mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

大丈夫? 教育委員会

 5月の中旬、仙台市教育委員会が主催する「確かな学力育成プラン」検討委員会を傍聴しました。この検討委員会は、仙台市が策定した「第2期仙台市教育振興基本計画」や、3月に告示された新学習指導要領などにあわせて、今後5年間の学力育成の方向性を示すプラン策定のものです。すでに6回の会議が行われ、傍聴したのは7回目でした。

 今回の委員会は、事務局が作成した原案にもとづきながら、これまでなされてきた議論を踏まえての中間案の修正・討論が行われました。
 以下は、そこでの話し合いを聞いていて感じたことです。

 1つは、朝食と学力についてです。教育委員会は、《大学の研究によって朝食を食べると学力が上がることが立証された》と喜々として説明しました。大変うれしそうです。でも、以前から「はやね・はやおき・あさごはん推奨運動」など朝食の大切さは言われてきたこと。また実験するまでもなく、経験則としても規則正しい生活が、学力のみならず健康で充実した生活を送るために大事なことは、少し考えればわかることではないでしょうか。あえて、そんなに騒ぐ事とは思えませんでした。
 話を聞いていて気にかかったのは、朝食という食事のもつ意味や役割が、学力という視点でしか見られなくなっていくことへの不安です。食事が、「〇〇のための」食事に変質していくことで、食事そのものの豊かさや大切さが見失われていっているのではないでしょうか。食事を「学力向上のため」のサプリメントのように語る、そういう語りに一抹の不安を感じました。本当に議論すべきことは、朝食を採ることができない背景や原因を明らかにしながら、どのような支援が求められるのかを究明することではないでしょうか。

 2つ目は、子どもたちの学習意欲が低い理由に、学力テスト対策として行われてきたドリル学習を挙げました。学力テストが導入されて以降、多くの学校では春休みに宿題を出すようになったり、事前に同様のテスト問題に取り組んだりと、ドリル学習だけでなくさまざまな対策が行われてきました。そのようなテスト対策の弊害を指摘したことは、これまでにない一歩踏み込んだ発言として評価できるように思いました。
 ただ問題は、学力テスト対策として行われているドリル学習の弊害を指摘する一方で、検討委員会が学力の指標として頼りにしているのが、その学力テストの平均点という皮肉な状況です。結局は教育委員会自体が、学力テストの点数に一喜一憂しているのです。学校現場がそうなっても仕方のないことではないでしょうか。
 学力向上のサプリメント的朝食の把握といい、教育委員会自らが学力テストの平均点に一喜一憂しておきながら、学校現場には学力テストで一喜一憂するなと戒める滑稽さといい、教育委員会はどこを向いて、何を見て仕事を進めようとしているのか気になりました。

 知育偏重と言われ、それが子どもの成長や発達を歪めると批判された時代がありましたが、今はそのとき以上の知育偏重になってはいないでしょうか。教育や学校の目的や果たすべき役割は何か? 教育委員会だけでなく、私たち自身ももともとのところから真剣に考えていかなくてはならないと思いました。( キヨ )

教師の非正規、これでいいの?(今日の朝日新聞から)

 今日の朝日新聞朝刊に、日教組による「非正規教職員」についてのアンケート調査結果が載っていた。 
 その一つひとつは私にとっては驚くべきものであった。
 アンケート結果ではないが、もっとも驚いたのは次のことである。

 非正規で働く地方公務員のうち、教員・講師は2016年で9万2671人。05年からほぼ倍に増え、非正規公務員全体より伸びが大きい。

 学級編成や教員の数を定める義務標準法が01年に改正され、国が負担する正規教員の予算で非正規を採れるようになった。04年には総額裁量制が導入され、国が決めた総額の範囲なら、自治体が教員の賃金や採用数を自由に決められるようになった。

  こんなことが決まっているなどとは知らなかった。「国の決める総額」とはどのような決め方なのか。そして、宮城県はそれをどのようにしているのだろうか。
 少なくとも、私たちの現役時代、これらのことはすべて教職員組合との交渉事項であった。この「総額裁量制」というのは、交渉の結果決まったものなのか。まさかそうではあるまい。

