mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風6 ~教室にて4~

 トラウマとの対決という新たなる人生のステージ

 児童期における「無視」という暴力経験の雛型性はどの点にあるのか?
 既に触れた問題ではあるが、念を押したくなる。

 キーワードは「グループ」であり、そして、イジメが「信頼関係の突如たる取り消し」として経験されるという点であった。そして。それは実に簡単に起きた。だが、だからこそ深いトラウマともなった。前回注で引用した深刻度5の一通は実はこう始まるのだ。「突然、疎外感に苛まれた。・・・〔略〕・・・わたしはそこにいることだけで嬉しいと感じていた。しかし、ある日、私はこのグループにいなくてもいいのではないかと感じるようになった。私の世界そのもの、実存を規定していたものが崩壊した瞬間であった」と。
 深刻度3のレポート群が何よりも告げるのはそのことだった。そこにとりわけ児童期特有の「イジメ」の悲劇性がある。
 「小学生の高学年ぐらいからグループができあがり グループの活動が主となる。・・・〔略〕・・・何をするにもグループでの活動が基本となった。・・・〔略〕・・・そして『イジメ』は急に来るものだった。昨日までは、普通だった自分への対応もまるで幽霊のように存在を消されるのである」。「小学6年生の時一番仲のよかったグループからハブにされたいじめは今でも鮮明に覚えている」。「ある日突然一番仲の良かった友達から避けられるようになった」。

 これらの証言に接するうちに、次の想いが私を捉えた。
 ——イジメ経験は児童期との決別であった。罪の意識を得ることによって人間は児童期と決別する。悲しいことではあるが、しかし、それは人間の運命であるにちがいない。罪の意識を得ることによってのみ、自己を糾弾できるようになることによってのみ、人は本格的な批判的自己観察能力を獲得する。多くの場合は犠牲となった者は置き去りにされたままで。
 「その子と私を含め仲の良いグループができていた。・・・〔略〕・・・彼らと遊ぶたびにその子のことが思い出され胸がズクズク痛む。・・・〔略〕・・・あの小さな世界で生きていた私には彼らは友達でありながら自分よりは位が上だと感じていた。そんな私が彼らのいじめをやめるように意見をすることはできるはずもなかった。彼らを否定してはいじめの矛先が自分に向くと考えたからだ。・・・〔略〕・・・彼らは渋々謝ってくれた。私はようやく終わったと思った。・・・〔略〕・・・甘かった。次の日学校へ行くといじめは依然そこにあった。私の説得は全くの無意味であった。私には友達が外れた道を戻してやることも友達の苦しみを取り除いてやることもできないのだと知った。私は不甲斐なくて申し訳なくて悔しくて憤って胸が締まった」。
 そして、この証言はこう続くのだ。
 「そこから私はいじめを止めようとしなくなった。彼らの言葉に同調しその子を視界に入れないようにした。視界に入れれば私の嘘の良心が痛むからだ。その子を視界に入れたのに目をそらしたという罪に問われるからだ。結局その子のいじめは卒業まで続いた」。(傍点、清)

 実に鋭い自己解剖である! それは一個の雛型の摘出でもある。そのようにして、これまでの負の歴史(集団同調を煽り立てることで残酷な「異者」狩りに狂奔する。ナチスの「ユダヤ人」狩り、ソ連の農業集団化における「富農」狩り、中国文化大革命における「封建反動分子」狩り、関東大震災での「朝鮮人」狩り、みな然り)のなかで幾多の人間が「見て見ぬ振り」を決め込み、結果として「身代わりの子羊」づくりの共犯者となったことか! 有無をいわせぬ暴力があたりを制する時、暴力は集団同調の「無言の同意」のマントで己の身を包む。

 だが、良心の呵責が、遂に決壊を引き起こし、「拒否する」という行動への勇気を与え、再生と希望をもたらす場合もある。
 「そのグループで毎日いたが、とても仲がよかった・・・〔略〕・・・ある日、グループの一人から『〇〇君がうざいから、一緒に無視して避けようや』と言われた。私は驚いたし、当然断った。だが、私が断り続けていると、その友達が私を少し避けるようになってきた。・・・〔略〕・・・私は避けられるのが怖くてその友達の言う通りに従った。正直、私自身とても辛かったし、無視しなければ今度は私が避けられてしまうので当時は言うとおりにするしかなかった。そんな日がしばらく続いた。私はとうとう耐えられなくなってその避けていた友達に全てを告白した。その友達は、泣き崩れ当時の思いを教えてくれた。『本当に辛かったし、学校に行くのが嫌だった』と。私はなんてクズなことをしてしまったんだろうととても胸が苦しくなり、私は本当にバカだと思った。その友達はそんな僕を許してくれて、今は前みたいな関係に戻れた。・・・〔略〕・・・グループで集まり、話し合いをした結果、前みたいな関係に戻れた」。

 ここで深刻度1「イジメを経験をしないで済んだ。見聞もしなかった」のレポート群27通にも触れておきたい。私の見るところ、その束は2つに分かれる。
 一つは、実際に自分がイジメられる経験を持たずに済むと同時に、その幸運をキープするためにイジメに関与してしまう可能性をできるかぎり自分の周辺から排除しようと努め、それに成功した事例の束である。もう一つは、多くの場合学校区域がきわめて小さく、地域の共同性がまだ生命力をもっており、かつ教師たちのイジメの誕生を阻止しようとする意識的努力がきわめて強く、この2つの要因が合体し功を奏して実際にイジメが起きなかった場合である。
 「月に1回匿名のアンケートで、クラス内で喧嘩があったか、誰かいじめられている人がいるか、からかったりしている人がいるか、学内で嫌な思いをする出来事があったか、など非常に細かいアンケート調査があったのである」。
 「道徳という授業ではクラス全体でいじめがどのようなものなのかを映像で見たり話しあいをおこなったりしていじめについて理解することをしていた。私の通っていた学校では特にこういったことには力を入れており、道徳の授業だけでなく特別授業という形で様々なことを行っていた」。
 真に幸福なのは、いうまでもなく、この後者の場合だけである。しかし、それは2通に留まった。前者の場合は、「見聞しなかった」のではなく、実は自ら「見聞しようとしなかった」のではないかという自己懐疑がほとんど場合添えられていた。そこには次の1通もあった。
 「見ないようにしていたのかもしれないということは否定できない。・・・〔略〕・・・テレビ・ドラマ・漫画をとおして・・・〔略〕・・・小さい頃から絶対自分はこのような経験をどちらの立場(いじめる側・いじめられる側)からもしたくないと考えていた。今考えれば、この考え方が現在の私の一部を形づくっているのかもしれない。いじめに関わりたくないという思いから、私はいつからか他者から嫌われにくいようなキャラクターを演じるようになっていた。・・・〔略〕・・・みんなと共通の話題や趣味で盛り上がれるように努力し・・・〔略〕・・・明るく振舞っていたし、・・・〔略〕・・・目立ちすぎない立場を意識したり、・・・〔略〕・・・自分の意志とは違っていても多数派の方、優勢な方に入るようにしていた。・・・〔略〕・・・今ではそんなキャラクター自体が本当の自分になりつつあるかもしれない」。

