mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

春さんと本との話

 しばらく前から、私の蔵書は、邪魔者扱いされている。それもわかる。家の中に隙間があると、本がすぐそこに居座るからだ。先日、故あって、一部屋を緊急に撤去しなければならなくなり、何をどこになど考えることなく、そちこちに運び去られた。 
 いま、仕事をしようとして、何がどこにあるか探しかね、大いに苦労している。自分以外には、家の中をゴミで埋めているとしか思われていないのだから、家人に聞くわけにもいかない。本が「ここだ、ここだ!」と言うわけでもないのだから、仕事がいっこうにすすまない。

 こんな時、必ずうかんでくることがいくつかある。
 まずAさんである。本を集め出したきっかけは就職した年にある。そこで、学習用品を学校に入れていたAさんと雑談しているうちに、Aさんが、手取り7500円程度の私を哀れに思ってか、「欲しい本を私が買ってきましょう。払いはボーナスでいいです」といってくれたのである。そのうえ、Aさんは、清算のとき1割引いてくれた。学校が変わっても、つごう4年間、Aさんはつづけてくれたのである。日本・世界・古典文学全集はそのときのものである。

 次は、「果てなき旅」で大佛次郎賞を受賞した日向康さんのお宅を訪ねたときのこと。日向さんは、林竹二さんのお弟子さんで、仙台市向山に住んでおられた。
 宮城民教連冬の学習会での講演をお願いするためにお宅をお邪魔したのだった。
 玄関が開いたら、奥の茶の間から玄関まで、たたきの部分を除いたすべてが図書の山なのである。日向さんは、その図書の山の間をくぐるように現れ、日向さんと私は、ほとんど体を接するように並んで腰を下ろし話し合ったのだ。あの図書屋敷は今も忘れることができない。競争心が燃えたわけではないが、うらやましかったこと! 本集めに火がついたといってよい。
 「果てなき旅」上下巻とも、その冒頭に、「この書を林竹二先生と島田宗三老に捧げます」とある。

 次に忘れることのできないのは、蔵書の量ではなく、読書量が生んだであろう「ことば」の思い出である。
 岩手の中学校Kさんの最後の授業参観に行った。教材は「鼓くらべ」(山本周五郎作)。私はKさんを知って以来、Kさんの仕事を必死に追いかけてきた。また、多くをしゃべらないKさんだが、その話は聞き洩らさないようにしてきた。
 授業後の検討会は、場所をかえて、近くの温泉でもった。その検討会のなかでの作品論で、群馬から参加したSさんが、「なぜ、あの作品をとりあげたのか。ぼくには鼓の音が聞こえてこない。」と言ったのだ。山本周五郎は私の大好きな作家だから、私は取り上げた「鼓くらべ」を喜んでいた。そこに、「鼓の音が聞こえてこない」とSさんが言ったのだ。私はびっくりした。
 教科研国語部会の機関誌「教育国語」が、毎号掲載した「読み方定期便」というページで、作品(教材)を提起してきたが、その作品はSさんの手で選ばれたものと聞いたことがある。どれもすばらしい作品で、この雑誌の読者でなければお目にかかることなく終わっただろうものばかりだった。
 「鼓の音がきこえない」と定期便が私の中で結びつき、「読む」ということをあらためて強烈に考えさせられたのだった。そして、(Sさんはどうしてこのような人になったのだろう、多くを読まずにこうなるはずはないだろう、オレも読まなくちゃ)と私は大いにあおられた。
 しかし、わたしの書棚に目をやれば、Sさんの仕事と結びつくような読書でないことはだれにも一目でわかってしまう。

 でも、簡単に廃棄などという気にはならない。大きな大きな悩みだ。( 春 )

夏の講座・あれやこれや

 この夏、センターが主催した『夏休みこくご講座』と、ついこの9月1日(土)に行った『第2弾 算数授業づくり講座』の報告をします。どちらも多くのみなさんに参加いただきました。ありがとうございました。

 さて8月3日(金)に行った『夏休みこくご講座』は、実はちょっとしたハプニングが・・・。1つは、私自身が準備中に足を怪我してしまい、急遽病院に行くことに。もう1つは、後半の分科会で話題提供していただく予定の先生から、緊急の用事が入って時間までに間に合わないかもとの連絡が・・・。しかし、そこは人生における幾多の困難を乗り越えてきている事務局のみなさんの機転を利かせた対応によって無事講座を行うことができました。参加者のみなさんには至らない点もあったかと思いますが、お許しください。そして次回以降も、ぜひご参加下さい。