 記事は、非正規教員がいかに冷遇されているかが詳しく報告されている。
 なんと、九州の40代の女性非正規教員は「教員として働いているのに、就学援助の対象になった年もあった」という。
 岩手の中学校で非常勤講師として働く30代の女性は「時給千円、ボーナスなし」とのこと。
 賃金の問題は、どんな仕事でも働く内容と大きく関わるはずだ。教員で言えば、子どもらと無縁のことではない。

  この記事を読みながら、昔のことを思い出した。1学年6クラスの大きい小学校にいた時である。休職の代替講師が2人来ていたが、当時、講師にはボーナスはなかった。それで私は「2人の仲間がいてくれたのでオレたちはずいぶん助かった。講師にもボーナスが出るように今後も運動をつづけることにし、今回は、オレたちのボーナスからカンパを出し合わないか」と訴えた。賛成を得たはずであったが、2~3日後、授業中呼び出しがあり、その場に行くと、主任たちがずらりと並んでいて、その中のひとりが「講師にボーナスが出ないのはそう決まっているのだから、カンパの提案は取り消すべきだ」と言うのだ。他の人たちは黙っている。

 それで、「全体の席で言ったが、それは取り消して、同意してくれる人のカンパにする」と答えて教室にもどり、ボーナス日はそのように運んだ。ほとんどの方がカンパしてくれた。
 その後、それほどの年数をおかずに、講師にもボーナスが出るようになったと記憶している。今は昔のことである。

 子どもらによい教育をするための環境整備はたくさんある。それがおろそかにされていることは大いに気になるし、それをそのまま黙っていることもまた大いに気になる。( 春 )

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気が早いですが、今年度の高校生公開授業は 中村桂子さんです!

 1月の樋口陽一さんによる高校生公開授業を終えて、ほっとしているのもつかの間、今年度は誰にお願いするか? 事務局会での話し合いを経て、昨年1月に講演をいただいた中村桂子さんにお願いすることに。しかし誰にお願いするか決まっても、実際にその依頼を受けてもらえるか? また受けてもらえたとしても日程や会場の確保、さらには高校生の年間スケジュールとにらめっこして高校生が参加できる時期かどうかなど、最終的に授業者が決まり、全体が決まるのは毎回なかなか大変です。
 ところが今回はどういうことでしょう? 日ごろの私たちの行いがよかったのでしょうか? トントン拍子で話が進み、中村桂子さんからは快諾をいただきました。

 開催日は、12月2日(土) フォレスト仙台ビル 2Fホールで行う(予定)です。まだまだ先の話で、チラシも何もできていません。うれしいやら早く知らせたいやらで、思わず書いてしまいました。今から私たちもわくわく、どきどきです。詳細が決まり、日が近くなってきましたら、改めてホームページやdiaryでお知らせします。みなさん、ぜひご期待ください。

 そういえば、今年4月16日の朝日新聞読書欄「著者に会いたい」で中村桂子さんの新刊『小さき生きものたちの国で』が紹介されていました。生命誌研究者としての中村さんの歩みだけでなく、中村さんの小さい頃の出来事や思い出、恩師との出会い、科学者としての願いなど、中村さんの人間としての多彩で豊かな魅力が語られています。研究センター発行のブックレット『生きものとしての人間から自然と科学を問う』中村桂子 著)とともに、ぜひお読みください。おすすめです。

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何度も読み直す本、そして読み落としていたところ

 仕事に行き詰まったり、これでいいのかと自分を見つめ直すとき、時々書棚から取り出して読み直しをする本が何冊かある。その中に文庫本で村井実著の「もうひとつの教育」(小学館)がある。何年も何年も前、春さんがこの本を使って職場で輪読会をしていると紹介していただいた本である。その中に最近になって読み落としていた部分があることを発見した。
 年輩の方ならきっと誰もが口ずさんだことがある『村の鍛冶屋』という唱歌について記している部分である。1番から4番まである歌だが、ボクは1番だけを読み、ああ、あの歌だなと2番以下を読み落としていたのである。そのまま紹介する。

 