 イジメ問題を解決しようとする教師の積極的努力があったことを伝えるレポート数は——おおむね感謝が捧げられていたが、その方法の適切性に関して懐疑的なものが3通あったが——、全レポート388通のうち24通であり、わずか5%であった。教師は見て見ぬ振りをしていたとの指摘は5通あった。そして、教師および部活の顧問の無理解で高圧的な、それぞれの言い分をよく聞かぬ一方的な指導がかえってイジメを酷くした、ないしはそれ自体がイジメであったとの告発は8通あった。つまり、 イジメトラウマ大陸の存在を告げる93%に対して、それに抗して努力する教師の活動を記憶に値するものとして評価したものはわずか5%に留まったわけだ。
 なお、教師がクラスの生徒からの激しい敵意と反抗に出会い、学級崩壊となり、自殺に追い込まれた事例を告げるものが1通、休職に追い込まれた事例を告げるものが3通あった。 
 そういえば、「教室にて2・部活」で、私は「部活」がイジメの温床となっている割合を問題にしていた。この点では、それを告げるレポートは深刻度3では148通中32通、22%、深刻度2では174通中16通、9%であった。総計でいえば、388通のうち57通、15%となる。この点で、トラウマの深刻度が上がるほど、部活が無視できないイジメの場になることが鮮明となる。

 では、親の存在は如何なる役割を果たしたのか?
 親、なかんずく母の子を守ろうとする積極的な介入の模様を伝えるものは総数中8通であった。
 「私が救われたのは家族の存在である。・・・〔略〕・・・異変に気付いた母は、何があったのかを聞いてきて、私はすがる思いで母に打ち明けた。母は私を抱きしめてくれて、私を大事にしているという熱い思いを語ってくれた。いまだにその日のことははっきり覚えている。私は、愛されていると感じることを知り、苦しみから落ち着いた」。
 ただし、いわば最後の砦とも呼ぶべき役割を期待された母なり父母がそれを果たさなかったという絶望を語るものが3通あった(うち1通は友人に関する伝聞)。また母にイジメられている窮状を訴えられなかったのは、心配をかけたくなかった、あるいはそうした自分を知られるを恥だと感じたというよりは、学校に通報され大事なり、その結果もっとひどくイジメられはしないかと怖かったからだというのが2通あった。

 最後に戻って、「傍観者」に留まることを潔しとせず、友のためにイジメの停止を周囲に申し入れた自分の行為を語るレポート、ないしはそうした友の存在が自分にとってかけがえのない支えとなったことを語るもの、それ10通あった。総数中わずかに10通であった。
 「私が学校に通い続ける事ができたのは、家の近くにいた6人程の友達が絶対自分の味方だという信頼があったからだ。そのメンバーだけで放課後、家の近くでサッカーをしたり、鬼ごっこをしたりしたことはその当時のライフラインだった。あの時間だけが本当の自分でいられたような気がする。そして、それは私だけでなくほかの5人もそうだったと思う」。
 「一人の子が『もうあんなことはしない。あの時は本当にごめん。一緒に乗り超えよう』といってくれたので私は救われ、その子と一緒に乗り越えることができた。・・・〔略〕・・・彼女がいなければ、私はずっといじめに怯えていたかもしれない」。
 「私は最初教室の外から話している友人と先輩を見ていたが、土下座をしだしとき、自分の中のある正義感に近いものが爆発し先輩の胸倉をつかみ、土下座をやめさせた。私の行動を皮切りに、ほかの友人たちも教室のなかに入り・・・〔略〕・・・結果として、その先輩たちが私たちに因縁をつけてくることもそれからなく、土下座させられた友人に感謝までされた。・・・〔略〕・・・たとえ小さな行動でも、大きな波となって人を救うことができるのだとわかった」。
 「その子は結果そのグループから排他的に扱われる存在になってしまった。・・・〔略〕・・・排他的にされた子を救えなかった自分は被害者であり大きな加害者であると今では分析できる。・・・〔略〕・・・小学校にて担任の先生が『やったものは手をあげなさい』と言ったときに手を挙げたのは私一人であった。薄々は気づいていたことではあるが、その犯行グループはそのグループを友達と思っていないし、私も思われたくなかった。今考えると今の私という人格があるのはその時に手を挙げた自分の勇気によるものであると思う。今の私の分析は『まじめで曲がったことが嫌い』である。ポリシーは『正しいと思ったことは必ずやる。間違ったことは自他ともにやらせない』である。このようなことから私は深刻度3の状態にある。これはどれだけ時間がかかっても変わらないと思う」。
 良心の呵責は転生の契機ともなる。いうならば「正義と勇気のトラウマ」というものもあるのだ。

 先に私はこう書いた。——罪の意識を得ることによって人間は児童期と決別する。自己を糾弾できるようになることによってのみ、人は本格的な批判的自己観察能力を獲得する、と。
 言い方を換えれば、この決別によってわれわれは、本格的な批判的自己意識に基づく己の人生の生き直しという課題を自分に与えるのか否か、という問いの下に自分を据え直すのである。

 かつて、私は拙著『創造の生へ——小さいけれど別な空間を創る』(はるか書房、2007年)・第Ⅰ部の節「基礎経験の主導権(ヘゲモニー)争い、あるいは《希望》への賭け」のなかで大略次のように論じた。 
 ——人間の為す経験のなかには、その人間の世界観・人間観・道徳観・美意識等がそれを基礎とすることで形成される「基礎経験」と呼ぶべき経験の層があるが、トラウマとは、人間にとって生を励まし豊饒化させる働きをする肯定的基礎経験を破壊し去り、その代わりに、その人間の《世界》・他者・自己への関係をことごとく破局的な方向へと方向づけてしまう否定的<経験>を基礎経験の位置に据え換えてしまうということだ。
だが、この点できわめて大事なのは次のことを銘記することである。すなわち、実は完全に破壊され代位されたのではない、それはまだなお回復し再生する力を保持しながら、とりあえず、トラウマの発揮する圧倒的な基礎経験的力によって抑圧され、今の時点では無力化されているということだ。つまり、そこにはどちらの経験が基礎経験の地位を占取するかの主導権争いがなお密かに闘われ続けているということだ。

