とも考えられます。
 今、全国の多くの研究者や教師たちが、奈良教育大学附属小学校の教師たちへの処分とも言える出向命令に異議を唱えて、署名運動が急速に広がっています。

 そこで40年ほど前、学習指導要領の法的拘束力について、多くの研究者や教育関係者の発言を元に考えたメモノートがあることを思い出し、改めてワープロで打ち込み直しをしました。
  現在、教育基本法も改悪され、最新の学校教育法も読んでいないので、多少、現状に沿わないことがあるとは思いますが、あえて紹介します。

 「学習指導要領の法的拘束力について」
 学習指導要領が初めて作成されたのは1947年。当時、文部省はこの学習指導要領について、次のような説明を行っています。
 『この書は、学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、1つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的でつくられたものではない。新しく児童の要求と社会の要求に応じて生まれた教育課程をどんなふうに生かして行くかを教師自身が自分で研究していく手引きとして書かれたものである』(学習指導要領一般論・試案、序論 昭和22年度・文部省)
 ここにで分かるとおり、学習指導要領には、戦前に用いられた「教師用書」のような「法的拘束力」はまったくないこと、また、「拘束力」をもたせることは、子どもの教育にとってどんなに有害であるかを、文部省自身が説明していたのです。
 それではいつから学習指導要領の法的拘束力がいわれるようになったのか。それは1958年の第3回目の学習指導要領のときから、試案の2文字が外され、官報での告示の形になりました。そして文部省は、制度的には学校教育法施行規則が、文部省の一存でつくれるのをいいことにして、国民に計ることなく、その25条を一方的に次のように変えてしまいました。
 それまでは、「小学校の教育課程については学習指導要領の基準による」となっていた条文を、「小学校の教育課程については、(中略)教育課程の基準として文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領によるものとする」と中略以下の文を付け加えたのです。中学・高校についても同じです。そして、それまでの「試案」の2文字を消して、官報での「告示」欄で公示しました。
 文部省はさらには次のように言い出しました。<学習指導要領には法的拘束力があります。なぜなら、学校教育法施行規則に「小・中・高」の教育課程は、教育課程の基準として文部大臣が別に公示する学習指導要領によるものとする」となっているからです。また、政府が法令の公布などを国民に知らせるための官報でも、「告示」されています。だから学習指導要領には「法的拘束力」があるのです>と。
 しかし、このような言い分は通りません。なぜなら学校教育法施行規則に書かれていることが「法的拘束力」をもつためには、まずその内容が学校教育法にきちんと書かれていなければならないはずです。ところが学校教育法には、そのようなことはどこにも書かれていません。法律に書かれていないものに「法的拘束力」が生ずるわけがありません。
 では学校教育法には一体どんなことが書かれているかをみてみます。学校教育法には、「教科に関する事項は……監督庁が、これを定める」(第20条)、また監督庁は「当分の間、これを文部省とする」(第106条)と書かれています。
 つまり学校教育法には、文部省は「小(中・高も同じ)学校の教科に関する事項」を「定める」ことができるとだけ書いてあり、学校教育法が、教科に関して文部省にあると認めている権限はこれだけです。従って学校教育法では、文部省が「教育課程の基準として」の学習指導要領をつくることはできないようになっています。
 この「教科に関する事項」とは、子どもの学習権と国民の教育水準の確保のために、どうしても全国的に共通でなければならない、国語や算数などの教科名、標準授業時数、高校の卒業単位などのことを指す言葉だからです。つまり、教育の内容や方法まで文部省が決めていいなどとは、どこにも書かれていません。それは教育基本法第10条で教育行政が教育内容にまで立ち入ることをきびしく禁止していることからしても当然のことです。
 しかし文部省はどうしても教育内容を権力的に統制したいがために、とんでもないすりかえを行いました。それが「教科」と「教育課程」のすりかえです。つまり学校教育法でいう「教科」とは「教育課程」と同じだという強弁です。
 もともと「教育課程」とは「教科」と「教科外」をふくむ教育活動の全体を指す言葉です。従って、「教科」よりはるかに広い範囲の内容を含んでいます。それなのに文部省は勝手に同じものだと言っておいて、<学校教育法には「教科に関する事項は文部省が決めることができる」と書いてある。ところがこの「教科に関する事項」とは「教育課程」と同じ意味である。だから文部省は、教育課程の基準として「学習指導要領」をつくることができる>とごり押ししたのです。二重三重のペテンとしか言えません。  <仁>

「釣り」だけではない、もう一つの顔を持つ男!

