mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

実りの『秋のこくご講座』です! ぜひご参加ください。

 夏の厳しい暑さも一段落、朝晩はずいぶん涼しくなってきました。とはいえまだこれからも昼間は暑い日があったりするでしょうか。夏の暑さによる疲れが出てくる頃かもしれませんね。体調には気をつけましょう。

 秋は、スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、学習の秋!です。なにをするにもよい時期です。夏に引き続いて「秋のこくご講座」を開催します。ぜひ、ご参加ください。お待ちしてます。

  秋のこくご講座 2019

 日 時:10月12日(水)13:00~16:00
 ところ:フォレスト仙台 4F会議室
                  (参加費は、無料)

◇第1部 全体会  子どもと授業を考える(13:10~14:30)
   Part1(13:10~13:20)
   
  考えてみたいこと ~文学作品が消えていく~ 
           春日辰夫さん(前センター所長)

   Part2(13:30~14:30)
     「ヒロシマのうた」の授業を通して

 小学校6年間のまとめ教材とも言える「ヒロシマのうた」を取り上げ、その授業の中での子どもたちの様子や、この作品の魅力や難しさなどを話題提供してもらい、参加者と一緒に授業づくりを考えます。
 また今回は、教育関係者だけでなく文学者・文学関係者のあいだでも大きな話題となっている高校国語教育から「文学作品」が消えることについても取り上げます。このことは高校に限ったことではありません。すでに小学校教材の扱い方などについても同様のことが起きているように思います。短い時間ですが、国語教育のなかで文学作品を学ぶことの意義とともに、消えていくことで国語教育はどのように変わって行くのか、そのことを考えていくきっかけとなる話をしてもらいます。

◇第2部 分散会  教材のポイントを考える(14:40~16:00

  【下学年部】『サーカスのライオン』(3年生)
  【上学年部】『注文の多い料理店』(5年生)

 それぞれのグループに分かれて、読みの授業を進めるうえで欠かせないポイントや作品の魅力、そして物語のおもしろさなどをみんなで出し合い、考え合います。   

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正さんのお遍路紀行(四国・愛媛編)その8・最終回

 菩提の道場 ~8日間で愛媛を歩く~

【8日目】 3月22日(金)  ~香川「涅槃の道場」最初の札所を歩く~

JR伊予西条(7:20)⇒ JR観音寺(8:24)⇒ バス ⇒ 谷上バス停(9:38)⇒ 3.8km ロープウェイ脇 ⇒ 4.2km 66雲辺寺 ⇒ 9.4km 67大興寺 ⇒ 8km JR本山発(17:40)⇒  JR坂出発(21:44)⇒寝台特急東京着 7:08 ⇒ 仙台着(10:00)

 昨日で愛媛を終えていたので、この日は歩くつもりは全くなかった。ロープウェイがあるというので観光がてら雲辺寺に行き、早々に観音寺駅に戻る予定だった。でも、ロープウェイ乗り場までの坂道をふうふう登っていったら、いつの間にか歩きモードに入ってしまい、山上にある雲辺寺へのへんろ道を歩いていた。
 およそ2時間の軽登山で雲辺寺に着いたが、空気が冷たく、ほてった体がどんどん冷えていった。四国霊場で一番高いところにあるという情報と、この凛とした空気の具合から「雲辺寺」の名前に納得した。

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       66番 雲辺寺

 同じ道を下るのは面白くないので、次の札所までの9kmを選択。ただしこのような日程になることは考えていなかったので何も調べてはいなかった。でも、へんろ道標が連れて行ってくれるはずなので、山道をどんどん下った。なぜ “どんどん” なのかというと、67番大興寺からJRの駅までどれぐらいあるのかが見当つかないので、その分の時間を稼いでおかないといかんと思いハイペースで下っていった。少し膝が痛くなった。

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《台湾のショウさんと出会う》
 下りきって平地になり、やれやれと思いながら歩いていると、前方にかなり疲れた足取りのおへんろさんがいた。荷物もかなり大きく、山を数日間縦走できる装備のように見えた。すぐに追いついてしまい、黙って追い越すのも何だなあと思い、「おつかれさんで~す!」と声をかけた。すると、私の歩いている方に近づいてきて「ワタシ、タイワンカラキマシタ」と返事が返ってきた。どこから見ても日本人だと思ったので、「Oh! really!」と言ってしまった。

 おへんろは一応修行なので、道連れはよくないのだろうが、次の札所まで一緒に行くことにした。日本語のへたなショウさんと英語のへたな私、言葉を探しながらおしゃべりをした。漫才のようなやりとりの中で分かったことは、ショウさんは、台湾帝国大学を出てプログラマーとして働いている。住宅の中古物件をネットで売買している会社だそうだ。働き盛りの40代。よくぞ休暇が取れたものだ。「なぜ、へんろなの?」と尋ねると、「日本のお寺はとても静かです」と言っていた。確かに、台湾のお寺とはずいぶん違うと思う。いわゆる観光地ではない “おへんろ” を目指してくるからには、もっと思想的な部分もあるのだろうが、いかんせん、私の英語力ではそこまで踏み込んだ話はできなかった。
 4,50分の道のりをショウさんと話せてとても楽しかった。彼も膝が痛くて嫌になりかけていたので、うれしかったようだ。大興寺で握手して別れた。「また、会おうぜ!」