 そうだとすれば、ここに次の問題が生じてくる。この再生力がなおまだ果たしてどの程度の力として保持されているのか? それは一旦奪われた基礎経験的地位をトラウマ的経験から奪い返して再生を果たすほどのものとしてあるのか? 
 そして私は次の2つのことを主張した。
 第1に、人はこの再生力への《信仰》なしにはトラウマからの回復を追求する《治療》という実践的立場に立つことはできない。回復が可能となるか否か、それは厳密な実証的検証にかけられるべき可能性の数量化の問題ではない。可能だと信じて取り組む以外にないという問題がそこにはある、と。
 第2に、トラウマからの回復をはかるうえでその再生が問題となった肯定的な基礎経験とは、人間存在の存在構造そのものが要求する基礎経験、いわば実存的必然性の重みをもった基礎経験であり、この実存的必然性はつねにそれを満たすべき<経験>を、たとえそれがごく小さなものであっても、基礎経験の地位へと呼び寄せそれに基礎経験としての意義を贈与しようと働きかけるという性格をもつのだ、と。
 次回、私はこの問題について語りたい。(清眞人)

安倍内閣もビックリ?! の 架空文壇内閣

 新しい年を迎えた。元日以来晴れの日がつづいているが、新年になってもいっこうに晴れやかな気分にならない。歳をとったお前はどうでもいいだろうと思われそうだが、そううまくはわりきれない。残された時間がどのくらいだろうが、その時間を気持ちよくすごしたい。それなのに、年がかわったから世の中が明るくなるか。いや、ますます住みにくくなりそうに思うのだ。だれもが安心して暮らせる・笑い合って暮らせる世の中にどうすればなるのだろう・・・。そう、そう願うオレたちが力を合わせるしかないのだ!と思うのだが、ついグチってしまう。
「憂鬱だ」などと言っていても少しも前進はない。

 話は飛躍するが、臼井吉見の古いエッセー集の中にある「架空文壇内閣評判記」に話を切り替える。1952年7月に書かれているものだ。そのエッセーは、

 世はまさに選挙戦たけなわである。文壇では一足先に新内閣の組織にとりかかり、明朝までには組閣を完了するはずであるが、文相に擬せられている永井荷風が行方不明のため浅草方面を捜索中である。内定した顔ぶれは次の通り。

と始まり、この後に文壇内閣の組閣一覧(大臣名・次官名)が載っている。 
 総理大臣以下全員埋まっているが、「行方不明だ」とある永井文相は発表に間にあうだろうか。
 心配(?)になった(いや、おもしろくなった)私は、荷風の「断腸亭日乗」を書棚からとりだした。その中に、次のような日記があった。

 午後浅草公園大都座楽屋。裸体舞踊一時禁止の噂ありしがその後ますます盛にて常盤座ロック座大都座の三座競いてこれを演じつつあり、今日見たる大都座にては日本服着たる女踊りながら赤きしごきを解き長襦袢をぬぐところまで見せる。午前十時開場と共に各座満員の由。燈刻帰宅。

とある。浅草周辺をハイカイしている荷風については誰にも周知のことなので、臼井たちは少しも心配しているはずはない。それよりも、この日記を読んで、読み手の多くの方が、「こんな荷風を文部大臣に選ぶなんて・・・」と、たとえ「架空」であろうとも気になってきたのではあるまいか。
 ご心配なかれ。臼井は、永井文相について、次のように説明している。

 永井文相は荷風勅語などかつぎ出すきづかいもなく、感傷的な漢文復活提唱のおそれもなく、何よりも永井文相の存在自体が、立身出世的人生観を払拭するうえに偉大な効果のあること必定だが、その行先をつきとめたにしても、はたして承諾をえられるかどうか、せっかくの名案も実現があやぶまれている。
 中野次官の起用は全学連対策上からと見られるが、永井文相とはけだし名コンビであろう。

と。(ちなみに「中野次官」とは中野好夫である)。

 なるほど、この文からは、文部大臣の職に荷風を期待した意図がよくわかる。しかし、それでも、(荷風は承諾しないだろうなあ)と私は思った。なにしろ、大臣になったら、浅草に自由に行けなくなるのだろうから・・・。

 でも、大臣要請を断った人をこれまで聞いたことはないから、どんなものか・・・。いや、「架空」とはいえ、荷風が断ったということが後々まで話のタネとして残してもらえば、後世、良心的な辞退者がひとりぐらい出て、人びとの語り草になり、このごろの内閣とはちょっとぐらい違ってきたのではないかと、「架空」に今を重ねる。

 前記「断腸亭日乗」によると、1945年8月15日は谷崎潤一郎亭を訪ねている。
行く途中、「駅ごとに応召の兵卒と見送り人小学校生徒の列をなすを見」ており、「正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりという。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持ち来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。」とあり、20日の文は「~~とにかく平和ほどよきはなく戦争ほどおそるべきはなし。」と結んでいる。

 敗戦直後であろうと、「とにかく平和ほどよきはなく戦争ほどおそるべきはなし。」と明記するだけでも文部大臣適格者ではないか。憲法改正を一族の家訓(?)とがんばる総理大臣までいることを考えると・・・。
 「文壇内閣」について書き始めたが、長くなりすぎるので永井荷風文相だけで止めることにする。ちなみに架空文壇内閣の他の顔ぶれは以下のとおりだ。どんな理由で選ばれたのかいろいろ想像してみてはいかがだろうか。なお何人かについては次回で。( 春 )

    架空文壇内閣一覧

     総 理  武者小路実篤
     法 務  志賀直哉(伊藤 整)
     外 務  正宗白鳥小林秀雄
     大 蔵  獅子文六舟橋聖一
     文 部  永井荷風中野好夫
     厚 生  吉屋信子(上林 暁)
     農 林  井伏鱒二坂口安吾
     通 産  宇野浩二河盛好蔵
     運 輸  内田百閒(火野葦平
     郵 政  久保田万太郎(林 房雄)
     労 働  川端康成丹羽文雄
     建 設  大佛次郎石川達三
     国務(経審)吉川英治中野重治
     官房長官 中島謙蔵
     保安庁長官 尾崎士郎
     衆議院議長 青野末吉
     参議院議長 谷崎潤一郎