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【 参加者感想から 】
・春日先生の最後の「みんなと一緒にいるからいい場所と思わせるのが勝負」
 という言葉が印象に残りました。絵本の力、ことばの力を感じました。
・国語についてさまざまな思いを持った先生方が集まって話し合うという興味
 深い企画でした。それぞれの実践からのお話が大変参考になりました。
・兵十は火なわ銃をうたないといいなあと思いました、という子どもの感想に
 ❝物語の結末を知っているのに、こんな感想を書くのだなあ、すごいなあ❞
 と気づけるようになりたいと思いました。改めて「ごんぎつね」という作品
 のよさを知ることができました。
・サラダで元気、絵本か教科書か? 悩むところですが、今日は絵本のよさを
 すごく感じました。俄然1年生の担任をしたいと思いました。
・教科書と絵本の比較は自分でもやりたくてもなかなかやれないので、今回の
 企画はとてもおもしろかったです。やっぱり絵本はすてきだなあと思いまし
 た。教師が本質を知っていることの大切さが身にしみました。

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 第2弾『算数授業づくり講座』の方は、これからかけ算の授業が具体的に始まる2年生の先生や、前回の講座に参加してくれたリピーターの先生などを中心に行われました。最初は緊張気味の方もいらっしゃいましたが、気さくで明るい講師の林さんの人柄とグループごとの教具づくりの活動が、次第にみなさんの緊張を解いて和気あいあいの楽しい講座となりました。
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【 参加者感想から 】

・2年生の担任をしています。大人でもわくわくするような教具・授業実践、
 これからの九九の勉強が本当に楽しみになりました。九九だけではなく、算
 数の授業で使えるようなポイントがたくさんありました。
・前回の位取りハウスもそうでしたが、子どもたちの生活経験から学習問題へ
 結び付ける発想が今回もすごいなあと思いました。2年生のかけ算の大切さ
 は、中・高学年を受けもつほど感じることが多くなってきました。今度2年
 生を受け持つ際には、今回の講座の実践に挑戦してみたいと思いました。
・私の小学2年生の時のかけ算の内容は、九九を繰り返し暗唱させ暗記するだ
 けという印象が強かったです。「くるくるボックス」や「かけ算計算器」を
 つくり、活用することで、1あたり量やいくつ分の数がより理解できると分
 かりました。(学生)

「東北の教育的遺産」が縁結びの神様に              ~インターネット時代の効用?

 先月末のことである。午後に突然見知らぬ青年がセンターを訪れた。聞くと、宮城教育大学を会場に開催されている日本教育学会に参加のため来仙した早稲田大学の大学院生とのこと。学会開催中にネットで検索していたら、『東北の歴史的遺産』が目にとまり、どのような本か関心が高まり、昼休みに学会を抜け出してきたとのこと。さらに彼は大学卒業後、高知の新聞社に就職したが、「教育分野」の研究を続けたく、退職し大学院へ進み、鈴木道太の研究中だと話してくれました。センターの書棚から鈴木道太の著書などや鈴木道太にふれた本を取り出して紹介すると、「これは初めて読みました」と話は次々と展開。以前、カマラードに連載した「あの頃を語る」という鈴木道太を囲んでの座談会の記録もぜひ読みたいと。ちなみに彼が大学院で鈴木道太に注目したのは、早稲田大学で鈴木道太研究を進めていた、増山均教授との出会いからだという。
 また必要な時はぜひ仙台へと誘うと、また近日中に宮城にくるというのです。何と白石市の市民図書館に『鈴木道太コーナー』が特設されていて、彼の直筆の原稿や私信、年賀状などが展示されていると教えてくれました。宮城に住んでいながら知らずにいた自分が少し恥ずかしく思ったのでした。ちなみに白石は鈴木道太の出身地です。
 県内のみなさまにも、鈴木道太がどのような人だったのか知って欲しい。そして彼の書いた著書などを読まれるといいなあと思った一日となりました。
 それにしてもインターネット時代の効用(?)に改めて驚いたのでした。

縁結びの神様となった8月発刊の「東北の教育的遺産」もぜひ読んでいただければうれしいです。電話での注文を受け付けています。センターのホームページの問い合わせのフレームからでもOKです。 <仁>

