mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『2017夏休み こくご講座』案内

 少し前のdiaryで、今年も開催することをお知らせしていた『夏休み こくご講座』。内容も決まり、チラシも出来上がりました。

 夏休みは、日頃できないことを始めたり、自分の興味・関心を広げたりするよいチャンスです。心とからだのリフレッシュに、夏休み以降の授業のために、是非ふるってご参加下さい。お待ちしております。

 2017夏休みこくご講座

◆日時:8月6日(日)
     午前の部 10:30~12:00  午後の部 13:00~16:00 

◆場所:フォレスト仙台ビル2F ホール   参加費:500円

 午前の部は、40年にわたって自宅を開放し家庭文庫の活動をされてきた松尾福子さんに、「文庫で出会った子どもたち ~絵本・文学の世界に子どもたちを誘って~」と題し、読み聞かせなどの魅力や面白さ、またそこで出会った子どもたちについてお話していただきます。

 午後の部は、国語の教科書教材をもとに、話題提供者の話を糸口にして教材作品をどう読み、そしてどんな授業にしたらよいか?
 2つのグループに分かれて、みんなでわいわい話し合います。なお、それぞれ以下の教材を扱う予定でいます。

 ・下学年グループは、「スイミー」と「名前をみてちょうだい」を扱います。
 ・上学年グループは、「海のいのち」と、教科書に載っている詩を扱います。


※)1日参加も、午前・午後どちらかの参加も可能です。
  教職員に限らず、保護者の方や文庫活動などをされている皆さんも、
  ご参加下さい。お待ちしてます。

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まずは学校での解決を(河北新報『持論時論』)

 少し前に春さんの持論時論をdiaryに掲載しましたが、今度は、講演会や学習会などに参加くださっていた高橋幸子さんの投稿(河北・朝刊6月21日付)が取り上げられました。紹介いたします。

  仙台のいじめ自殺 まずは学校での解決を

 仙台市内で続いた3件の中学生自殺問題で、奥山恵美子市長が市長部局に第三者調査機関を新設するという本紙記事(5月25日朝刊)を読みました。市長主導・・・それだけでいいのでしょうか? 新聞を読む限りでは、担任の先生といじめに遭った生徒さんの関係がどうだったのか、互いに信じ合えていたのかと、疑問を持ちました。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 私が教師をしていた時は、担任するクラスの子どもはわが子のように世界一かわいい子、失敗するのは私が至らないせいと考え、私の至らない原因は何かしらと考えました。そのような考え方ができるようになったのは、悩みや問題を感じた時、職場の同僚に即打ち明け、先輩の助言をいただいたり、労働組合で学習会を積み重ねたりした結果だと思います。

 若い頃、漢字練習の宿題に丸付けをしていた時、読みづらい字で毎回2,3ページ書いてくるノートを見て「何でこんな字で2ページも3ページも書くのかしら。1ページを丁寧に書いた方が・・・」とぶつぶつ言っていたら、隣のベテランの先輩が「いやあ、こんなに頑張って書いてきてるんだから、その努力に花丸を付けてあげさいん」と言います。

 「この字に花丸なんてあげられません」「いいから花丸あげてみさいん」。渋々花丸を付けて翌日渡しました。そうしたらその子は「やったあ、先生から花丸もらったあ」と、みんなにその花丸のノートを見せて歩いたのでした。喜びいっぱいの姿を今でもはっきり覚えています。その子はどんどん字が上手になり、書き初めの代表候補に上がるほどに変身しました。

 それ以来、頑張ったことを見つけては、きちんと認め褒めるという姿勢が、少しずつ身に付きました。失敗は温かく許し、いいことをしたらノートや連絡帳に花丸を付けて、保護者にも子どもの努力が伝わるように工夫しました。

 子どもを一度たたいたことがありました。その時は「おうちの方に、私にたたかれたことを話して。私もお母さんに、たたいてしまったと電話を入れますから」と言いました。すると子どもは「僕が悪いからいいです」。「どこが悪いと思うんですか」と、子どもと話し合いました。

