2014年12月26日
最近、「天人―深代惇郎と新聞の時代」を読んだ。読み終えて清々しい気持ちになった。深代惇郎の書く天声人語が大好きだったので「天人」を読んだのだが、その後に、書棚の奥から「深代惇郎の天声人語」を引っ張り出してポツポツと読み返している。
前回の日記で、中国・韓国についての内閣府調査のことを書いたが、深代が昭和50年1月14日に韓国の「東亜日報」に関する話を取り上げていたので、かいつまんで紹介したい。
同紙とその系列の東亜放送が、企業の広告ボイコットをいっせいにうけてピンチに陥っている。
韓国民主化の先頭に立ち、言論の自由を要求してきた「東亜日報」の存在は、韓国政府にとって目の上のタンコブ。発禁は国際世論の手前やりづらい。そこで広告をストップし、兵糧攻めでペンを折らせようとした。その結果、企業広告はなくなり、広告ページを白紙で出した日もあった。
それを知った市民たちが長期購読の前金を払ったり、個人の意見広告を申し込んだりして応援している。同紙の主幹はインタビューで、多くの子どもたち、学生たち、安サラリーマンたちからの激励のカネが送られてくる実情を説明し、「心苦しい」と語っていた。
また、「こういう偉大な国民のために新聞を作るのは、新聞記者冥利につきます」と述べた言葉には、万感を押さえた表情がうかがわれた。「新聞はその存在理由である編集方針を守るために経営があるのであって、経営のために編集方針が右に左にゆれることはありません」とも言っていた。
広告を取り消した企業は、理由を聞かれると「それは聞いてくれるな」と答えるそうだ。同紙の立ち売りは20万部ふえたというが、日に210万円の広告収入をまかなうにはとてもたりない。
要旨を伝えようとしたため、深代の文体を私がそうとう壊している。お許しを。
東亜日報のその後のことについて残念ながら私は知らない。
それにしても今よりもはるかにきつかっただろう権力に向き合った当時の東亜日報の姿勢、それを支える市民の姿と現在の私たちとを比べてみると、あまりに違う生き方の違いに驚き恥ずかしくなってしまう。40年前のことになるが、あいまいな生き方をつづけている私たちは姿勢を厳しく正さなければならなければと思う。