 1 しばしも休まず 槌打つ響き/飛び散る火の花 走る湯玉
        ふいごの風さえ 息をもつがず/日ごとに精出す 村の鍛冶屋
 2 あるじは名高き 一国おやじ/早起き早寝の 病知らず
        鉄より堅しと 誇れる腕に/まさりて固きは 彼が心
 3 刀は打たねど 大鎌小鎌/馬鍬に作鍬 鋤(すき)よ鉈(なた)よ
        平和の打ち物 休まず打ちて/日毎に戦う 懶惰(らんだ)の敵と
 4 稼ぐに追いつく 貧乏なくて/名物鍛冶屋は 日々に繁昌
   あたりに類なき 仕事のほまれ/槌打つ響きに まして高し

 

 村井氏は、肥後守(折りたたみ式のナイフで私たちが子どもの頃は男子ならほとんど持っていた)の産地である三木市の、ある鎮守の森の中でこの歌詞が石碑に刻まれているのを見つけた。その時、道案内をしてくれた教育委員会の方の話だと、昭和52年に文部省の意向で、この唱歌は教材としてふさわしくないという通達を受けたという。理由は今や日本中にこのような鍛冶屋がなくなったからだという。

 さて、ここでボクが読み落としていたのは、3番の歌詞である。そして昭和52年当時、この国ではどんなことがあった時期かを考えた。教育年表を繰ると、第五期の学習指導要領改訂の時期で、道徳教育の重視が書かれている。この後には国旗・国歌の指導が強化されていく。そのように考えたとき、3番の『平和』の文字がボクには光ってみえる。これこそが文部省がふさわしくないとして教材から外した真意ではないかと思うのだが。そして今、道徳が教科に位置づけられ、さらに教育勅語が国会で議論される。

 冒頭の春さんの輪読会の話からもう一つ思い出すことがる。当時は週6日で土曜日の午後はどの職場でも、昼食をはさんで職員室の一角でおしゃべりをしあうのが当たり前の光景だった。子どもの話、授業の話、政治の話、映画の話と、話題は尽きなかった。今の職員室にこのような時間と空間があれば、いじめをはじめとする今日的な問題のいくつかは解決できたのではないかと思うのだが、いかがなものか?

 ついでながらセンターで月1回開催中のゼミナール哲学sirubeは、6月からペスタロッチに入る。「もうひとつの教育」の中でも、村井氏はペスタロッチに多くのページを割いている。どんな太田ゼミになるか楽しみである。
 久しぶりの投稿で、ついつい欲張って書いてしまったようだ。<仁>

広辞苑「いじめ」見出しの登場と、教育の歩み

 「いじめ」という文字が新聞の見出しに頻繁に登場する。

 それが、中学生を自死にまで追い込むとすれば、他人事ですますことではないから新聞などに見られるのは当然のことであり、その根絶への取り組みは急務である。

 「いじめ」という言葉を耳にするようになったころ、なんとなく(これまで「いじめ」なんて言葉を聞いたことがなかったなあ)と思ったことが記憶にある。
 「いじめる」「いじめられる」など動詞ではそれまでもふだんの言葉として身の回りで使われていたし、自分でも使ったことがあるが、「いじめ」という名詞での使用の記憶は思い出せなかったのだ。それで、辞書をいろいろめくってみたことがある(もしかすると、以前この欄で触れたかもしれない)。

 すると、手元の「広辞苑」が私の疑問に応えてくれた(そう言い切っていいかどうかはわからないが・・)。
 1983年11月(昭58年)に出ている広辞苑第3版では、「いじめ」は見出し語としては出ていない。ちなみに、「いじめる」は出ていて「弱いものを苦しめる」と説明している。
 その後の広辞苑第4版は8年後の1991年11月(平3年)に出されているが、その第4版になって「いじめ」は初めて見出し語になって出ていたのだ。その説明は、「いじめること。特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛みつけること。」とある。「いじめる」もあり、その意は3版と同じであった。 