西からの風5 ~教室にて3~

トラウマ大陸への視座

 前回・「教室にて2」に私はこう書いた。その後の精査に基づき一部数値を訂正(太字)してくりかえそう。
 学生たちのレポート「私のイジメ経験」(イジメられたにせよ、イジメたにせよ、傍観者となったにせよ、自分自身が経験ないしごく身近で見聞)総数388通の内、自己診断深刻度5と深刻度4の合計は39通。ここでいう深刻度5とは、「自殺を考えた、あるいはイジメてくる相手を殺したいと思った、それに準じる」というレベルのイジメ経験を指す。深刻度4とは、「長期不登校ないし転校を余儀なくされた」というレベルのイジメ経験を指す。深刻度3は「4ほどではないが、明らかにトラウマとなった」というレベルであり、148通。深刻度2は「イジメ経験はしたが、トラウマにまではならなかった」、174通。深刻度1は「イジメ経験をしないで済んだ、見聞もしなかった」であり、わずか27通

 そしてこう続けた。
 だから、明らかにトラウマ的質をもったイジメ経験を語るレポート数は——加害経験も傍観者経験も含んだ意味での——187通であり、総数の約48%である。つまり今日、この数値が日本の学生全体の平均値の近似値を表すとすれば、日本ではほぼ半数の学生がトラウマ的質をもつイジメ経験の持ち主である可能性が十分あるという仮説が成り立つ、と。

 今回はこの問題を考えたい。
 「イジメによるAの自殺!」、その報道に接して、われわれは「またも!」と思いつつも、あらためてその悲劇の個別性に、自殺に至るほどのかけがえのない一個の命の苦悶に目を見張らざるを得なくなる。
 しかし、私は学生たちのレポートを読みながらあらためてこうも思った。
 もし、頂点をなす自殺という出来事への注目喚起が裾野をなす事態への注目をそぐ結果となったのなら、自殺に追い詰められた彼らは死んでも死にきれまい、と。問題とは、いましがた述べた事態のことだ。今日、学生のほぼ半数がトラウマ的質をもつイジメ経験を抱え込んでいるという、いわばこの裾野的な事実。集団的な悲劇性。これから注意をそらす結果となるのであれば。

 この点で、ここでまず考えてみたいことは深刻度3の148通のレポートについてだ。一言でいうなら、深刻度3のレポートは深刻度4と5に陸続きにあるという問題についてだ。では、深刻度3と自己診断を記してあるこのレポート群から抜き書きしてみよう。

「休み時間になると、トイレに呼び出され、不良から殴られるのは日常茶飯事で、結構なアザまでできていた。A君は嫌な顔をせず、クラスで気丈に明るく振舞っていた。私をふくめクラス全員が大丈夫なのだと思ってしまった。だが、A君は高校生になって自殺してしまった。・・・〔略〕・・・今考えると、その気丈な振る舞いが警告だったかもしれない。先生も含めクラスで何もしてあげられなかったことが悔しい」。(下線、清)

 

「彼はいつも笑顔だった。『部活動が楽しい、学校が楽しい』と毎日のようにご両親に話をしていたらしい。しかし彼は自殺した。中学校を卒業してすぐのことだった。一生懸命頑張っても人と同じようにできないもどかしさ、障害があることへの周りからの風当たりの強さ、差別、それは私の想像を絶するものだったろう。私は彼の苦しみに気付いてあげることすら、助けてあげることすらできなかった。中学校を卒業して2年後、ご両親から連絡をいただき彼の自殺を知った。彼の両親は私に『あの子はいつもあなたのおかげで楽しいと言ってたよ。あの子のそばにいてくれてありがとう。それが私たちも、あの子にとっても唯一の救いだったよ。だからこれを聞いてあなたが気に病むことはないんだよ。本当にありがとう』と伝えてくれた。その出来事は私の心に深いキズを残した」。(下線、清)

 

「クラスの7割ぐらいが敵のようになっていた時があった。・・・〔略〕・・・授業中に教室を飛び出て屋上から飛び降りでもしてみようなんて考えてみたこともあるが、あの時ふと、そんなことをしても何も変わらないし、死んだぐらいで今の自分が回りに与える影響なんてたかが知れている。思われるのはせいぜい2週間くらいで忘れられるだけだと考えて自殺はしなかった」。(下線、清)

 

「教室でも部活でも一言も発せずに一日を終えることは珍しくなかった。・・・〔略〕・・・私のパーソナリティにトラウマ的記憶として大きなダメージを加えたのは、この中学の時のいじめ体験だったように思う。特に、口を開ければからかわれ笑われる、そこにいるだけで聞こえるように悪口を言われる、無視される、といったことは、私をひどく怯えさせた。どうしたらいじめられないのか、という自分自身への問いかけの末、私は『他人と関わらなければいじめられることはない』『何も話さなければ誰にも不快な思いをさせることはない』と気づき、それ以降その通りにしてきた。この答えが間違っていることは途中で気づいたからといってすぐに傷が癒えるわけではない。人と接するのが怖くてたまらない。その気持ちは、今でも自分の中に確かにある。・・・〔略〕・・・今こうしてレポートを書いていて、よくこの時期に自分が死を選ばなかったなと感心している。5年間にわたりいじめを受けて、助けられたと思ったことは一度もなかった。たった一人で暗夜の中、冷たい海の水に頭まで浸かっているような気持ちでただただ、その時を耐えていた。…〔略〕…裏切られたと感じたことは何度もあった。・・・〔略〕・・・奪われたものばかりだった。』」(下線、清)

 深刻度5の世界とかくの如く深刻度3の世界は陸続きなのだ。その境界線を引くことは無意味と思えるほどに、そうなのだ。*

*深刻度5の一通のなかにこうある。ほとんど同じ状況を語るものだが、「あのとき感じた身体の力が空気中へと分解していく感覚を、私は二度と忘れることはできない」と。そしてこの報告者はそれ以降の自分を「社会の関係性の束に絶えず埋め込まれながら、しかし、絶えず疎外されていくという循環運動をくりかえし続ける存在」となってしまったと語り、「見る私と見られる私の間に存在する中動態の私」と自分を名づけ、そのような在り方しか取ることができなくなったことが「関係性の崩壊した世界の正体」を示すのではないかと述べている。また別な一通は、いわばこうした孤独の刑に処せられたとき、「私はあの時一度死んだのではないかと思う。私が死んで、その代わりに私の中でいじめが生き続け、ゾンビのように惰性で今日まで存在している」と語っている。ここでは、深刻度5と4のレポートから引用することはこれでやめにするが、右の引用にもよく示されるように、くりかえしになるが、深刻度5.4.3は陸続きになっている一つの大陸を形成しているのである。