  畑づくりもやってます!
 地元の農家さんから畑の一角を借り受け15年ほど野菜を作っています。15坪ほどの限られた土地で、いかに効率的に多くの種類の作物を栽培するか、その計画が冬の間の楽しみです。

  昨年は畑の3分の1をいちご園にしようと考え張り切って苗植えや施肥を続けたものの、密集させ過ぎたためか収穫の時期になっても実なりが悪くガクッ。
 サツマイモも10株植えました。蔓が伸びて葉がたくさん広がり、秋口にさぞ栄養分が芋にたまっただろうとワクワクしながら掘り上げたときも、ひょろっとした小さな芋ばかりでがっかりでした。
 スイカは6株植えたら、昨年の高温でたくさんの実がつきました。ただ一斉にできてしまうため、ご近所に分けても食べるのが追いつかず、多くを腐らせてしまったり、カラスにやられたりと散々でした。まさに毎年が勉強です。

 しかし、長くやっていると「トウモロコシやニンニクは自分でつくるより買って食べたほうがラク!」とか、「大根は聖護院と青首の両方を植えたい」など、自分なりのこだわりが生まれてきます。時にはセオリーに反した実験も試みます。
 今年はオクラの根を残してみました。一年草として扱われていますが、長年付き合ってみると、根の張り具合などからどうしても一年で終わる植物には思えないからです。果たしてどうなるか。とても楽しみです。(エンドウ)

   

教育・子育てに一息つく暇はなし?

 先週23日の佐藤学さん講演会を終えて、ホッと一息つく暇もなく・・・といっても、センター主催ではありませんが、今週末も教育・子育てかかわる企画が土曜日、そして日曜日と目白押しです。

  

 一つは、仙台の子どもと教育をともに考える市民の会主催教育Caféです。今週末の3月2日(土)13時30分~ フォレスト仙台4F会議室(無料)で開催します。今回が、昨年に続き2回目となります。
 教育・子育ては、子どもにかかわる人々が知恵を出し合い共に取り組む社会的な営みです。だからこそ、日ごろから子どものことをみんなで気さくに話せる場が必要です。しかしこの間はコロナもあって、そういう機会や場が減っていましたし、またコロナでなくても持ちづらくなってきているように思います。
 教師は教師、保護者は保護者、それぞれの立場によって子育て教育について、いろいろな悩みや思い、願いを持っています。先ずは、それぞれの思いや願いを語り合うことから子どもたちの今や未来について考えてみませんか。ぜひご参加ください。

 もう一つは、平和・民主・革新の日本をめざす宮城の会主催シンポジウム「あたらしい社会の主体者として考え・行動する市民を育てる教育とは」が、教育Caféの翌日3月3日(日)14時~ 仙台戦災復興記念会5F会議室(資料代・会場費500円)で行われます。
 当センター研究部長の久保先生が企画段階から関わり、当日もコーディネーターを務めるという気合の入った企画です。主権者を育てる教育の取り組みとして、以下の4つの報告をもとに、今日の教育・学校のあり方について話し合いをします。ふるってご参加ください。

 ◎プラゴミから地域環境問題へ(小学校)
 ◎学校行事・部活動で民主主義と自治を育てる(中学校)
 ◎学校行事と学年活動を話し合いで練り上げる(中学校)
 ◎高校の生徒会活動を改革した取り組み(高校)

季節のたより142 ミツマタ

  春を告げる黄金の小花 優れた和紙の原料

 2月も後半になると動植物にとってもうれしい季節です。近くの民家の庭先にあるミツマタのつぼみもふくらみ、黄色い小花が開き始めていました。もう少しすると、黄金の花に変わり見頃を迎えるでしょう。
 ミツマタは冬の終わりを知らせ、春の訪れを告げる花のひとつです。


              早春に咲くミツマタの花

 ミツマタジンチョウゲ科のミツマタ属の落葉性の低木で、中国中南部からヒマラヤ付近が原産地といわれています。
 枝は、どこまでいっても必ず三つに分岐する特徴があるので、その姿からミツマタ(三椏)という名がつきました。大きく育っても樹高1m~2mとコンパクトで、よく枝分かれして丸い樹形に育ちます。
 渡来した時期がはっきりしていませんが、『万葉集』(783年)に「さきくさ」(三枝)と呼んだ歌が収載されています。