 広辞苑を絶対視するわけではないが、広辞苑は辞書と言ってもその時々の社会の動きに特に敏感に反応しているように思うことを考えると、この広辞苑の3版と4版の事実から言えば、3版の出た1983年11月までは、「いじめ」と言われる事実はあったにしても見出し語のひとつとして取り上げるほどではなかったととることができ、それが4版で取り上げざるを得ないようになったのは、80年代になってからのそれまでと違う動きからきていると言えそうだ。しかも、その意に「特に学校で」と使っていることから言うと、「いじめ」は今も学校の場に特有のものであることのようだ。(私は、そう言い切ることについては異論をもつし、「いじめ」があったかどうかの調査や議論で済ませられるものではないと思っており、過去の私の教室でのことでも、今も自分の中にオリのように沈んでいるものがある。これらは、また近いうちに触れたいと思う。)

 なぜ80年代なのか。そして、80年代はどんなことがあったのだろうか、教育関係の動きを主にちょっと年表をのぞいてみる。

80年  教科書偏向攻撃再燃  教科書検定強化 「荒れる中学生」現象

81年  校則強化、管理主義教育強まる  教師の体罰急増

82年  教科書検定(侵略―進出問題)国際問題化  

84年  臨時教育審議会設置 「いじめ」・自殺の急増

85年  文部省「いじめ」問題指導充実について通知 「校内暴力」再燃

87年  臨時教育審議会最終答申

89年  初任者研修開始
     学習指導要領改訂(生活科設置、中学選択拡大、国旗・国歌強要)  

90年  (高校進学 95・1% 大学・短大進学 36・3%)

91年  第14期中教審答申(高校多様化、入学者選抜制度改革など)

92年  学習指導要領改訂(「新学力観」の画一的押しつけ)

93年  「いじめ」件数激減(文部省調べ)

 ちょっと並べてみただけの略年表の中に「いじめ」という言葉は84年に出ている。自分を振り返っても、80年代は、学校の変化の大きかった時のように思う。そのなかで「いじめ」が年表にも出てきて、今も変わりないどころか、仙台ではここ3年、生徒の自殺者まで出している。「いじめ」という言葉の陰湿な響きは、「学校」ともっとも相いれないものに思うが、それが、長年つづくということを、過去になった私らも他人事にせず、教育関係者は総がかりで真剣に考えなければならない。一片の通達ごときで解決するものではないことはまちがいないと思う。

( 春 )

学習会の案内 パートⅡ                (ゼミナールsirube 特別企画『能の世界への案内』)

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 ゼミナールsirubeでは、古代ギリシャから現代までの教育哲学・思想の歩みについて読書会を行っています。もうかれこれ何年になるでしょうか・・・。この読書会でご指導くださっている太田直道先生(宮城教育大学名誉教授)、実は哲学研究者の顔のほかに能楽師としての顔もお持ちです。7月に行われる「第36回市民能楽講座 能楽講演」にも能楽師として出られます。

 そんなことから今回は特別企画として、太田先生に『能の美学』というタイトルでお話いただくことになりました。ぜひ興味関心のある方はご参加ください。

(なお、ゼミナールsirubeに今回初めて参加するという方は、会場準備の関係もありますので、当研究センターまで事前にご連絡ください。)


ゼミナールsirube特別企画
『能の世界への案内』

  • 日 時 5月29日(月)13:30~16:00
  • 会 場 みやぎ教育文化研究センター
  • 参加費 無料

学習会の案内 パートⅠ(道徳の教科化について)

 昨日、帰りの車のなかでラジオに耳をかたむけると、来年度から小学校で本格実施となる「特別の教科 道徳」についてのやり取りが聞こえてきました。ラジオでは、道徳の教科化で、教科書が使われ一定の道徳的な枠組み(価値)が教えられることや、子どもたちの内面を評価をすることなどが話題となっていました。

 この「道徳」の教科化についての学習会が、今度の日曜日(5月28日 13:30~ フォレスト仙台2F  第7会議室)に行われます。講師は、子どもと教科書全国ネット21の常任運営委員の石山久男さんです。ラジオで話題となっていたような点も含め、今回の道徳の教科化のねらいや課題、問題点についてお話しして頂けることと思います。ぜひご参加ください。

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