 殺人へ至る憎悪の発作に苦しむ、この点でも。たとえばこうある。

「私はその後考えて、助かったのが、親にそのことを打ち明け(Iが音頭取りになって起きた、自分に対する班全体からのイジメ——清)Iを殺すか死にたいととても中学生には言えないせりふだが、しっかりと主張したことである」。(下線、清)

 

「たまりにたまった何かが溢れ怒りで人を殺したいと思うのはこういう感情なんだとわかった。私は涙を流しながら家に帰った。それから一週間ほどは鞄のサイドポケットにタオルに包んだ果物ナイフを入れていた」。(下線、清)


「今でも中学校のバスケ部でいじめられる夢は頻繁に見るし、ふと思い出しては、殺すことばかり考えてしまう時もあるが、深刻度3が妥当であろう。今でもバスケットボールという文字、バスケットボールを見るだけであの頃の記憶が甦る」。(下線、清)

 自殺や殺人には至らず、長期不登校や転向にも至らなかったとしても、その経験がトラウマとなったということが如何なる心の事態を指すのか、私たちはそれを語る幾多の言葉をとおして噛みしめるべきだろう。この広大たる裾野をなす事態について。
 先の一通にこうあった。「人と接するのが怖くてたまらない」。
 どの証言にもこの苦悩が記される。「裏切られた」苦痛の身を切る鋭さとともに。

「イジメは私の心を殺し、私自身を臆病にし、弱くした。自分と同じ人間を怖いと思ってしまう感覚や得体のしれない恐怖は経験した者にしか分からない・・・〔略〕・・・あの頃の学校はとにかく地獄だったが、今ではこうして過去のこととして語れるまでになった。時間が解決してくれるものは実に多いが、心の奥底には当時の苦しみが未だにはっきりと残っている。私はいつになれば解放されるのだろうか」。(下線、清)


「大人になるにつれて自分が対人関係への恐怖を持っているとふと思うことがあります。人との距離感、そして見られ方をとても考えるようになりました。どのコミュニティでも無意識に嫌われないように気を張って生活しています。いじめという経験だけがこうさせた理由の全てではなく、成長して大人になったからだと思いますが、間違いなく一つのきっかけとなる経験だったと思います」。(下線、清)


「・・・〔略〕・・・それから私は人に本音で接するのが怖くなってしまった。また嫌われて、避けられてしまうのではないかと考えてしまうと本音で人と接することができない。気が付くと私は周りに合わせてばかりの人間になってしまっていた。中学校でも高校でも友達に本音で接することができず、うわべばかりの友達を作ることしかできなかった。大学生になり、新しくできた友達にも本音で接することができない私に、ある友達が『・・・〔略〕・・・人に合わせてばかりで、自分がなくて面白くない』と言った。その子の言うことが本当に当たっていて私は悲しくなった」。(下線、清)


「トラウマが拭えきれずにおり、苦手というか、女に対して恐怖を抱くことさえいまだにある。どこかで他人に期待しなくなったし、人は周りの調子ですぐに裏切る生き物であるから自分を深くまで絶対にさらさないことにしている。イタい人間と人はいうかもしれないが、こればかりはこの中1の経験則上しみついて離れない思考と化してしまっている」。(下線、清)

ついでにいえば、相手が女性にせよ男性にせよ、異性から加えられたイジメの恐怖と屈辱で異性に恐怖を覚えるようになったというレポートはほかに二通あった。

 トラウマは加害の経験においても成立する。被害の経験においてばかりではない。自分は償い得ない罪を犯した罪人であり、共犯者であり、共犯者となることを拒絶できなかった卑怯者だという烙印が、心の額に押される。早くも十代の入り口で、あの子供の《生命》が象徴していたはずの、晴れやかな朗らかな無邪気な自己肯定から彼らは追放される。
「当時は、これがイジメだと自覚できなかった。相手の立場になって物事を考えることができなかった。これがいけないことだと気づいたのはもう少し後になってだ・・・〔略〕・・・後悔してもしきれず、誰にも相談することができなかった。何度も直接謝ろうとしたが あの時人の目を気にせず謝れたら、少しは相手も私も人生が変わっていたのではないかと考えてしまう。・・・〔略〕・・・数年前、よく地元最寄り駅で彼を見つけた。彼はスーツを着ていた。・・・〔略〕・・・その姿を見るたびに、なぜかほっとしている自分がいた。・・・〔略〕・・・しかし、どこか表情が冴えなかったのが気がかりである。彼から明るい表情を奪ってしまったのではないかと考えてしまう。・・・〔略〕・・・胸が苦しくなる。・・・〔略〕・・・悔やんでも悔やみきれない過去である。今でも謝る機会があるならば、面と向かって謝りたい。そう強く思う。これが私のイジメ経験である」。

 既に前回述べたことだが、私のいわば「イジメ」定義はこうだ。
——イジメは、児童期(小学五年から中学三年まで)に誕生し、大多数のコミュニティメンバーの「傍観者」=共犯者化という必須の媒介項を得て、はじめて自分をイジメられる者とイジメる者とのイジメ関係性として樹立する。今日のイジメ関係性の基本構造は、イジメられる者からコミュニティーへの一切の参加の絆を剥奪する、《一対全体》の形をとった極端な異者排除の攻撃性からなる。そして、「傍観者」=共犯者化はそうしなければ次は自分が標的とされるという内部恐怖によって駆動される。
 私見によれば、この「児童期に誕生」という問題にはイジメ問題についてまわる次の四つの問題が貼りつくこととなる。

