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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

平和、友好に必要なのは ?

 4月19日の新聞(朝日)に、「内閣府のホームページから災害教訓の報告書を、関東大震災時の「朝鮮人虐殺」記述への批判の声が多く削除した」という記事が載っていた。こういう記事を見たり、話をきいたりするたびに憂鬱になる。なぜもっと仲良く生きていけないのか。

 テレビは連日、北朝鮮とアメリカとのきな臭い話がつづいている。そのさなかアメリカの副大統領が来日。「平和は力によってつくられる」と言ったとか。『平和』について私のもっているイメージとのあまりの違いにあきれてしまう。

 これらのことが私に、以前読んだ心地よい話を思い出させた。

 辰濃和男さんのエッセー(2000年出版)の中にあった「ドイツ兵捕虜の遺産」で、四国遍路一番霊場霊山寺の近くにある「ドイツ館」にまつわる話である。
 著者は、その初めに次のように書いている。 

 「国際交流」とか「民際交流」とかいう言葉がはやらなかった80 年ほど前の話だ。このドイツ館のあたりで、捕虜だったドイツ人と土地の人の間に通い合う友愛があった。

 当時のドイツ兵捕虜のひとりがのちに土地の人に手紙を書いている。 

「私たちは捕虜でした。皆さんは戦勝国の国民でした。にもかかわらず私たちは心を通わせ、強く結ばれていました。友愛という一つの心に」

この話は、どういうことなのか、簡単に説明する。

 第一次大戦において、中国での5,000名近いドイツ兵の捕虜を国内に送り、この霊山寺近くの収容所には約200名、やがて1,000名にまでなり、約3年間暮らすことになる。

 収容所の所長は松江陸軍大佐。松江は捕虜にかなりの自由を与えた。小さな別荘を建てることも許した。遠足もあった。途中での水浴び、水泳も黙認した。水泳大会を開くこともあった。所内にはボーリング場もあった。オーケストラも編成された。土地の青年たちで楽器を習いたいという希望が出て、「音楽教室」ができた。菓子職人だったドイツ兵が土地の人に菓子つくりを教えた。その他いろいろの交流があるが略す。
 土地っ子たちは、親しみをこめて捕虜たちを「ドイツさん」と呼び、ドイツさんとよく遊んだ。
 捕虜のひとりは、「松江所長が私たちに示した寛容と博愛と仁慈の精神を私たちはみな決して忘れない」と言ったという。

 第2次大戦後、引揚者のひとりが雑草に覆われたドイツ兵の墓を見つけ、十数年、花を供えつづけた。それを新聞で知ったドイツ大使が墓参りに来た。それがドイツの新聞に載り交流が再開、「ドイツ館」が建つまでになったという。

 いい話だ。私にこの話を教えた人はいない。辰濃さんの本を読まなければ知らずに終わったことになる。

 えっ? 松江大佐はどうなったって? そこには触れずに終わりにしたかったのに。
 仕方ない。辰濃さんが書いている文をそのまま書き写す。 

 松江大佐のような人は、軍隊では異端者だったのかもしれない。大佐はまもなく少将になるが、49歳で予備役になる。この人事に不満を抱く多くの部下が陸軍省に抗議しようとしたのを松江少将は制止したとも伝えられている。

*「大佐」の定年は55歳、「少将」は60歳ではないかと思う。「予備役」とは退役者をさすので、昇進させながら退役させられたということになるように思う。残念なことだが、それでも、その措置に「不満をもつ多くの部下がいた」ことは救いになる。( 春 )