 さて、問題はここから。へんろ道標は次の68番神恵院を教えてくれるが、JRには70番の本山寺の方が近いと判断し、へんろ道から外れて歩くことにした。スマホはあるのだが、地図の距離感がつかめず、何度も人に聞いて歩くことになった。かなり疲れていたので、ここの歩きはほんとに辛かった。

《地元の仙人につかまる》
 2時間ほど歩いて、駅まであと10分ぐらいの町中に入った。17:35の坂出直通に乗ろうとラストスパートをかけていた。すると、向こうから、髪が異様に長い仙人のようなご老人が近づいてきた。まさしく、おへんろ姿の私を目がけてきたのだ。「通しで歩いてきたのかい? どこから来なさった? あんたの家の宗派はなんだね?」などなど矢継ぎ早に話しかけられた。いつもなら、ありがたく会話を進めるのだが、時間がない。隙を狙って、電車の時間がもうすぐなことを告げてみる。「本山駅に行くなら、本山寺がすぐだから。そこのお寺は・・・・・」
 説明が始まる。とってもいい人なんだと思う。申し訳ないがこの時ばかりは、「すいません。電車が」と言って、歩き出してしまった。後ろから「あそこの信号右曲がれば近いぞ」と声が聞こえた。心の中で、すいません、ごめんなさいと謝った。

 やっと着いた。でも、17:43だった。しばし呆然。はあ~、あそこの5分が命取りだったか。まあ、これも修行だと思えば何のその。あきらめて、一服しようとライターを取り出した途端、電車が来たのです。えっ!別の電車? ちょっと迷ったが、遮断機が上がると同時に走り込んだ。どうも遅れが出たらしい。ふうと一息ついた。仙人のおじいさんを恨まずにすんでよかった。それにしても、この日が一番長く歩いたような気がした。

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    寝台特急は極楽じゃ!

《何か見つかったのか?》
 だいぶ乗り物に頼ってしまったが、それでも今回はよく歩いたなと思う。その点の充実感はある。山の中を歩いているときは特に楽しかった。ただ、これまでと少し違ったのは、久しく忘れていたことが妙に浮かんできたことだ。いいことよりも、そうじゃないことの方が多かったように思う。まさか懺悔を求められたのではあるまいか。いやいや、そうじゃないだろう。どんな人間だって、解決し得ない、あるいは消化できなかったことの1つや2つ抱えて生きているに違いない。何も考えずにただ歩き続けているうちに、普段は沈んでいたその類いのことが、揺られてぽっかり浮かんできたのだろうと思う。自分の未熟さを改めて突きつけられる感じだった。

 愛媛を終えて思うのは、スタート地点にいるような気分。向かう当てのないスタート気分。それってひょっとして、ただの気分転換かもしれない。笑える。次回の香川は何としても、一筆書きで歩きたい。どんな出会いがあるだろうか。体を鍛えねば。

加藤公明先生、ふたたび現る! 今度はどんな授業だろう?

 早いものですね、今年2月の加藤公明先生による高校生公開授業からもう半年が過ぎています。その加藤先生が、今度は高校の先生たちの組合で模擬授業をされるとのことです。 

 2月の公開授業を受けた多くの高校生たちは、歴史をほんとうに学ぶことの楽しさと醍醐味を感じてくれたようです。その一部を紹介します。

★とても楽しく受講することができました。学校では日本史を学んでいなくても理解ができ、新しい授業形態であると感じました。歴史を学びたい者として、新たな観点から見たり、他の人の仮説を聞くことの大切さなどを知ることができて良かったです。

★これまで歴史は暗記だと思っていました。でも今日の授業に参加して、歴史は暗記だけではわからないということに気がつきました。(中略)歴史を背景知識のつながりによって読み解けば、これまでとはまったく違った見方ができるのだと気づきました。2年生になったら日本史の授業が学校で始まりますが、楽しんで学べそうです。学校の授業も加藤先生の授業のようであったらと思います。

★普段から、物理や化学、数学で行っている「なぜ?」を突き詰めることを歴史でもやれるとは思わなかった。(中略)また、一遍上人絵伝に描かれている中から、何を売っているかを探していたとき、色々なところに目を向けられたと思っていたが、他の人の方が鋭い視点で物事を見ていたので、もっと注意深く読み解かなければと感じました。日本史の授業を受けていなかったにもかかわらず、とても楽しく学ぶことができました。

★加藤先生の授業は日本史の楽しさがすごくわかって、日本史が苦手な人にこそ受けてもらいたいような授業でした。私も将来、日本史のたのしさをたくさんの人に伝えたいです。

   実は、公開授業を参観していただいた多くの先生方や保護者のみなさんも、生徒のと同じように授業を楽しんでくれていました。

 今回はどんな模擬授業をしてくれるのでしょう。楽しみです! 組合員でなくても、誰でも参加できるそうです。2月の公開授業を受けてもう一度授業を受けてみたい! 受けたかったけど用事があってダメだった! そんな高校生たちも参加したりして・・・。そうしたら模擬授業じゃなくなってしまうか? 