 第1の問題は、いわゆる「イジる」と「イジメ」との境界、悪ふざけの遊戯性と相手を自殺に追いつめるほどの行為の攻撃的な犯罪性との境界、これが当初はきわめて曖昧で自覚されないことだ。
 「小学5~6年生のとき、私はイジメに加担した。集団イジメである。当時はイジメという感覚は全くなかったが、振り返ってみるとそれは間違いなくイジメだった。・・・〔略〕・・・彼女は不登校になった。担任の先生は『こころのやまい』だと話していた。・・・〔略〕・・・自分は心臓が悪いのかと思った。・・・〔略〕・・・卒業まで彼女は学校に来ることはなかった。『イジメだった』と気づいたのはまさに『今』なのだ。今回の講義で十年の月日を経て、ようやく気付いた。後悔という言葉では言い表せないぐらいの心の詰まりを感じている。一番の問題は誰一人として『イジメ』だと判断していないかったことだ。おそらく、現在のクラスメイトたちは過去に『イジメ』を執行したという事実を『知らない』。『忘れている』のではなく『知らない』のだ。なぜなら、『イジメ』だと思って振舞っていたわけではないからだ。実際に私は今日までそのことに気付けなかった」。(下線、清)

 第2に、異者排除の攻撃性がもはや明確になった時点でも、その《一対全体》の構造によって排除者たちは己の排除行為に対する責任意識を絶えまなく曖昧化し他者に転嫁できることだ。確かに私は傍観者であったかもしれないが、主犯者でないことは確かだ、と。
 これは深刻度2との自己評価が付いたレポートであるが、そこには次の指摘がある。
 「今の自分が思うことは、小学校低学年のときであって一人一人の意志が弱く、みんな周りに合わせてしまい、集団であるといった安心できる立場に落ち着いてしまっていたのである。そうしたことから、些細な出来事から集団という媒体により、一人一人がいじめる側の一員となってしまったのである。今になって反省することは遅すぎるということを改めて痛感した」。(下線、清)

 なお、ここで急いで指摘しておきたい。
 深刻度2は前述のとおり「イジメ経験はしたが、トラウマにまではならなかった」が線引きの基準である。私はここで次のことを強調しておきたい。そこに語られる「イジメ経験」は深刻度5・4・3が語るイジメ経験そのままであることを。つまり端的にいえば、昨日まで信頼に満ちていたはずの友達に裏切られる経験と、昨日までの友を自分が標的にならないためには裏切るほかなかったという経験とに媒介されて成立する、《一対全体》の形をとった極端な異者排除の攻撃性からなるイジメ経験、まさにこれだということを。
 そこには何も変わりがない。深刻度2のレポート数は174通だから、それが計361通、全レポート388通の93%を占めるイジメ経験の大陸なのである。

 しかも深刻度2のレポートにおいても確かにそこではその経験はとりあえず自分にとっては「トラウマとなった」とまではカウントされないと一応表記されてはいる。だが丁寧に読めば、いくつものレポートが境界線上で揺れていることがわかる。たとえば、次の証言が深刻度3にカウントされなかったのは次の事情による。すなわち、たまたまその後「席替えで隣になったクラスの子」との会話が始まり、それが積み重ねられ、ある時気づくと彼が孤独の地獄から救い出されていたことに。だがもしこの僥倖がなければ、彼の証言は確実に深刻度3と表記されたにちがいない。実はこうして深刻度3と2との間にも先に5・4と3との間について述べたことがそのまま言われねばならないのだ。両者もまた「陸続きにある」と。
 「私は、これまで仲良くしていた子がこれほど態度を変え、私の存在を遠ざけるようになったことにひどく傷ついた。これまでの関係が一気に崩れ去った感じがして、これまでのその子たちとの思い出のすべて嘘の物のように思えた。もちろん楽しかった学校はただの苦痛の場所になり、教室でも虚無感と孤独を感じる時間ばかりが流れた」。

 議論を戻す。
 前述の第2点に、しかし、急いで次の第3点がつけくわえられねばならない。すなわち、その自己弁護論理の欺瞞性は実は各自によって既に自覚されてもいるという両義性、これが見逃されてはならない、と。止めに入れば次の標的は私になるから、私は傍観者であるほかなかったとの鋭い隠された暗黙の意識の介在、それが生む《傍観者とは実は共犯者にほかならない》との良心の呵責、罪の意識。
 実に深刻度2のレポート群はこの「自分は傍観者であった」という自己懺悔に満ち満ちているのだ。深刻度3に至るほどのトラウマを蒙らずに済んだのは、「傍観者」になることによって辛うじて「一対全体」の残酷な孤独の刑を受けずに済んだからなのであり、大部分の証言はそれを自認し、罪の意識に黒ずんでもいるのだ。

 そして第4に、これはいわゆる「スクールカースト」の関係性の成立に深くかかわることだが、「児童期」はほんのちょっとした肉体的な、体力的な、あるいはまた気性上の優劣や強弱の差異が大人の想像を超えた差異として働き、支配と服従の力関係を産みだしてしまうという問題だ。これも深刻度2のレポート群からのものだが、次の指摘を引いておこう。
 レポートは言う。「学校側がいじめを認識できるはずがないと私は思います」と。そしてこう続ける。
「なぜなら、いじめは仲の良くない人間関係から生まれてくるより、友達グループの中から生まれてくることが多いからだと思います。そもそも仲が良くなかったら、遊びもしないし、一緒に帰ったりしません。ただそれだけの関係で終わります。では、なぜ友達グループの中からのほうがいじめが起きやすいのか、それは一定の仲がいいグループができるとその中からリーダー格の人間がでてきます。リーダー格の人間ができると、その反対に下っ端の人間もできます。その下っ端の人間はパシリにさせられたり、おごらされたりして、それが段々とエスカレートしていき、いじめが起きます」。(下線、清)

 この認識は卓見である。グループは権力を産み、産まれた権力は必ず自己増殖のサイクルを開始する。権力は下っ端を産み、下っ端は権力を産むという相互作用が開始される。
 政治学の基本テーゼの雛型は既にして児童期の政治学のなかに育まれている!
 あらためて私たちは気づく。児童期とはあらゆる雛型の体験期であることに!
 そしてこの位階制は必ず脅迫の位階制である。何故ならそれは権力という位階制だからだ。お前が、少なくとも傍観者、さらにいえば実質的共犯者の役を負わないなら、つまり反逆をするなら、次の標的はお前だ! 
 先の鋭利な指摘はこう続く。だが、「親や学校側はそのことを知らず仲が良い友達だと思い、いじめを認識できないのです」と。
 かくて、「傍観者であった」との告白に満ちている深刻度2のレポート群は、グループのなかに必ず生まれる「リーダ格」・「権力ある子」にはほとんど逆らうことができないという己の「無力さ」の証言に溢れかえる。(もっとも、昨日まで位階制の頂点にいたはずの子が今日突然下っ端であったはずの全員から無視の懲罰を受ける、いわばクー・デタ的逆転劇が起きるということ、このこともまたこの児童期グループ・ドラマの特徴である。今回二通がそれを報告していた)。

