mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

衆議院選挙 と 国民のミナサマ

 「国民のミナサマ」のガナリ声がテレビに街頭にあふれる時が間もなくやってくる。いや、もう始まっている。宮城の場合、「県民のミナサマ」の声と交錯するのだろう・・・。
 「ミナサマ」の中に自分も入っていると思うと、耳にするたびにくすぐったくなるが、くすぐったいぐらいで済むなら我慢もできるが、ほんの一時の間であろうと、つゆほども思っていないのに「サマ」をつけられていると思うと、耐えられたものではない。腹の中では(オレも「こんな人たち」のひとりに入る)のだろうに・・・。
 それにしても今度の選挙は始まる前からグチャグチャではないか。何のための解散・選挙かまったくわからない。政権党の都合だと言われる。確かにそれしか考えようがない。「これは国民に問わなければならない」という「これ」がわからなくてどうすればいいんだ。おそらく(そういうヤツは投票しなければいいんだ)と思いつつ「国民のミナサマ」と連呼するのだろう。
 そして、新党騒ぎ。政権与党に勝手なことをさせないという願いには賛成だが、そこで使われる言葉や策略はオレの居場所とはあまりに縁遠い。「排除」「刺客」・・・、おお、こわっ!
 作家の野上弥生子さんに次のような文があった。

 新聞紙をひろげても、外国電報や政治記事の方へまず眼を通すのは長い習慣である。行と行のあいだの、印刷されない活字を探ろうとする気持は、いまでも、この間の戦争当時と変わりはない。どうもこれは、少女時代の対政治への疑いの持続であり、また戦争に対する私の生理的に近い戦慄と恐怖も、母譲りのものらしい。こうはいったところで、私はガンジー流の無抵抗主義が守れるとは思わないし、また一方の頬を打たれたら、片一方の頬をさし出せと説いた崇高な徳の信奉者になり得るとも信じない。私は3人の息子をもつ。・・・・

 長くなるので写しは止めるが、野上さんの言う「行と行のあいだの、印刷されない活字を探ろうとする気持ち」「対政治への疑い」を私たち一人ひとりが強くもつことだけが世の中をよくするのだと思いこみたい。いっとき「サマ」などをつけられてグラグラしてはいけないと自分に言い聞かせている。選挙を通して自分が鍛えられなければ!!( 春 )