 チラシに描かれたこけしちゃんは「この土器から何がわかるか? 加藤先生のマジックにこうご期待!」とピーアールしています。土器だけに、今から本当にドキドキです。ぜひ、みなさんもご参加ください。 

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 秋の教育講座

 【学習会】授業の魔術師  加藤公明 模擬授業
          ~これが本物の〈アクティブラーニング〉だ~   

       日時:9月21日(土)13:30~16:45
       場所:フォレスト仙台4F  4A会議室
                     
(※ 参加費 500円)

  なお17時からは、加藤先生も参加されての交流会が行われます。参加希望の方
  は、事前準備の関係がありますので、必ず下記までご連絡ください。参加費は
  1,500円です。どうぞよろしくお願いします。

 【主催・問い合わせ先】
  宮城県高等学校・障害児学校教職員組合
   ℡022-234-1335  Fax022-273-1767
   Mail miyagi-kokyoso@mb7.seikyou.ne.jp

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季節のたより35 ツリフネソウ

 つり下がるユニークな花、飛び散る種子

 ほの暗い林の中、小川のほとりで紅紫色の花が一面に咲いていました。この花を見ると夏の終わりを感じます。郊外学習で、こどもたちがこの花を見つけて、「金魚が泳いでいるよう」「ほら貝のようだ」「宇宙船がゆれている」とおしゃべり。いろんな想像をさせてくれるユニークな形の花です。花の名は「ツリフネソウ」です。

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    水辺にゆれるツリフネソウの花。何の形に見えるでしょうか。

 ツリフネソウは、ツリフネソウ科の一年草で、熱帯アジアが原産。日本では、北海道や本州/九州/四国などの山麓の湿地に自生しています。花の時期は夏から秋。山地なら8月ごろ、低地なら9月から10月頃まで見ることができます。

 花の名の由来は、花が帆掛け船を吊り下げた形だからということ。でも、どう見ても、帆掛け舟には見えないと思っていたら、もう一つの説があって、生け花で使われる「つりふね」という吊り下げる花器に見立てたというもの。こちらの方が素直に納得できそうです。

 図鑑では漢字で「釣舟草」か「吊舟草」と表記されていますが、多いのは「釣舟草」の方。「釣る」は魚をつる、エサや金で誘惑してつるという意味合いなので、「ぶら下げる」の意味なら、「吊る」ということになるでしょう。「釣舟草」では、魚釣りの人が乗っている「釣り船」と思ってしまいそうです。別名に「ホラガイソウ」というのもありました。こどもたちの発想と同じでした。
 ツリフネソウの独特の花の姿は、形の異なる5枚の花びらでできています。目立つのが、下のガク片の袋状になっているところです。先端にくるりと巻いているところが距(きょ)で、ここにたっぷり蜜が分泌されています。

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 5枚の花びらが作る独特の花の形。奥に雄しべが見えます。

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 袋状にふくらんでいる下のガク片。先端で巻いているのが距です。

 この独特のユニークな花の形は、じつは受粉と深く関係しているのです。
 ツリフネソウの蜜は、花の奥の袋の中に潜りこめて、長い口を持つ昆虫でないと得ることができません。アブやハエなど、いろんな虫が羽音をたて飛び回っていますが、しきりに花に出入りしているのはマルハナバチの仲間でした。
 マルハナバチは、体の大きさが花の奥の袋のサイズにぴったり、それに舌も長いので悠々と蜜をもらえるのです。上の花びらのかげには雄しべが待ち構えていて、マルハナバチの頭や背中に花粉をつけます。マルハナバチは、花粉まみれになって、次の花へと移動するので、そのとき受粉が行われます。

 ツリフネソウは、花粉を運んでくれるパートナーに、マルハナバチを選んでいるのでした。独特の花の形は、ツリフネソウがマルハナバチに合わせて花の形や大きさを進化させてきた結果だと考えられています。ほかの昆虫がきても蜜を盗まれないようにしているわけですが、それでも、スズメガの仲間は、ホバリングしながら長い舌で蜜を吸い取ろうとし、体がデカすぎて花に潜り込めないクマバチは、外から距をかみ切って蜜を盗んでいきます。いつも思惑どおりにいかないところが自然の営みなのです。

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  花にもぐりこむマルハナバチ      蜜をねらうスズメガの仲間

 ツリフネソウの姉妹のような花がキツリフネです。山地の水辺を好むので同じ環境で一緒によく生えています。

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       ツリフネソウの中に咲く、キツリフネ

 ツリフネソウとキツリフネは、花の形は似ていますが、紅紫と黄の色の違いで区別がつきます。ほかに、花の後ろの距がクルンと巻いているのがツリフネソウで、巻かずに垂れているのがキツリフネです。ツリフネソウは葉の上に花をつけますが、キツリフネは葉の下に花を咲かせています。

