mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

教育や学校が大事にすることは ⁇

 過日の国語学習会で、私に与えられた時間と役割は限られており、他のことに時間をとったら、役割を果たせなくなることを承知の上で、とうとう自分を抑えきれずに、冒頭で直接関係のない(?)ことをしゃべってしまった。雑誌「世界」12月号「移民社会の〈闘う民主主義〉」(辛淑玉文)の中の次の部分を紹介し感想を付したのである。

 ~~ある日本人駐在員の子どもがドイツの小学校に入学したが、得意なはずの算数の成績が悪かったという。親は差別されていると思い、学校に抗議に行った。学校側は、「授業は生徒と教師が一緒に作るものです。答えが合っているだけでは授業に参加したことにはならないのです」と答えたという。つまり、3+5=8という答えを出したとき、どのような考えでこの結果に至ったかの説明が求められるのだ。正解することよりその説明ができることのほうが重視される。そして、分からないときは「分からない」と伝えることが大事なのだ。
 その学校の対応に、母親は「まだドイツに来たばかりで言葉が不自由だから」と言ったが、学校側からは「他の国々から来た子どもたちはもっとドイツ語ができません。それでも彼らは授業に参加しています。あなたのお子さんは、教室には来ていても授業に参加していないのです」と、きっぱり言われたそうだ。
 真面目に出席したから100点なんて発想はここにはない。黙って座って良い点を取ることではなく、「なぜ?」を考えて道筋をつけることが重要で、そこから人間としての想像力が生まれる。民主主義は参加することから始まる、と教育関係者は口をそろえる。~~

 私は、つねづね、日本の教育に強い危機感を抱いており、それを考えてもらうのに格好の材料と思い、紹介せずにはおれなかったのだ。
 学校に抗議に行った母親は、今の日本では、決して特別な方とは言えず、多くの教師もまた同様ではないだろうか。

 いつの間にかすっかり定着してしまい、そのことに対処することが、学校の、教師の、第一の任務になっているような国が行う「全国学力テスト」。それは、都道府県、市町村別の平均点のランクで、教師を、子どもを、そして親までをも縛りあげる。いつの間にか、そのために、ドイツの教師の言うことの大事さを承知しながらも、教師は、そこに力点をおいてしまう。
 教科書も採択制にはなっていても、この全国学力テスト体制が定着していけばいくほど、どの教科書会社も採択部数が会社のイノチになるので、創造的な教科書は生まれるどころか、限りなく特色、創造性は失われ、「国定教科書」に近くなってくるのではないか。

 このようにならないように、世の流れによっては、他の省庁と、体をはっても「教育」を守らなければならないのが文部科学省なのであろうが、これがまた推進するのが任務と思いこんでいるのだから、どうしようもない。
 この、ドイツの話は、現在の日本の教育を考えるに決して小事ではなく、少なくとも直接教育に携わる人々は子どもの「大事」と受け止めてほしい。

 議論の巻き起こることを切に望む。( 春 )