 同僚にも校長先生にも伝えました。校長先生は「保護者から連絡があったら、俺も責任取るから」と、一緒に考えてくれました。

 学級で問題が起きたら、担任と子どもと保護者、さらには職場の同僚や校長先生とすぐに取り組んで、学校で解決することが大事です。だから、いじめ問題を行政トップの市長主導で、というのはいかがなものかと思います。
     ◆    ◇    ◆    ◇
 同じ日に、連載「みやぎ考 17宮城知事選」④「広がる学力格差、遅れる子どもへの支援-教育環境不均衡続く」という記事も載っていました。先生方が余裕を持って丁寧に指導でき、子どもたちは安心して学べる環境づくりに、県、市ともに今すぐお金を十分出してほしいです。「子どもは宝」という言葉が本物になるように。子どものかけがえのない命を守るために。

  投稿を読みながら、幸子先生が地域や保護者の方々と手を繋ぎ協力し合いながら、さまざまな授業づくりをされていたことを思い出しました。

 続いている中学生の自死に心を痛めながら、その解決のために何が必要なのか、できるのか。一人ひとりの思いや取り組みを出し合い、話し合うことが、まずは大切なのではないでしょうか。そのようなことのできる職場や学校であることが必要です。
 教育行政は、そのために何ができるのか。その条件整備に是非とも力を入れてほしいと思います。( キヨ )

文科省と道徳と、そして忖度をめぐって

 森友学園加計学園、どちらも総理近辺が絡む大変な問題だが(本人たちは至ってそうは思っていないようだ。そこが恐ろしい)、しかし未だに真相はみえてこない。真相はみえないが、国会周辺で繰り広げられている大人たちのやり取りを見ていると、この社会のいじめの縮図や、子どもたちに道徳教育が必要だとその必要性を訴えているはずの偉い方々の醜態だけは十分みえてくる。なんとも悲しいことだ。

 森友学園の籠池さんのところには、少し前に大阪地検の家宅捜索が入った。それに対して国策捜査だと籠池さんは噛みついた。一方、加計学園の方は、ほとんどこの問題について当事者であるにも関わらず発言を控えている。誰かからのアドバイスでもあったのだろうか?(しかし、『文春』の下村博文元文科大臣への政治献金疑惑については、早々にコメントを出した。この早々の対応も逆に怪しく見えてしまうのですが)。

 両者の対照的な立ち振る舞いを見ている子どもたちは、きっとその経過から、ああやっぱり強い者には従えだよなあ。楯を突いたらろくなことにならない。余計なことは言わないで、見て見ぬ振りで通さなくちゃ、そうしないと大変なことになる。子どもたちはそういうことを暗黙のうちに感じて、ちゃんと学ぶ。

 来年から小学校で教科に格上げされた(?)道徳の授業が始まるが、よもやこのような価値意識を子どもたちに育てたいとは思っていないと考えたい。ただ一方で、文科省は、今回の道徳の授業のあり方について、「答えが一つではない課題を一人一人の児童生徒が道徳的な問題と捉え向き合う『考える道徳』『議論する道徳』への転換を図る」と述べている。とするなら、今回のこれらの出来事をうまく読み物としてアレンジ整理し、反面教師的に授業の教材として使うことはできるかもしれない。社会に蔓延するいじめの構図がみえてくる教材としては面白いのではないだろうか。思い起こすと、今回の道徳の導入のきっかけは確か「いじめ」だったよね。今の内閣府・官邸と文科省のやりとりを考えると、文科省の方は多いに賛意を示してくれるかもしれない。

 そうそう、その際に授業で学ぶべき内容項目のキーワード(徳目)は何になるのだろうか。「善悪の判断」「希望と勇気、努力と強い意志」「親切、思いやり」「相互理解、寛容」「公正、公平、社会正義」・・・。どのような視点から、どう子どもたちと向き合うかでいろいろ考えられそうだけど・・・。逆に焦点が拡散してぼけてしまいそうだから、いっそのこと新たなキーワードとして「忖度」も入れてみるのはどうだろうか。その方が、一つのキーワードでいろいろ考えられていいかも?