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   葉の上に花をつけるツリフネソウ      葉の下に花をつけるキツリフネ

 おもしろいのは、受粉の仕方の違いです。ツリフネソウは、5本の雄しべが合着し、その中に雌しべが包み込まれていますが、自家受粉を避けるために、雄しべが先に花粉を出し、役目を終えた後から雌しべの柱頭が出てきて受粉します。一方、キツリフネは、花を咲かせて受粉する開放花(かいほうか)と、つぼみのまま自家受粉する閉鎖花(へいさか)を持っていて、両方で種子をつくります。命をつなぐそれぞれの知恵でしょうが、さてどちらが生き残りに有利でしょうか。ツリフネソウとキツリフネは似ているようで違っていて、独特の個性が見えてきます。

 ツリフネソウの熟した実をそっとさわるとぱちぱち種子が飛び散りました。少しの刺激でも破裂して種子が飛びだします。昔ホウセンカの実をつまんで、はじかせて遊んだことを思い出しました。そういえば、ホウセンカもツリフネソウ科です。

 ツリフネソウの学名は「Impatiens textori」。キツリフネの学名は「Impatiens noli-tangere」。同じ属名の「Impatiens」(インパチエンス)は、”こらえきれない””我慢できない”という意味。キツリフネの種名の「noli-tangere」(ノリ タンゲーレ)は、“私に触らないで”という意味です。そして、ツリフネソウの英名がTouch-me-notというのですから、どれも機知あふれる学名や名前です。それだけ、種子の飛び方が印象的だということなのでしょう。

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   ツリフネソウの実ができています。      触ると破裂しそうです。

 カラスノエンドウの実は、乾燥したさやのねじれる力で種子をはじき飛ばしますが、ツリフネソウの実は熟すと緑のさやが水を含んで膨張し耐え切れずに爆発、そのエネルギーで種子をはじき飛ばします。種子の散布の仕方も花によって異なる自然の巧みなしかけに驚いてしまいます。

 ツリフネソウの飛び出る種子の威力を、実際に目にした人がいました。自然界でめったに起こりえない偶然を目撃したのは、植物写真家の埴沙萌さん。

 たねが成熟すると、実のさや(果皮)が、とつぜんにはじけてたねをとばす。ちょうどとんできたアブの目に、ツリフネソウのたねが命中して、ついらくしたことがあった。 埴沙萌「植物記」(福音館書店

 大型写真集「植物記」の中の、たねの「ジャンピング」の写真に添えてあったエピソードです。

 アブにとって災難でしたが、この爆発は、植物が種子をできるだけ遠くへとばして、仲間をふやそうとする命の営みです。
 この爆発のエネルギーを、別の目的に使用したのが人間でした。全世界で約1億1千万個も埋められているという地雷の暴発で、どれだけ多くの命が失われていることでしょう。原爆、水爆による核爆発は、「いのち」あるもののすべてを殺戮するもの。これらは、自然界の生きものたちの生きる知恵にはないものです。

 人間は進歩に進歩をかさねているうちに自分のつくった文明といわれるものの洪水のために、いつかおぼれ死にさせられる日が来るのではないかと思われてならない。 (「ファーブル 昆虫と暮らして」林達夫編訳 岩波書店

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      共存して咲くツリフネソウとキツリフネの群落

 地球という自然環境が奇跡的に生み出した「いのち」。その「いのち」を永遠につなごうとして、植物たちは、花の色や形、葉や根のしくみ、種子の散布のしかたなどを進化させてきました。植物に限らず、自然界の生きものたちは、どんな過酷な環境でも、知恵を働かせて「いのち」を未来につなごうとしています。
 「昆虫記」の作者、ファーブルは、自然界の生きものの仲間である人間が、自然界の生きものたちとは全く反対の生き方を選んでいることを、100年前に警告していたのでした。(千)

 ◆昨年9月「季節のたより」紹介の草花

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西からの風18 ~私の遊歩手帖7~

  沖縄を歩く3

 前回、僕はおおよそこう書いた。「沖縄のアイデンティティーの根」は「遺棄の二重化された苦悩」すなわち、表裏をなす「遺棄される苦悩」と「遺棄する苦悩」の絡み合いが生む《遺棄されることも遺棄することも共に拒絶する意志》にある、と。そして、次回はハンセン病療養所「沖縄愛楽園交流会館」で見聞したことについて書くつもりである、と。

 つい最近のことだ。今年(2019年)の7月24日、安倍首相はハンセン病家族訴訟の原告らと初めて会見し、2001年に熊本地裁が下した判決、すなわち1953年来日本政府がとってきたハンセン病隔離政策は「憲法違反である」との判決を受け入れるという同年の小泉内閣の決定を安倍内閣は踏襲する旨を表明し、当該の隔離政策に対してあらためて「政府を代表して心から深くおわび申し上げます」と謝罪した。