 春去れば  まづ三枝の  幸きくあらば  後にも逢はむな  恋ひそ吾妹
                 柿本人麻呂 (万葉集 巻10-1895)
(春が来ればまず咲き始めるさきくさのように無事でいたなら、また巡り会えるのだから、そんなに恋しがらないでおくれ 愛しい人よ)

 万葉集に詠われた「さきくさ」(三枝)は、現在、ミツマタジンチョウゲフクジュソウなどの名前があげられていて、ミツマタとする説が有力ですが、これだという決定的な根拠には欠けるようです。
 1598年(慶長3年)に徳川家康から伊豆国修善寺村の紙漉工に対して和紙の原料に三椏の伐採を認めた文書があることから、ミツマタが中国から日本へ渡来したのは慶長年間(1596年 - 1615年)ではないかとも考えられています。

 ミツマタの花のつぼみは、秋に細長い葉の間に準備されます。12月頃、寒さが厳しくなり落葉すると、枝先にうつむき加減についたつぼみが目に入るようになります。

 枝毎に三また成せる三椏(みつまた)の蕾をみれば蜂の巣の如  長塚節

 ミツマタのつぼみは、銀色のフェルトをまとい、上の歌のように小型の蜂の巣のような形をして越冬し春を待ちます。

 
   秋に準備されるミツマタのつぼみ     冬に落葉するとつぼみが目立ちます。

 2月~3月、暖かくなるにつれて、銀色のつぼみが黄色に変わり、しだいにその数を増して、やがて、遠くからでもはっきりわかるような黄金の塊がいくつも並んで見えてきます。早春に黄色の花を咲かせる木はたくさんありますが、ミツマタの黄色は濃く鮮やかで、一気に春めいた雰囲気を漂わせます。


            一斉に咲き出すミツマタの花

 近くに寄ってくす玉のような花を見ると、小花が30個〜50個ほど寄り添って咲いているのがわかります。花は外側から咲き始めて内側へと咲き進み、満開になると夜空に打ち上げられる大玉花火のように華やかです。

 
   ミツマタの花とつぼみ       花は外側から内側へと咲き進みます。  

 ミツマタの花を構成している小花は、正確には花でなく葉の一部であるガクが変化したものです。ガクの先が4つに裂けているので、4枚の花びらのように見えます。ガクが花のように見えるものにはガクアジサイがありますが、他にもオシロイバナやチューリップ、アネモネなどの花もガクが変化したものです。
 ミツマタのガクの外側は銀毛に覆われ、内側は鮮やかな黄色です。花の内部には雌しべ1つと雄しべが8つあって、いくつかの雄しべがガクの縁から見え隠れするのが観察できます。

 
   ミツマタの花は小花がたくさん集まったものです。    紅色のものが雄しべです。

 早春から春にかけて黄色の花が多いのは、まだ色彩に乏しい山野で黄色が目立つ色だからでしょう。早春から活動を始めるアブやハエの仲間は、黄色にとても敏感だと言われています。これらの昆虫を呼び寄せるにはぴったりの色なのです。

 花が終わると卵形の乾いた実ができ、6月~7月に熟します。暖地ではよく結実するといいますが、寒冷地では難しいのか実を見ることはありません。ミツマタは種子でも挿し木でも増やすことができるということです。

 ミツマタの園芸種で、オレンジ色から朱色の花をつけるものがあり、アカバミツマタと呼ばれています。ミツマタの花の内側は黄色ですが、アカバミツマタは内側が赤いので、花全体が赤紅色に見えます。
 開花時期は2月~4月で、黄花品種のミツマタより花期が少し早いかもしれません。花の色が赤色ですが、花の形や枝が三つに分岐しているのは同じです。

 
  アカバミツマタの花     枝が三つに分岐するのも黄花と同じです。

 ミツマタは花の美しさを鑑賞するだけでなく、和紙の原料とされてきました。古くから和紙の原料とされてきたものには、ミツマタの他に同じ科のガンピ(雁皮)とクワ科のコウゾ(楮)があります。

 和紙の技術は7世紀初頭に中国から伝わったとされています。 当時の紙は、もろい上に虫害に弱く、保存に適していなかったようです。現存する「正倉院文庫」には何千という写本が保存されていますが、これを追っていくと、当時の職人が、紙の品質を上げるためにどれほど多くの試行錯誤を繰り返したかがわかるといいます。
 平安時代になって、薄くて強い和紙を作ることのできる「流し漉き」の技術が確立、工夫と改良を重ねて日本独自の和紙の技術と文化が発達していきました。

