mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

暮らしと自然の移り変わりから、治山治水を思う

 台風19号・21号による広域災害は大きな驚きだった。北上川沿いで育った私は、豪雨による川の恐ろしい変身は何度も見慣れてきていたが、今回も含めて近年の災害は、私の知っている洪水災害とは様相が大きく違うように感じる。

 と言っておいて恐縮だが、話を突然40年前にもどす。
 教職員組合の教育研究集会が、県集会の前に支部ごとにもたれていた頃のこと。
県北のある支部研究集会に、宮城教育大学のK先生とご一緒した時だった。
 会場の小学校に着いて玄関に入った時、学区を中心にした畳一枚ほどの額入りの古い航空写真が目に飛び込んできた。K先生は、その前に立ってしばらく動かない。そして、「カスガ君、この写真はこの地域のだいぶ前の様子がなかなかよくわかる写真だな。この中に見える数多く広がる薄鼠色の細い血管状のものは水の流れの跡だったんだ。また、そちこちに居久根が見えるが、それはその川の流れを避けたところにある。それらの多くの流れを集めて現在の川にしていったことがわかるが、相当な時間と住む人々の労力を要しただろうなあ。こうして、耕地を広げ、家が増えて現在のようになったんだなあ。」というようなことを話された。
 写真を眺めるK先生に、この古めかしい一枚の写真は、ここに写っていない人々の様子、しかも今歩いてきたこの地域の変遷までつながって、たくさんのことが語りかけてきたのだろう。
 無知な私には、単なる古い航空写真であるだけで、それ以上のものではなかった。そんな私に、K先生の話は、この日一番の収穫として、今も残る記憶の財産となった。

 また、時間を今にもどす。
 あの古い写真を見、K先生の話を聞いて以降の私には、豪雨や水災害を見聞きするたび、あの古い校舎の玄関の写真が現われ、写真の中でかつて這いまわったという幾筋もの古い川の流れの跡が生きているもののごとく迫ってくるのだ。
 今回の災害も、あの一枚の写真と、私に語りかけるK先生を思い出させた。と同時に、私は、久しく使うことも耳にすることもなかった「治山治水」という言葉まで思い出した。

 台風21号後、生地に行ってきた。北上川は何事もなかったように流れていた。堤防外の畑地もそれほどひどく荒れてはいなかった。川上になる岩手の降水量がそれほど多くなかったせいだろうと思った。
 北上山地にへばりつき、堤防で川と仕切られた私の育った集落は、今も私の子ども時代と何もかもほとんど変わりはない。決して広くない田が機械化のなかで整地されたぐらいだろうか。
 豪雨があれば、水は一本の水路に集まって、堤防に1か所作られた水門を通って川に吐き出されるようになっており、この水門によって、これまで、集落内での水害騒ぎを私は知らない。

 それにひきかえ、帰途立ち寄った三陸道沿いの「道の駅」の浸水被害のひどさは、言葉を失うひどさだった。台風19号で近くを流れる小さな川の氾濫によるらしい。集中豪雨によるこの川の増水と山崩れにより壊滅状態になったのだ。
 その場所は、かつてなら奥深い山中が、今はりっぱな高速道が突き抜けている。山が雨水を吸い込んでくれたろう山地が、水を吸うどころか、コンクリートの道路は水路と化して谷川に運んだのであろう・・・。

 終戦直後、つづけてやってきた台風で、一度、北上川対岸の堤防が決壊した。私たちの集落を囲む堤防も一時水が流れ込んだ。この時私は、台風の大きさと同時に、戦争によって放置された山の荒れがこの洪水と無縁でなかろうと思った。戦後の日本はどうか。その山は次々と切り拓かれ、車社会はコンクリートの道路を網の目のように張り巡らせている。
 3・11の復興では、防潮堤工事での山からの土砂の運搬で、ダンプカーが連日列をなし、今もつづいている。もちろん、これだけではない。

 「水」を考える私の物差しは、「K先生と一緒に見ることができた写真」「北上川の傍で育ったこと」「私も参加した生活科教科書『どうして そうなの』『ほんとうは どうなの』の編集の仕事」の3つだ。
 河北新報の見出しに「支流の水位急上昇氾濫次々『過去の経験に縛られた』」(11月9日)とあるのを読んでK先生と見た写真を浮かべた。
 国全体の自然の様相は大きく変わってきているのに、常日頃の治山治水はどうなっているのだろう。自然の変化と便利を求めることで、あの写真とは似ても似つかぬ世の中になっている。となれば、当時のままの治水でよいはずはなく、人間による自然破壊による変化への国や自治体による不断の対応が欠かせないはずなのにダム工事ぐらいで済ませているのではないか。

 台風19号・21号の雨量は多くの場所で例年を大きく超えたという。今回を特別と考えて済ませることはできないはずだ。国全体の様相が変わっていることはまちがいないのだから、ハザードマップ頼みだけでない国・自治体・個人のなすべきことを息長く取り組んでいかなければならないように私は思った。
 日本のこの現実から、地球温暖化に対して国をあげて本気で向き合わなければならない。アメリカの顔色をうかがっている余裕も時間もまったくない。( 春 )