 沖縄愛楽園交流会館が見学者に展示し問いかける問題は上記の問題に直結する。
 古来日本では「癩(らい)病」と呼ばれてきたハンセン病は、細菌の感染によって引き起こされる皮膚病であり、手足などの感覚が部分的になくなり、背中や顔などに赤い斑点が出る。急性の進行が致命的結果につながる病ではなく、進行は緩慢だが、しかし、その緩慢な病状の進行が結果として重い後遺症をもたらすことが知られている。(多くの場合、くだんの感覚麻痺が起きた部分が、それによって過重な負担を引き受けることとなり、その結果後述の「熱コブ」等の著しい損傷や化膿が生じ、それが致命症となるといった)。

 古来、形は様々であれおそらく世界共通して、ハンセン病患者には隠然たる隔離措置がそれぞれの共同体で採られてきたと思われる。また近代医学の発展のなかで細菌の感染による病であることが明確となるや、各国で今度は政府による隔離政策が採られた。日本においては、1907年(明治40年)に「癩予防二関スル件」が隔離方針を打ち出す最初の法令となり、1931年の「癩予防法」制定によって、全ての患者は住民から隔離された特別な療養所に入所し治療を受けるべきことが義務化され、自宅療養者も入所を強制された。また、療養所内での結婚は許可されたが、結婚と引き換えに男性には断種が、女性には堕胎が強いられることが多々あり、誕生した子供の殺害も生じた。
 しかし、1943年にアメリカで「プロミン」ならびにそれを錠剤化した「ダプソン」という特効薬が発明され、外来治療で十分完治可能であり、もともと当該細菌の感染力自体が弱いこともあり、およそ患者の隔離措置は不必要であることが明白となった。ところが日本においては、政府の怠慢によってこの特効薬の徹底普及ならびに隔離政策の撤廃と治療の外来化の措置は遅延し、「癩予防法」による隔離政策は事実上1996年まで継続することになった。(1953年の「らい予防法」は実質的に1931年のそれの継続であった)。
 以上が問題の一般的背景である。

 くだんの愛楽園交流会館は、愛楽園の歩みが如何にこの問題を沖縄の地で一身に凝集するものであったかを見学者に展示し問題提起する、特設のトポス(思考の磁場)なのだ。僕は、この会館で一冊の本を購入した。「ハンセン病回復者の愛楽園ガイド」をサブタイトルに掲げる『「隔離」を生きて』(沖縄タイムス社、2018年)という本であり、著者は平良仁雄さんだ。そして彼はまさしく「ハンセン病回復者」なのであった。

 ところで、敢えて問おう。「ハンセン病回復者」とは何者か?
 彼の本を読むと実に良くわかる。「ハンセン病回復者」とは、確かにハンセン病療養所の「退所者」であるが、それは「完治者」であるという認定を意味せず、常に「軽快退所者」、つまり《差し当たってハンセン病は軽度のものとなり快方に向かっているとはいえ、しかし、いつ何時再燃し重症化に向かうやもしれぬ者》という認定を意味し、この認定の隠れたる意味作用は次の点に向けられるということが。すなわち、「退所者」は、自分が「退所者」であることを絶対に周囲に悟られてはならず、それを隠すことに汲々とせねばならない、そのあまり、「肉親」たる家族との間においてすら「退所者」である事実を「有って無きが如きもの」へと不在化し欺瞞化しなければならないということ、かくて「退所者」たる「回復者」とは、かかる生き方・《処世》を宿命づけられた者のことだということである。

 くだんの交流会館ガイド・リーフレットに「人生被害」という言葉が出てくる。いわく、かの「癩予防法」の実質的な90年間の継続(1907~1996)によって「患者は病気が治っても、ハンセン病の差別に苦しめられ、『人生被害』を受けた」と。
 愛楽園は、沖縄中部の名護市に属するが、名護市街とは現在は二つの大橋で結ばれる屋我地(ヤンバル)島の北部にある。その敷地は見学者には実に広大な平地であると映る。だが、それもそのはずである。それは定員450名の患者が、終生そこで居住し労働し生活することに耐えうる隔離地として構想された区域なのであるから。そして平良氏の本を読むと、名護市ではもとより、久米島ですら、多くの島民にとって「ヤンバル」は暗黙の裡に愛楽園を指し、「ヤンバルに行く、戻る、から来る」等々は「ハンセン病患者」を指示する隠語となって使用されていたことがわかる。