 日本で最初に和紙の原料として使われていたのはガンピとコウゾです。
 ガンピはジンチョウゲ科の落葉低木で、暖地の山中に生育しますが、生育が遅く、栽培が難しいので、野生のものの樹皮が用いられてきました。明治から昭和の中ごろまで、謄写版印刷の原紙用紙として大量に使用されていたのがガンピを原料とした雁皮紙です。
 コウゾはクワ科の落葉低木で、本州以南に広く分布、栽培しやすく成長が早く、和紙原料としては最も多く使われてきました。県内で有名な白石和紙や柳生和紙もコウゾを原料としています。コウゾを原料とする「和紙 日本の手漉(てすき)和紙技術」は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録されています。

 
  ガンピ 県内でみられません。   コウゾ(ヒメコウゾとカジノキの交雑種)

 ミツマタが和紙の原料として用いられたのは、江戸時代前期頃からと考えられ、当初はコウゾやガンピの代替品であったようです。その後、コウゾに次ぐ手漉き和紙の主要な原料となっていきました。
 今年(2024年)の7月3日から、20年ぶりにデザインが刷新された新紙幣(一万円、5千円、千円)が発行されますが、1879年(明治12)に初めて紙幣の原料として採用されたのがミツマタです。現在の紙幣は、ミツマタにマニラ麻を混ぜて、専用の特殊な和紙で作られています。


  ミツマタは1879年(明治12)に紙幣の原料として採用、現在まで使われています。

 和紙に対して西洋の機械漉きで作られたのが洋紙です。
 1874年(明治7)、日本で初めて洋紙が生産されると、和紙の生産量は急激に少なくなっていきましたが、手漉和紙の技術は、全国の数少ない和紙原料の産地で受け継がれていきました。
 洋紙と和紙ではその紙質が大きく違い、洋紙は大量生産できますが、破れやすいので、用途も雑誌や新聞などに限られています。一方、和紙は洋紙に比べて軽量でも耐久性がとても優れていて、さまざまな用途に使われています。
 耐久性の秘密は繊維の長さにあって、洋紙の原料であるパルプは1~2mm、和紙の原料であるミツマタ3.2mm、ガンピ5.0mm、コウゾ約7.0mmです。繊維は長ければ長いほどからみあって丈夫な紙になります。
 ミツマタを原料とする日本の紙幣は、ポケットに入れたまま洗濯してしてもボロボロになりません。紙のキメが細かく印刷が鮮明、和紙独特の色や風合い、触ったときの感触は、「透かし」の技術の精巧さとあわせて偽造発見の第一手になっているということです。
 日本の和紙は国内だけでなく、世界の美術品や絵画などの修復に欠かせないものとなっています。


 ミツマタは花の美しさとともに和紙の原料として暮らしや文化を支えてきました。

 今、政府は経済産業省をとおしてキャッシュレス化に旗を振っています。新しい紙幣を発行することと一見矛盾する政策のように感じるのですが、旧紙幣が金融機関に持ち込まれて新紙幣に交換されたり、いったん銀行口座を通ったりすると、その人の資産として把握される可能性があるとのことです。将来のキャッシュレス化のために、国民の金融取引をすべてを把握し徴税を確実に行うしくみを整えるのが国の本音とか、新紙幣の発行を単純に喜んではいられないようです(PRESIDENT Online「新紙幣発表"本当の狙い」磯山友幸)。

 キャッシュレス化と合わせてペーパーレス化の動きも加速化しています。
 記録媒体である光ディスクの寿命は10年、ハードディスクは5年ほどですが、洋紙は百年、和紙は千年と言われています。奈良の正倉院に所蔵されている日本最古の紙は702年の美濃和紙で1300年以上前に遡ります。
 日本の和紙は記録を残すだけでなく、物語や草紙もの、絵画や版画、絵巻物、障子や襖、器や雨傘、玩具、祭礼の飾り物など文学作品から日常生活用品まで暮らしのさまざまな用途に使われてきました。紙の文化は人の暮らしに息づき、心を豊かにしてきました。

 図書館に入るとふと太古の森の中に入り込んだような気になることがあります。書物はもともと森林由来の紙であったわけで、その気配が生きものとしての人間の生理と馴染み、精神に安らぎを与えているのでしょう。
 生産性や効率だけを求めるのであれば、デジタル化を推進、紙の文化は必要ないといわれるのでしょうが、人の精神形成と深く関わりのある紙の文化をどう暮らしに残していくのか、私たちの知恵が問われているように思います。(千)

◇昨年2月の「季節のたより」紹介の草花