( キヨ )

戦争をなくす最良の方法

 第一次大戦後10年ほどたったころのことだが、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムなる人物が、「戦争絶滅受合法案」という法律案をつくって各国要人たちに配布したという。その案文の全文は以下になる。

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち左の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。

一、国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず、尤も男子たること。

ニ、国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。

三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。

四、国民によって選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。

五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。

 これは、「完本 一月一話」(岩波書店)からの転載である。著者は淮陰生。

 著者は、「これは、かつて長谷川如是閑らがつくっていた月刊誌『我等』の巻頭言に如是閑が書いたもので、フリッツ・ホルム大将など聞いたこともないから、ユーモリスト如是閑の戯文でないかと疑っている」と言い、「それはともかく、愉快ではないか」と加える。

 よんだ私も大いに愉快であり、何かの折に使いたいと思って付箋をしていた。この法律案が国連で批准されることがあれば、世の中から戦争はなくなることまちがいない。平和な地球実現にこれを超える案はないのではないか。

 (いつか使いたい)と思っていたのだが、キョウボウザイが実施されると、こんなことを書くことで、身が危うくなるのではないかと心配になり、急いで知らせておこうと思った。

 この法案に関して思ったことは、如是閑のようなペンで闘う知識人・ジャーナリストが増えてほしいということである。如是閑らの月刊「我等」は数千部しか出なかったが、知識人たちの良心の砦として渇仰の的だったらしい。活字は読まれないと言って諦めていてはいつまでもいろんな場面での「戦争絶滅受合法案」は創造されない。( 春 )

道徳教育関連資料を、ぜひご活用ください!

 研究センターは、2年ほど前から道徳教育についての研究会をひっそり地道に続けてきています。研究会では、太田直道先生から戦前の教育勅語や修身による道徳教育の始まりとその変遷、そして戦後の道徳教育をめぐる議論や経過について丁寧な報告がされてきました。

 それらをまとめて、すでに4月にはホームページに「戦前日本の道徳教育」を掲載しましたが、今回はさらに「戦後日本の道徳教育」を掲載することになりました。戦前から戦後これまでの道徳教育にかかわる様々な資料を読むことができます。

 全体の構成など不十分なのですが、来年度より道徳が教科として本格的に実施されることを踏まえて、少しでも早く多くの方にご活用いただければとホームページに掲載することにいたしました。

 なお本資料は、不十分な点などに手を入れて、後ほど改訂版を掲載するつもりでおります。その点ご了承の上で、活用いただければと思います。

道徳の教科書って? 教科書展示会に行ってみよう!

 テレビやラジオで話題になったりしているので皆さんご存知かもしれませんが、来年度から小学校で道徳の授業が、教科として行われることになります。

 教科としておこなわれるということは、教科書を使って、もちろん成績評価も行われることになるんですよね。道徳を評価するってどういうことになるんだろう? 心のありようを評価するって・・・? 国語や算数なら計算ができたとか問題が解けたとか、四則計算や面積の求め方が理解できているとか、そういうことが評価になっていくんだろうけど・・・。道徳の場合も、同じように授業をして評価することになるんだろうか。何を、どう評価するんだろう。なかなか難問のような気がするのは、私だけでしょうかね。先生たちも大変です。

 そして今年は、小学校の道徳の授業で使う教科書採択の年となっています。 そのために、県内各地で各教科書会社でつくった教科書の展示会が行われます。すでに仙台市では展示会が始まっている会場もありますが、県内各地の多くの展示会は今日(6月16日)から多くは今月いっぱいの日程で始まります。ぜひ展示会に行って、どんな教科書で子どもたちが学ぶことになるのか見てきましょう。そして、アンケートに感じたことや考えたことを書きませんか。