 平良氏は9歳のとき、父親に連れられ、愛楽園に収容される。彼は書いている。「最近まで、私がハンセン病にかかっていたことについても、また、私が愛楽園に連れて行かれた時のことについても、家族の中で話題になることはなかった」と。彼の次男はこの本の付録としてついているインタビュー(ジャーナリスト山城紀子による)のなかでこう語る。「自分には小さいころの記憶がなんですよ。・・・〔略〕・・・お父さんに愛楽園はどういうところか聞いたことがなくて、何なのか知らなかった。・・・〔略〕・・・聞いたらいけないと思っていたというか・・・・・・、お父さんの病気のことも兄弟で話したことはなくて、家で熱コブを出して寝込んだとか、何の治療をしているのとか、見たり聞いたりしたこともない。・・・・・・記憶がない」。次女もこう書いている。「私の記憶の中では(父は)いつもヤンバルに行っていた。それなのにそのことを聞いてはいけない、という雰囲気があって聞けなかった」と。
 平良氏の妻、千代子さんは彼が39歳のとき自殺してしまう。愛楽園のケースワーカーが平良氏を訪ねにきたことが近所に知られ、彼がくだんの「退所者」であることがばれてしまったことが、彼女を不安の蟻地獄に墜落させた結果であった。子供たちの寝ている二段ベッドの側で、ベッドにもたれて座っているような姿で果てていたという。彼は或るとき学生たちにこう語ったと山城紀子の寄稿のなかにある。「ハンセン病のことも話して、そのことを受け入れて結婚したのだが、退所後再発した頃から妻は心を病み周囲の目に怯え、自殺してしまった」と。先のインタビューのなかの次女の言葉。「母親が精神的におかしくなった時、心の中で思ったことは『逃れたい』ということだった。逃れたいけど逃れられない、という日々の中で母が死んだ時、この生活から逃れられるのではないかと思った」と。次男の言葉。「自分にはお母さんのことも家族で過ごしていたころのことも記憶がない。・・・〔略〕・・・今から考えれば、お母さんが自分たちのすぐ側で亡くなったことが耐えられなくて、記憶をなくしたのかなって。普通ではないなって」。

 こうしたことの一切が平良氏における「人生被害」の有りようである。

 さて、前々回、僕はこう書いた。「ひめゆり平和祈念資料館」の「全面的な展示改装」が為された切っ掛けは、「ひめゆり学徒隊」の生き残りの老婆たちが「意を決して、口を固く結んで墓場まで持っていくはずの『ひめゆり学徒隊』を襲った惨劇のありのままの真実、それを公表することに踏み切ったこと」にあった、と。
 それととても良く似た、ほとんど宗教的回心に近い精神的転回を、僕は平良氏にも見出した。それがなければ、彼のくだんの著書自体が誕生しなかった転回を。

 彼はこう書いている。2007年前後からくだんの「退所者・回復者」の体験談が出版され始めたが、当初、「退所者だとばれないようにおびえながら生きていた私は、回復者の手記が発行されて、退所者のことが話題になることに、激しくおびえていた」。そして、そうした公表活動に対する怒り、憎しみが自分を捉えた。「おびえは怒りへと変わってしまった」と。
 ところが、そのおびえと怒りが突然反転する。彼はまさにそうした怒りに捕らわれていた頃、偶然、「HIV人権ネットワーク沖縄」が主催する「光の扉をあけて」と題する児童演劇、ハンセン病を患った体験を基にして創作された子供たちの芝居稽古の見学に連れていかれる。その稽古に接して、突如彼のなかに「カミングアウト」の衝動が生まれ、彼の全身を突き抜けるのだ。こうある。「私は、頬をピンクに染め、涙を流しながら演ずる子どもたちに圧倒された。澄んだきれいな目をした子どもたちは、芝居の練習が終わっても涙を流し続けていた。彼等の姿を目の当たりにして、私も涙を流した」。
 次いで彼はこう書く。「あんなにもハンセン病回復者であることがばれるのを怖れ、怖れが怒りにもなっていた私が、今、自ら『私は回復者です』と話している。・・・〔略〕・・・ハンセン病回復者の私にとっては『回復者だ』と名乗ることはカミングアウト以外の何ものでもなかったと思っている」と。

 この反転、僕に言わせれば、「ほとんど宗教的回心に近い精神的転回」が子供たちの芝居稽古に接して突如として彼のなかに誕生したのは何故か? 思うに、「ハンセン病患者」として差別され隔離され《有って無きが如き存在》へと変えられることへの心底からの怒りと、しかしながら、その彼の生命力そのものの怒りを、《この社会で生活する》=《処世》のためには《秘匿し、隠蔽し、己を欺瞞せねばならない》という自己矛盾、あれほど憎んできた彼の存在を無化する差別社会の眼差しの共犯者とならねばならないという自己矛盾、これが実は沸騰点・爆発点にまで高まっていたからであろう。子供たちの芝居稽古は彼を彼の内なる子供に、あの父に連れられて愛楽園に向かった9歳の彼に回帰させたに違いない。その時彼の「心の奥底にくすぶった」ところの「自分は島の人々に島を追い出された」という純粋な悔しさと絶望に。その悔しさと絶望の純度が彼の「処世」の配慮を不可欠とする「処世」の苦悩を吹き飛ばしたのだ。後者をまだ知らぬ前者の悔しさと絶望の純度が、子供らの芝居稽古を通じて前者に送り返された彼に、後者を粉砕するカミングアウトの爆発力を与えたのだ。
 その瞬間、彼は真っ正直者となった。自己欺瞞を必要としない。そして、その真っ正直という地平で新たな人間関係があり得るという信念を自分に与えたのである。言い換えれば、《遺棄されることも遺棄することも共に拒絶する意志》を共有し合う人間関係があり得るという信念を。そして、この信念は彼に、くだんの「ひめゆり学徒隊」の生き残りの老婆たちが自分たちに与えた「証言者への意志」と呼ぶべき精神と同一のそれを与えるのだ。かくて彼は、この愛楽園の歴史・それが背負う問題・投げかける問題提起を何よりも自らの体験を通して語る「愛楽園のボランティアガイド」になるのである。