 イジメは、これら4つの要素の絶えまない絡み合いのなかで己を成長させてゆく児童期特有の暴力の関係性なのだ。くりかえす。それは全レポートの93%を占めるトラウマ大陸の現存を証言する。自殺という頂点は広大な裾野を指し示す。児童期を構成する大陸と呼ぶのがふさわしい、それを。既にして、それは大人が生きる暴力と罪、裏切りと無力、自己嫌悪と他者憎悪の暗黒大陸の雛型である。
 驚くべき現状である。(清眞人)

季節のたより19 フクジュソウ

蜜を持たず、花を温め虫をよぶ

 フクジュソウは、雪国に春の訪れを教えてくれる草花。子どもの頃に田舎の土手で、雪解けとともに鮮やかな黄金色の花が咲き出すのを、心躍るような気持ちでながめたことを思い出します。

 フクジュソウは「福寿草」と書き、和名です。その名のごとく、幸福と長寿を呼ぶ花として愛され、人々の暮らしに馴染んできた花です。
 キンポウゲ科多年草で、主に本州中部以北、北海道の山野に自生していますが、江戸時代初期の頃から栽培もされてきました。今も正月には、鉢植えの花が床飾りにおかれて、新春の喜びを伝えています。

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  春を知らせ、幸せを呼ぶフクジュソウ。元日草とも呼ばれています。

 フクジュソウは別名を「元日草」(がんじつそう)といいます。フクジュソウが咲き出すのは、早くても2月です。なのに、なぜ元日草と呼んだのでしょう。
 それは、江戸時代に使われていた暦では、ちょうどお正月頃に咲きだす花だったからです。

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   雪の下からつぼみがのぞく。

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        雪をはねのけ起き上がる。

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              羽状の葉は首を巻くマフラーのよう。

 当時の暦は、太陽と月の運行を基準にした太陰太陽暦(旧暦)でした。太陽の運行は季節の変化や種まき、刈り入れの時期を知らせ、月の満ち欠けは、暦の正確さの指針になって、暮らしの中に根づいていました。 

 ところが、明治5年(1872年)の11月9日、明治政府はこれまでの太陰太陽暦(旧暦)を廃止し、太陽のみの運行を基準とした太陽暦新暦)への切り替えを布告します。そして、明治5年の12月3日を、明治6年元日(1月1日)としたのです。  
 年がおし迫ってからの強引な切り替えに人々の暮らしは混乱を極めたもようです。近代化のため世界基準となる新暦が必要というのが政府の理由。でも本音は財政の節約でした。旧暦は季節とのずれの調整のため、約3年に一度1年を13ヶ月とする閏年があって、明治6年はその閏年でした。財政難で困っていた政府は、1年が必ず12ヶ月となる新暦を採用すれば、役人に支払う閏年の1ヶ月分の給料を節約できると考えたのです。
 十分な論議も準備もないまま強引に法令を決定する政府のやり方は、明治以来少しも変っていないのですね。

 新暦に変わっても庶民の旧暦での暮らし方は続きますが、長い年月の間に新暦は浸透し、いつしか旧暦で馴染んだ暮らしや文化、人々の季節感や、自然への感謝や畏怖の念などが失われて今日に至っています。

 新暦と旧暦とでは、およそ20日から50日ほど季節のずれが起きます。新暦の3月3日の桃の節句には、桃の花のつぼみはまだ固いままです。旧暦の3月は、新暦の4月上旬から中旬頃にあたり、桃の花は花盛り。桃の節句にぴったりの季節といえるでしょう。
 新暦の元旦は、まだ真冬のさなか。旧暦の元旦は新暦の2月頃になるので、寒さの中にも春の訪れが感じられる季節です。フクジュソウも雪の下から顔をのぞかせてきます。人々はその姿に新春の思いをかさねて「元日草」と呼んだのでしょう。

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  雪解けが始まると、待ちかねたように次々に咲き出します。

 フクジュソウは、冬に咲く花なのに、蜜を持っていません。前回とりあげたビワの花が豊富な蜜をたくわえて、冬の数少ない虫たちを集めていたのとは全く対照的です。何か秘策でもあるのでしょうか。

 フクジュソウは陽がさしてくると、閉じていたつぼみを開いて、鮮やかな黄色い花を、おわんの形に開きます。冬に活動しているのはアブの仲間たちです。アブは黄色い色が好みなので、花の色に引き寄せられて集まってきます。でも、蜜がなければ逃げられてしまうのでは。

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 陽の光を感じてふくらむつぼみ     パラボナアンテナのような花

 ところが、少しも飛び去る様子がありません。おわんの形に開いた花は、ちょうど衛星放送の電波を集めるパラボナアンテナのように、太陽光をよく反射させ、花の真ん中に光と熱を集めます。花の中心の温度は、まわりより10度以上も高くなるときもあって、寒い季節に活動するアブたちにとって、フクジュソウの花は冷えた体を温める格好の場所になっているのです。

 アブは温かい所を求めて花の真ん中に集まってきます。フクジュソウの雄しべと雌しべも花の中心に集まっています。花粉はアブの体に自然についてしまいます。体が温まり元気になったアブは、体に花粉をつけたまま次の花へと移動します。そのとき受粉が行われるのです。
 フクジュソウは、蜜なしで虫たちを呼び寄せるという、一風変わった、真冬に最も効果的な生き方でいのちをつないでいるのでした。

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 花の後は、茎が伸びて葉を広げます。来年の栄養分を根に蓄え、やがて枯れて眠りにつきます。

  フクジュソウは、雪解けをいち早く察知し、花を咲かせ実を結ぶという生活史をくり返しています。他の草花との競争を避けているようです。
 早春にはカタクリやシュンラン、ニリンソウなどの花々も次々と咲き出します。不思議なのは、これらの草花が微妙に花期をずらして咲くということです。まるで地上への出番を知っているかのように花咲かせ、実を結び、消えていくのです。
 これらの草花は、「競争」ではなく、季節と大地を上手に「棲み分け」て、選んだ環境に適応する能力を身につけながら、自然の営みにそって生きているということなのでしょう。
 自然の摂理を無視し環境を破壊しながら文明を築いているのが人間ですが、今改めて、これらの草花の生き方に学ぶことはないのでしょうか。(千)

