mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

吉野弘さんの『争う』から、妄想する

 吉野弘さんの詩に「争う」という題で、「静」と「浄」という2つの漢字について語ったものがある。それぞれの漢字の中に「争」が隠れていることに着想を得て、その漢字の持つイメージを鮮やかに一気に押し広げてくれる。「静」については、こんな具合だ。

   

 青空を仰いでごらん。
 青が争っている。
 あのひしめきが
 静かさというもの。

 見上げた真っ青な空の広がりに感じる静寂と孤独。その静かさのなかに、それとは相反するような青の「争い」の情景を観てとる。それまで静かで一様に広がり見えていた空の青さが、動的でひしめき合うものとして見えてくるから不思議だ。その争いのひしめき合う音さえも、青空の奥から聞こえてくる気さえする。
 実は『くらしとことば』の中で、吉野さん自身が、この詩について次のように語っている。

 「青が争う」となぜ「静」なんだろうと思われるかもしれない。確かに「争い」が「静かさ」をつくり出すなんて理屈に合わない。
 それで私は、青空を仰いでごらんとだけ云いたい。そこには、青が争っていないだろうか。青がひしめきあっていないだろうか。青が渦巻いていないだろうか、そしてそれが、張りつめた静かさとして、空に満ち満ちているのではないだろうか。
 空の青さは、決して青ペンキをぬった一枚の板ではない。底知れぬ深さをもち、嵐の海のようにひしめきあい、争うことで、あの美しい青さをつくり出している。
 波立っている海も、高い上空から見下ろすと一枚の青い鏡である。空の青さも同じ理屈なのではあるまいか。
 私は青空を仰ぐたびに「ああ 青が争っている」と思う。
 「静かだなあ」と思う。そして、「静」という文字をつくづく、うまく出来ている文字だなあと思う。

 吉野さんは青空のなかに静を観る。そのイメージの広がりはとても素敵だと感じる。そのイメージの広がりを作者に断りなく拝借して妄想する。空と海の接する水平線にそれを置き換えて観たらどうだろうかと。空の「青」と海の「青」、その二つの青が水平線で接して争っているというように。天候などで海は荒れても、水平線そのものは案外静かで穏やかにみえるものだ。さらに妄想するなら、空の青と海の青との争いは、そのあまりの激しさに夕やけという真っ赤な血を流すことさえあると。ちょっと妄想しすぎですね、失礼しました。(キヨ)