 僕はこう考える。沖縄はこの精神のドラマを一身に凝縮し、己の精神史とする日本における稀有な土地である、と。先の20世紀がこの土地に「土地の精」としてくだんの精神のドラマツルギ―を棲息せしめたのだ。かかる事情を学ぶ「沖縄学」の構築とその提示と伝達、その学習意義の宣伝と実際の学習機会の多様にして広範な提供、それはもう様々な方々が取り掛かっている試みではあるが、まだ緒についたばかりであることも事実だ。
 もう一回か二回、この課題について書いてみたい。(清眞人)

付記:紙数の関係で次の三つの問題を省略した。第一、愛楽園の前身は英人のキリスト教伝道師ハンナ・リデルの指導の下、自らもハンセン病患者であった青木恵哉が創設した療養所「沖縄MTL相談所」であった。この興味深い「前史」の紹介。第二、沖縄戦で愛楽園に起こった出来事の紹介。愛楽園の整然と並ぶ諸施設は米軍に兵舎と誤認され、集中的放火によってその9割以上が壊滅したことや、その時の死者は一名で済んだが、防空壕づくりや爆撃後の再建のための過酷な労働によるハンセン病後遺症の悪化によって317名(収容者の約三分の一)が死亡したという問題。第三、高橋和巳の「表現」論や「文学的精神」論との関連。私見では、彼は、まさに平良氏が生きた自己矛盾の果ての「証言の意志」への精神的離陸こそを文学的表現の担うべき本質問題だとみなし、遺棄された者・「償われぬ者」の痛み・孤独の側に立ち、それを「政治的人間」の視点(まさにその痛みと孤独を視野から常に消去せんとする、本質的に「権力」的であるほかない)に鋭く対置せしめること、これを「文学的人間」の使命とみなした。

ケストナーの「勇気」と「かしこさ」

 先日、仙台算数サークルの仲間の場に同席する機会があった。センター通信別冊編集内容に関する話し合いだった。
 話のなかで、隣に座っていたHさんが、低い声で、「私は、ずいぶん前に、カスガさんが紹介した言葉を今も覚えています」と前置きして、一言一言、ゆっくりと、次の文をほぼ正確に言った。

教師たるものはな、つねに成長・変化する能力を持ちつづける義務と責任があるんだ。でなきゃあ、生徒は朝なんかベッドにねころがったまま、授業なんか蓄音機をかけて、レコードにしゃべらせたっていいんだ。だが、それじゃあぜったいこまるんだ。われわれが必要とするのは、教師としての人間なんだ。二本足のかんづめなんかじゃない。われわれが必要とするのは、生徒を成長させようと思ったら、自分も成長させずにはいない先生なんだ。

 私はびっくりした。これは、エーリッヒ・ケストナーの「飛ぶ教室」(山口四郎訳)のなかに書かれている、寄宿学校の部屋で仲間に言ったフリッチェの言葉であり、教師になってからの私が読んでドッキリした言葉のひとつだったので、いくつかの集まりの場で紹介したことがある。Hさんたちに話したのがいつだったかはまったく記憶にない。いずれ相当前のことにちがいはない。
 それを今もほぼ正確に覚えていてくれているHさんに驚きつつ、紹介した者としては素直にうれしく思った。でも、Hさんの声が低かったこともあり、話はそこに入りこむことなくそのまま進んだ。

 フリッチェの言葉についての説明の必要はまったくないので、ここでは、ついでに、「飛ぶ教室」の中の別の言葉を添えておく。この物語は、最初に「まえがきーその1」「まえがきーその2」が置かれた後に「第1章」が始まっているが、「まえがきーその2」の中に以下のような文が入っているのだ。

かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、かしこい人たちがおくびょうだったような時代がいくらもあります。これは、ただしいことではありませんでした。勇気のある人たちがかしこく、かしこい人たちが勇気をもったときにはじめて―――いままではしばしばまちがって考えられてきましたが―――人類の進歩というものが、みとめられるようになるでしょう。 

 「飛ぶ教室」は1933年に書かれており、昭和で言えば8年である。この年、1月、ドイツはヒトラーが首相になり、日本は3月、国際連盟を脱退し、10月、ドイツも連盟を脱退する。このような、世界の動きが怪しくなっている年に「飛ぶ教室」が発表されたのだ。しかも、多くの子どもたちに、ケストナーは、「勇気」と「かしこさ」を前置きして、子どもたちを温かく見守りつつ「正義」を強調している。