急遽開催! 特別編だよ「道徳なやんでるたーる」

 やっぱり学校の先生たちは、道徳の授業どうしよう? 評価はどんなふうに書けばいいかな?と、みなさんナヤンデルタールのようです。

 夏休みが終わり、これからの学習会をどうしよう? 今度はどの教科で行おうかと思案していたところ、「道徳なやんでるたーる」の学習会に毎回参加してくださっていた先生との話から、改めて1年生教材「それって おかしいよ」の授業づくりの学習会を持つことにしました。9月以降も、多くの学校の校内研究で道徳の授業が行われるようです。ぜひ参加して一緒に道徳の授業づくりについて考えませんか。お待ちしています。 開催は、9月8日(土)10時~12時です。

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戦争と平和をどう記録し伝えるか

 この夏も、8月の広島・長崎への原爆投下の日、そして終戦(敗戦)の日を中心に、様々な戦争と平和について考える特集番組が組まれました。
 戦争体験者が高齢になっていくなかで、新たな資料などの掘り起こしとともに、その体験と声をどう記録(記憶)し、どう伝えるのか。近年、そのような模索も含めた番組制作がなされてきているように感じます。
 その一つに、NHKスペシャル「“駅の子”の闘い ~語り始めた戦争孤児~」がありました。戦争で肉親や住むところを失い戦争孤児(駅の子)となった子どもたちの過酷な生活とつらい思いが語られていました。戦争孤児たちが終戦後どのような人生を送ったのか、これまで知らないできたことに改めて気づかされました。彼らにとって戦争は、終戦でおしまいになったのではありませんでした。終戦後も生きるための過酷で悲しい戦いが続いたのでした。改めて戦争の理不尽さに怒りを感じます。

 それから、昨年末にお亡くなりになった早坂暁さんと血のつながらない妹・春子さんとの人生をドラマにした『花へんろ特別編 春子の人形』もとてもよかったです。最愛の妹・春子さんを広島の原爆でなくされた痛切な体験が、早坂さんの『夢千代日記』をはじめとする原爆と戦争を見据えた作品や活動の原点になっているといいます。その妹さんと早坂さんの物語です。お二人の心に秘めた思いとともに、平和への思いを強くしました。
 ちなみに、『花へんろ特別編 春子の人形』は、9月1日(土)15時~ NHKBSプレミアムで再放送されるそうです。よかったらご覧下さい。

 最後に、このことを書き忘れてはいけませんでした。8月15日の朝日新聞宮城版に当研究センターの前代表・中森孜郎のことが、「死を美化した愛国少年 きけわだつみのこえに衝撃『天皇信仰』から解放」と題し掲載されました。『「憂憤録」の頃の私』に込めた思いも含め、天皇のため命を捧げて生きた忠君愛国少年時代のことを語りました。今回の『「憂憤録」の頃の私』出版は、戦争と平和への思いをどう記録し、どう伝えるかのセンターとしての試みの一つです。
 なお8月15日の朝日新聞掲載以降、多くの方から『憂憤録』についてのお問い合わせがありました。まだ在庫はありますので、ほしい方は研究センターまでご連絡下さい。(キヨ)

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『算数授業づくり講座』第2弾は、今週土曜日(9/1)!

 県内のほとんどの学校が、週明け月曜日から始まりました。夏休みを終えて登校してきた子どもたちとどんな授業や取り組みをしようかと、そのことで先生たちの頭の中は、もうフル回転かもしれませんね。

 すでに8月初めにこのDiaryで紹介していますが、第2弾の『算数授業づくり講座』の開催が今週末に迫ってきました。算数の授業をより楽しく充実させるためのヒントや話がいっぱい聞けます。学校が忙しくてついつい申し込みを忘れていたという方はいませんか。まだ人数的には余裕があります。ぜひこれからでも申し込みください。お待ちしております。

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猛暑の夏に、「作文と教育」分科会に参加して

 8月10日から行われた東北民教研・茂庭集会には、門外漢ながら「作文と教育」分科会に参加しました。次号「センターつうしん」の特集を何にするかの打ち合わせで、表現がテーマに挙がり、生活綴り方などが話題になったからです。恥を顧みず大胆に、そして謙虚に、それを受け入れてくれる分科会のみなさんに囲まれて、楽しい学習会でした。
 そんな経緯での参加でしたが、多くの刺激を受けました。その辺りをとりとめなく・・・と思います。

 まず私事から。思い出すのは作文が大嫌いだったということ。そして、使う接続詞は決まって「そして」だったということ。そして、そして、そして、そうやって作文を書いていました。また、総じて作文の時間は、何かの学校行事などの取り組みに合わせて行われていたことを思い出します。特にその行事が自分の中に書くべきものを感じさせなくても、作文は書くものとして「強要」されました。子どもにとって(子どもだけじゃないね)書くものがない、あるいは書くことの必要性を感じないのに書くというのは、ある意味「拷問」のように思うけど、それでも書いていたのです。子どもは与えられた世界をまずは生きざるを得ないから。先の「そして」で書く作法は、そういう中で自分なりに見出した苦肉の策なのです。