 県内の展示会会場は、以下の通りです。(なお、会場の都合により開催期日が異なる場合がありますので、詳細はそれぞれの会場にご確認ください。)

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春さんの投稿、またまた「持論時論」(河北新報)に載る

 昨年は、「真の子どもの幸せ 尊重する心も育成必要」とのタイトルで、春さんの投稿が「持論時論」に掲載されました。今回は、6月2日付けで「学習指導要領改定 教師は創意工夫重ねて」と題し掲載されました。

 春さんはシャイなので、6月2日以降も何度か顔を合わせているのに、そのことをまったく言わないのです。だから気づきませんでした。知り合いの方から春さんの投稿が載ったよと教えてもらったのです。すでにお読みの方もおられると思いますが、ここに改めて掲載します。ぜひお読み下さい。

 学習指導要領改定 教師は創意工夫重ねて

  小中学校の学習指導要領が改定され、小学校は2020年度から、中学校は21年度全面実施される。学校教育はよくなるだろうか。私にはそうは思えない。
 学習指導要領は国によって作られ、学校教育を事実上縛っているものだが、現場はそれほど危機感を持っていないかもしれない。教科書は学習指導要領に沿ってつくられ、多くの教師はその教科書に忠実であることが仕事だと思っているだろうから。
    ◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 教師は熱心であればあるほど、決められたこと、限られた狭い世界や価値観の中に子どもを囲い込むことに懸命になり、それが成功すると仕事がうまくいったと思いがちである。私もそうだった。目の前の子ども一人一人は同じではないということをすっかり意識の外に置いてしまい、熱心な教科書教え屋になり、その指導書通りに進めたのだから間違いないと思ってしまう。それを私は危惧する。
 教師は常に、教科書の指導方法に加え、もっと適切な教材、指導法はないかと絶えず問い続けなければならない。それにブレーキをかけているのが学習指導要領だ。学習指導要領はほぼ10年に1度改定される。そんなに頻繁に変えられることがそもそも問題だ。
 1947年、戦後初めて「学習指導要領一般編(試案)」が出された。
 それには「これまでの教育では、内容を中央で決めると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様に当てはめていこうとした」「教育の現場で指導に当たる教師の立場を、機械的なものしてしまって、自分の創意や工夫の力を失わせ、ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり・・・」と書かれていた。
 実践参考例も挙げられてはいるが、文部省(当時)は参考例を超える実践を学校と教師に期待した。だから学習指導要領は「試案」だった。行政として基本的な願いは示すものの、具体的な実践は学校、教師に託したのだった。
 しかし、現在の学習指導要領は細部まで書き込んで、内容の徹底に力を入れ、教師の創意への期待はどこにも見られない。敏感な教科書会社は、国の意をくんだ教科書を競って作る。教師もまた、それを期待されていると思い込んで、子どもの前に立つ。
 現在の学習指導要領が学校、教師を縛っていることは明白だ。それに全国一斉学力テストが追い打ちをかけている。それが、教師だけでなく子どもたちからも生気を抜きとり、学ぶ意欲までも喪失させている。
    ◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 人として成長するために、それぞれの時期にどんな過ごし方をすればいいのか。それに応えることを期待されているのが学校、教師であり、応えるのが教師の生きがいでもあるはずだ。
 問題の多い今の学習指導要領から、原点に返ることが求められる。そのために、教師は苦しくても、教科書と指導書を超える実践を積み重ねるべきだ。改定学習指導要領下であっても、それは子どもたちのためになる。

 研究センターも、先生たちにエールを送るとともに、授業づくりの力に少しでもなりたいと思っています。今年も昨年に引き続き、まずは夏休みに国語の講座を行う予定でいます。詳細が決まり次第、ホームページ、diaryでお知らせします。