 こんなケストナーヒトラーは黙って見ているわけはない。ケストナーの作品出版をドイツ国内で禁ずる。また、悪書として焚書にまでされている。自分の出版物が燃やされるのを彼は目にもしていたようだ。しかし、ケストナーは、外国に亡命する作家たちの多い中で自分はベルリンに残りつづけたという。一切の執筆を禁じられてもである。
 自分自身が「飛ぶ教室」を実践したとも言える。作家だから自分の目で見ておかなければならないと考えたようだ。

 今の日本も、私たちに求められているのが「勇気」と「かしこさ」のように思う。
 そう考えると、「勇気」と「かしこさ」を自分のものにすることなく、今の世の中に明るさをもちかねているなどと言いわけをしている私に向かって、ケストナーは「そんなことでいいのか・・・」と叱責しているように思えてきて、身が縮んでくる。( 春 )

正さんのお遍路紀行(四国・愛媛編)その7

 菩提の道場 ~8日間で愛媛を歩く~

【7日目】 3月21日(木) ~石鎚山系の山懐から歩く~

JR今治(6:50)⇒ JR伊予西条(7:11)バス ⇒ 横峰登山口・上野原乗換所 バス ⇒ 横峰寺バス停(8:50)・60横峰寺 ⇒ 7㎞ 奥の院白滝 ⇒ 3km 61香園寺 ⇒ 1.5km 62法寿寺 ⇒ 1.5km 63吉祥寺 ⇒ 3km 64前神寺 ⇒ 1km JR石鎚山(16:08)⇒ JR伊予西条(16:13)

 天気が悪く今日も楽天ポンチョの出番かと思っていたが、横峰寺のある山に向かうと雨はやんでいた。雨上がりの山間から雲が流れていくのがいい。

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     横峰寺下りからの眺望

 《大丈夫かな?Nさん》
横峰寺へのバスにはお遍路さんしか乗っていなかった。小平市から来たというNさんは視野狭窄という障害があり、注意深く辺りを見回してもよく見えないことがあると話してくれた。バスを降りるとき、彼が渡した切符は往復券だったので、運転手さんが「9時30分出発ですからね。」と確認していた。そうしたら彼は「えっ?片道切符じゃないんですか?」と自分の切符を見直していた。切符自体はこのバスが出た上野原乗換所で購入することになっていた。そこには大きな字で片道と往復の料金表があったはずだ。私は、すかさず運転手さんに「片道分返金してください。」と頼んでみた。するとNさんは、「あ、いいんです。これは自分の勉強代なんですから。」と自分の購入ミスをありがたいもののように言った。私はなおさら「間違っただけだから返金してもらえないの?」と尋ねると、さっきの乗換所じゃないと返金できないとのことだった。今にして思うと、あの運転手は変だ。返金するには、今来た15,6kmの車道を歩いて戻れというのと同じだ。Nさんの左胸には、障害を示す赤いマークがあった。

 ここから横峰寺まで10分程度。私はNさんのずっと後ろから歩いて行った。階段の上り方、ぬかるんだ道の歩き方。ん~あれで、これからの山道10km下れるかなあ。でも、お寺での作法は俺とは全く違い、全てに真剣そのものだった。よほど、「一緒に下りますか?」と声をかけたくなったがやめた。彼は失敗も含めて自分だけの力でお遍路がしたいのだ。
「じゃ、ゆっくり下りてくださいね。奥の院で待ってますよ~。」と声をかけて私が先に出た。しばらく歩いてから待つだけの余裕もないのに、何であんなこと言ってしまったんだと反省。

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   香園寺奥の院を示す案内標示(これなら迷うことはない)

 香園寺までの下り山道10kmは楽しかった。後は平地にあるお寺を3つ廻れば、今回の愛媛は終了となる。
 62番宝寿寺を出て、信号を渡って次の吉祥寺に向かい始めたとき、向こうから来るNさんとばったり!

《4時間半後に再び》
 「えっ!なんでなんで?どうしたの?」と声を上げる。下りのへんろ道は1本のはず。追い越された訳でもなし、どうして彼が逆方向から来るのか。
 Nさんが言うには、山の中でへんろ道を間違えてしまって、ずっと車道を歩く羽目になり、たどり着いたのが例の乗換所だったとのこと。そこの人から、下り道を教えてもらって63番吉祥寺に着いたとのこと。「とにかく何であれ、無事で下りて来られてよかったなあ。」と二人して喜んだ。彼は私にお札(自分の名前と大まかな住所のはいったおふだ)をくれた。あいにく私は準備していなかったので、「仙台の〇〇です」と名乗っただけだった。

 山歩きど素人の私でさえ、へんろ道を外すことはなかった。それぐらい道標がしっかりしているということだ。にもかかわらず、道を見失ったNさん。改めて、彼の視野狭窄というハンデイーを思った。「これも勉強ですよ。」とうれしそうにNさんは歩いて行った。ほんのちょっと垣間見たNさんだったが、一生懸命生きている姿に励まされたような気がした。「またどこかで会おうぜ!」と声をかけて見送った。

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