 どうしてこんなことを言い出したかというと、「作文と教育」分科会の先生たちの取り組みは普段の学校生活の中で日常的に行われていて、自分が受けてきた作文とはずいぶん違うなあと感じたからなのです。同時に、普段から作文を書くとなると、特別(非日常的)なことでもなかなか書けなかった自分を思い、拷問どころか地獄でしょ!とも思ってしまうのでした。きっと作文を書くことが楽しいと子どもたちが思うように誘う(指導する)ことが教師としての腕の見せどころというか、教師の力量ということになるのでしょう。

 ところで私は、作文指導や作文教育、そんなものを果たして受けただろうか? 思い出せない。いや、実は指導なんてなかったんじゃないか。それとも、忘れっぽい私が忘れているだけなのか…。そんなことを思う自分がいるのでした。なぜなら、たいてい作文の時間は、作文のテーマと400字詰め原稿用紙が配られておしまいだったからです。併せて、つぎの一文がよみがえってきます。その文章は、手紙を書かなくなった私たちの日常と、手紙という存在をめぐって書かれたものなのですが・・・。

 もし現在のぼくたちの生活のなかで〈書く〉という活動の場面が・・・ノート筆記、試験、書類、報告書といったものばかりで埋め尽くされているとしたら、そもそもあの作文教育は何のためにあるのか、それはほんの添え物的なもので、けっして真剣なものではなかったのではないかと思われてきます。
 もし、それが真剣なものであったなら、いいかえれば、〈自分の人生を表現する〉〈自分の人生の証人となる〉という問題に関わって〈書く〉ということがもつ意義や働きについて、ぼくたちが自覚する機会やその面白さを享受する機会が十分に与えられ、ひとりひとりが〈書く〉ことにむけて励まされていたら、そしてまたそのメダルの裏表の関係で自分の親しき隣人(友人、親、兄弟、他)が書くものを〈読む〉ことの楽しさや、〈書く―読む〉の人間関係をそのようなものとして生き生きと維持する〈術〉(「生きる」ことの〈わざ〉・技術としての)を身につけることができていたなら、もっと生活のなかに〈書く〉という営みが生き生きと溢れていて、ぼくたちはそれを楽しんでいるはずだからです。(清眞人著『空想哲学スクール』より)

 著者のいう「添え物」という言葉が、そして「ひとりひとりが〈書く〉ことにむけて励まされていたら」という一節が、私の受けてきた貧しい作文の時間の記憶と、そこに欠けているものが何なのかを心の鈍い痛みとともに射貫いていきます。あの孤独で退屈な時間を過ごす私が、今も教室にひとり取り残されて座っています。

 こう書いてきて、やっと自分が何を言いたいのか、言いたかったのかが見えてきます。つまり私が「励まされる」ためには、「励ます」人がいなくてはならないということが。私に向けて、お前の人生を教えてくれ、俺はお前を知りたいのだという相手が、そこにいなくてはならないということがです。そして、その「励ます人」のひとりに、教師もならなくていけないのだということが・・・。ちなみに、「励ます人」としての教師と子どものことについては、このdiaryのまさひろくんの『ばいばい』に想うに書きました。よかったらそちらもご覧ください。

 「作文と教育」分科会は、今年の猛暑にふさわしく? このようなアツい熱い妄想を私に抱かせたのでした。これ以上の熱中症になるといけないので、今日はこのあたりで終わりにします。(キヨ)

(追伸)そう書き終えたのにも関わらず、少し前に手にした本の中に次の一文を見つけてどうしても書いておきたくなってしまいました。お許しを。それは鷲田清一さんの『死なないでいる理由』のなかで、日野啓三さんの『書くことの秘儀』の引用として記されているものです。

 「書く」ことによって「ほんとうのこと」が呼び出され呼び寄せられ、息を吹き
 かけられ血を注ぎ込まれ、影のように亡霊のように、近く遠く明るく暗く立ち現
 れるのであって、「書く」前にホントもウソもない。顔も水脈も陰影もなく混沌
 (カオス)さえもない。「書き方」だけが「ほんとうのこと」と「ほんとうに成
 り切れない」あるいは「ウソでさえもない」こととを分ける。