映画『沖縄スパイ戦史』上映会開催に寄せて

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 年明け早々からすでにエンジン全開の須藤さん。それもそのはず、センターの事務局員でもある須藤さんは今週末に行われる『沖縄スパイ戦史』の主催者の一人なのです。
 ご存じのように沖縄は辺野古基地問題で大きな正念場に立っています。沖縄の人々が抱えてきた歴史と今を知り、私たちの今とこれからを考えるよい機会になると思います。以下、須藤さんから寄せられた映画上映への思いを掲載します。ぜひ会場に足を運んで下さい。
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 1月13日『沖縄スパイ戦史』の上映会を行います。
 この数年、沖縄の基地問題を中心としたものや、沖縄の歴史にかかわるドキュメンタリーを上映してきました。
 私たち「本土」に生きる者が、沖縄で起こっていること、起きてきたことを見えないようにされていることに鈍感でいたり無自覚であっては、何も見えてこないと気づかされたからです。
 「戦争と人間」を考えるとき、殺し合いに他ならない戦争というもの、加害であれ被害であれ、かくも人間の尊厳を奪う戦争というものを、この世界から根絶する意思をどのように自分のものにしていくのか。そのことを問われ続けていると感じてきました。

 今回は4作目の『沖縄 スパイ戦史』。本作がたどる沖縄戦の実態。生き残ったかつての少年兵たちがこれまで語ることができなかった戦いの深層、その深い闇。その後の人生にもたらしたもの。
 作品からは、基地を認めてしまったら戦争を認めることになると、今もなお、抵抗をあきらめない沖縄の人々の堅い意思の裏にある大きな怒りと深い哀しみと悲しみが伝わってきます。
 昨年の12月14日、ついに政府は辺野古海域への土砂の投入を強行しました。翁長知事亡き後の知事選において示された民意は一顧だにされずに。

 新年からの国会には、政府与党から憲法9条を骨抜きにする改憲案が示されようとしています。
 昨年11月に行われた九条の会の集まりで講師の伊藤真さんは、「9条をなくすことは、世界から戦争をなくすという理想を手離すことだ」と語りました。
 沖縄の苦難と苦闘にこたえる道も、この理想を実現する道筋につながるに違いありません。

沖縄スパイ戦史」上映会
  日   時:1月13日(日) 10:00 ②12:30 ③15:00 ④17:30
  会   場:せんだいメディアテーク 7Fスタジオシアター
  参加費:前売り1,000円 当日1,300円 学生500円

  主催 「テロにも戦争にもNOを!」の会 連絡先090-7936-3437 須藤

歩みいる人に安らぎを、今年もよろしくお願いします

 あけましておめでとうございます。
 一昨年、昨年と元旦は自宅近くの台原森林公園佐藤忠良さんの「緑の風」に会いに行っています。我が家では、恒例行事になりつつあります。よっちゃんは年に1度の定点観測みたいと笑います。
 そうかもしれません。これからの1年を迎えるにあたって自分の立ち位置を確かめリセットするための・・・。近ごろは、変わらずにあることの難しさや大事さを感じることが多くなってきました。

 この仕事をするようになってからずっと心に留めている言葉があります。それは、“歩みいる人に安ぎを、去りゆく人に幸せを” という言葉です。大学時代、大変お世話になった先生の研究室のドアに書かれていました。ドイツのローテンブルグという中世の城塞都市の入り口に掲げられているそうです。研究センターをこういう場にしたいと思ってきました。明日からの「冬の学習会」が仕事始めとなります。今年もみなさんと一緒に変わらず研究センターの取り組みを一つひとつ創っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

 年末から冷え込みが厳しくなって雪の元日になるだろうかとも思いましたが、さいわい穏やかな朝となりました。今年元旦の「緑の風」と台原森林公園です。
                                                                                                                     ( キヨ )

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   種子について
   ——「時」の海を泳ぐ稚魚のようにするりとした柿の種

  人や鳥や獣たちが
  柿の実を食べ、種を捨てる
  ——これは、おそらく「時」の計らい。

  種子が、かりに
  味も香りも良い果肉のようであったなら
  貪欲な「現在」の舌を喜ばせ
  果肉と共に食いつくされるだろう。
  「時」は、それを避け
  種子には好ましい味をつけなかった。

  固い種子——
  「現在」の評判や関心から無視され
  それ故、流行に迎合する必要もなく
  己を守り
  「未来」への芽を
  安全に内蔵している種子。

  人間の歴史にも
  同時代の味覚に合わない種子があって
  明日をひっそり担っていることが多い。
          吉野弘『感傷旅行』より)

対話から新たな考えや協同を ~ 新年を迎えるにあたって ~

 2018年も残り2日となりました。28日は午後から事務局員でセンターつうしん93号の発送作業。これがセンターの御用納になりました。毎度のことですが「つうしん」作りは特集内容で悩みます。やっとテーマが決まったと思ったら次は執筆者を誰に依頼するかで、また悩みます。つうしん読者がどのようなものを期待して待っているのか、センターからは何をみんなで考えて欲しいのか、この2つの狭間で、内容と執筆者を考えることになります。しかし、どうしても後者の方が強くでてしまうのが現状です。センターから読者への一方通行を、どうしたら双方通行になるか。私の課題です。

 話は変わりますが、最近、「対話」について考えることが多くありました。その一つは秋から冬にかけての沖縄の知事と総理や官房長官のそれ。国会での与野党の質疑の様子も同じです。いずれも「対話を重ねます」「真摯に答えます」といいながら、つかみ所のない意味不明な、不誠実な回答だけが目立ちます。

 かつて小説家の小野正嗣が「文学を理解するためには、その世界の中に入らねばならず、自分の一部を譲り渡して他者を受け入れることが必要で、自分が変わることだ」と出典は忘れましたが書いていました。文学を相手と置き換えれば対話の本質が見えてきます。モンテーニュも「言葉は、半分は話す人のものであり、半分は聞く人のものである」と述べています。

 今、私たちの周囲を眺めると、分かり合える相手としか対話しない風景が蔓延していませんか。理解できなくても、一緒にいて、話ができる。話を聞いてもらえる。そのようになれば、もっともっと風通しがよくなり、世界が変わって行くのでしょうね。
 センターつうしんも、対話を生み出す種になり、そしてその対話から新しい考えや行動が芽生えればと願いながらの年越しです。<仁>

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               つうしん93号の詳細は、こちら  から